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利用者:Edit5963/sandbox

植田氏
本姓 讃岐氏
種別 武家
主な根拠地 讃岐国山田郡
支流、分家 十河氏神内氏三谷氏など
凡例 / Category:日本の氏族

植田氏(うえたし)は、日本の氏族。 讃岐国の植田氏は、平安時代後期から戦国時代にかけての武家。讃岐氏の子孫。初期の頃には殖田とも記される。家紋は扇。

概要

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讃岐国の春日川流域に興った土豪で、平安時代末期の源平合戦治承・寿永の乱)の屋島の戦いでは、源氏方で参戦している。室町時代は、讃岐国守護の細川管領家、守護代安富氏の臣下に入り、讃岐国山田郡の領主。代々戸田城を主城とするが、戦国時代になり土佐国の長宗我部元親の侵攻により、落城した。豊臣秀吉軍による四国平定後は、豊臣方に臣従している。

出自

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神櫛皇子(12代景行天皇の第17皇子)の末裔で、讃岐氏(脚注1)の系譜。神櫛皇子の孫の須賣保礼命が讃岐国造となり、その子孫は讃岐ノ直、讃岐ノ公、讃岐ノ朝臣などを下賜され、代々讃岐氏と称されていた。その讃岐氏の庶流が平安時代後期の頃から植田を称するようになっていく。


歴史

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初期

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植田氏は山田郡植田(現高松市東植田・西植田)を拠点し、戸田城を居城としていた。讃岐氏から出た一族が、平安時代後期の頃より次第に武士化し、当時の支配体制である惣領制により、その勢力を強めていったと思われる。同じ郡内で、一族から神内氏、三谷氏、十河氏が分家して、同族武士集団を形成していった。元暦2年、源平合戦(治承・寿永の乱)の屋島の戦いでは若狭允植田信則が源氏の陣に属して戦い、戦功を上げている。 (補足1)

南北朝・室町時代

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室町幕府の成立直後には、細川定禅の兄の細川顕が讃岐守護になっている。(補足2)当時の讃岐の国人の形勢は、北朝方に香西氏、三木氏、宅間氏、寒川氏、南朝方に羽床氏がついていたが、植田氏の動向は定かではない。康安元年(1361年)になり、幕府の内紛により、執事の細川清氏は京から追放される。その後、南朝方に転じて讃岐三木郡白山の麓に陣を置き、兵を募った。植田氏一族の神内次郎景辰、三谷八郎景之、十河首領十郎(3兄弟で植田景保の子)が、これに応じている。貞治元年(1362年)清氏追討の命を受けた従兄弟の細川頼之との間で白峰合戦が起こり、清氏は頼之の陽動作戦で高屋城に居たところを急襲され、討ち死にした。頼之はそのまま讃岐守護に追認され、また土佐の守護にも任じられて、四国管領と呼ばれるようになる。それに伴い、家臣の関東武士の香川氏、安富氏、由佐氏、奈良氏が入部した。東讃の守護代は安富氏、西讃は香川氏が守護代となる。頼之は讃岐を治下に入れ、国人の被官化を進めていった。南朝方であった植田一族も頼之守護、安富守護代の臣下として、これに従うようになる。 応仁元年、管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから始まり、細川勝元山名宗全の勢力争いに発展した応仁の乱が勃発。植田氏、神内氏、三谷氏、十河氏の植田一族も、守護代安富元綱氏の指揮下で出陣し合戦している。讃岐の武将では香川氏、香西氏、奈良氏、羽床氏、長尾氏寒川氏も東軍で戦っている。(補足3)          

戦国時代

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讃岐では統一的な戦国大名は出現せず、諸将が割拠していた。細川京兆家の衰退により争乱状態に入ると、阿波の三好氏が讃岐にも勢力を及ぼすようになってきたが、植田一族は三好勢と結び他の国人と抗争している。その後、土佐の長宗我部氏が次第に勢力を増し、他国へ侵攻するようになってきた。これに対し、植田一族は三好家と結びつきを強め、長宗我部氏の勢力に対抗している。跡継ぎのいなかった十河家では、三好家から三好一存三好実休の弟)を養子に迎えた。天正10年6月2日本能寺の変が起こり、この後長宗我部元親は讃岐に侵攻を始め、天正12年までにはほぼ全域が長宗我部軍によって制圧され た。この時、戸田城も敵陣に包囲され落城している。(補足4)天正13年6月、羽柴秀吉の四国征伐があり、長宗我部氏は敗北し、土佐一国に減封されている。讃岐は戦功のあった仙石久秀に、また十河存保には二万石が与えられた。四国平定後、植田氏は仙石久秀が率いる秀吉軍の九州征伐に従軍したが、島津氏との戸次川の戦いで惨戦を喫した。(補足5)これ以降、植田氏の軍事的行動は途絶えている。    

補足

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  • 1.在地武士との私的な主従関係により西国一帯に軍事基盤を広げ、平氏興隆の礎を築いたと言われる平正盛平清盛の祖父)が、保安2年(1121年)讃岐の国司に遷任。しかし、福原遷都の頃には、平氏に離反する讃岐の武士も出てくる。(脚注2) 「全讃史」では、元暦の頃、植田景時・経時が平氏に従いに忠勤に努めたとあるが、屋島の戦いでは植田信則が源氏方で戦う。
  • 2.鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇の建武政権に足利尊氏が反旗を翻した時、讃岐では臣下の細川定禅がこれに呼応し、喜岡城の守護舟木氏(高松氏)を攻め滅ぼしている。讃岐武士も2派に別れ加勢したが、植田氏は参戦していない。
  • 3.この時、細川勝元(東軍)の兵16万人、山名宗全(西軍)の兵11万人が京都に集結したとも言われている。最も激しかった相国寺の戦いで(脚注3)は、両軍に多くの被害を出している。相国寺の門を守る安冨勢からも多勢の死傷者が出、安富元網・盛継も討ち死にしている。
  • .織田信長は当初三好勢力への対抗で、長宗我部氏とは友好関係にあったが、その勢力が増大したことで、四国政策を転換する。長宗我部氏が毛利氏と同盟するに及び、織田信孝(信長3男)率いる元親征討軍の準備を進めたが、その出陣の前日に本能寺の変が起きた。信長の牽制が無くなり、元親は四国各地に一斉に侵攻を開始した。
  • 5.仙石久秀の渡河作戦の指揮で、先鋒部隊が島津軍の待ち伏せ攻撃を受け、壊滅的な惨戦を蒙った。十河存保、長宗我部信親(元親の嫡男)など多くの四国の武将を失くしている。秀吉はこの敗戦を責め、仙石氏の讃岐の領地を没収した。

脚注

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  • 1.「新撰姓氏録」の皇別にある讃岐公の後裔
  • 2.延慶本「平家物語」「吾妻鏡」では、讃岐国の武士(平氏家人)が備前国の平氏一門と戦い、その後京都に上り、橘公業に源氏に味方する旨申し出ている。
  • 3.「応仁記」に戦闘の詳細がある。

代表的人物

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  • 植田 政景      讃岐氏から、初めて植田姓を名乗る
  • 若狭允信則      源平合戦・屋島の戦いで功績をあげる
  •    景勝      藤尾山に八幡宮を建立
  •    景保      南北朝の頃の人物、細川清氏臣下の植田3兄弟の父
  • 美濃守景隆(安信)  戦国時代、戸田城の落城時の城主

             

家紋

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扇。開き扇、丸に並び扇などの種類。貞治元年(1362年)夏、白山の麓の陣で、細川清氏に神内次郎景辰、三谷八郎景之、十河首領十郎が拝謁した際、扇3本が与えられ賞された。扇の家紋はこの古事に基づいている。

関連項目

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(古事・伝承)

  • 義経の名馬太夫黒を祈祷した古事(平尾八幡神社の由緒 高松市香川町)及び(義経神社の由緒 高松市香川町) ー義経の名馬太夫黒が患ったので、伊野原の門主植田越後守明光は神職滝居左京を従い、屋島の陣所を訪れる。急なことなので、左京が弊無しで祈祷したところ太夫黒は全快した。義経はこれを喜び、左京に愛臣佐藤継信の姓を与えたという。当地に弊無坂の地名が残る。
  • 神櫛王・王妃像の伝承(井原神社の由緒 ) ー植田妙光はこの地に明光寺を建てたが、神櫛王の後衛にて、王・王妃像を造りを寺内に安置した。しかし、天正年間の兵火により、所在がわからなくなったが、元禄の時に発掘され、当社に合祀された。

参考文献

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  • 1「全讃史」原著者 中山城山:「口訳全讃史」訳者 桑田明
  • 2「中世の讃岐」唐木裕志/橋詰茂編
  • 3「香川県の歴史」木原博幸/丹羽祐一/田中健二/和田仁著 
  • 4「南海通記」香西成資著
  • 「讃岐の風土記by出耒屋」ブログ 
  • 6 「高松市香南町史」 香南町史編集委員会編