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利用者:Eugene Ormandy/sandbox18 名曲喫茶ヴィオロン

川西正鑑とは、

生涯

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1897年生まれ[1]。1957年5月に、東洋大学の学長に就任[2]。同年6月には、薬学部、工学部、体育学部、短大工科を開設するため、大蔵大臣に入間郡福岡村の払下げ申請を行ったほか、埼玉県教育長を訪問し協力を依頼した[3]。ただし、1957年10月には、学生自治会の学生25名が川西と一之瀬長治理事の退任を要求し、学内での座り込みを実施している[4]。なお、学生たちは「財政難を理由に一部教授の追い出しをはかり、教職員の月給を遅配させている一方国有地払下げや大日本獅子孔会との訴訟などに多額のムダ金を使っている」と主張した[4]

その後、1985年には手紙の振興を図る「万国郵便福祉協会」の会長に就任したが、こちらは当時の郵政省から「あたかも外郭団体のように活動しているのはけしからん」と批判された[5]。なお、川西はこの批判に対し「始まったばかりで不慣れな点もあるが、今後しっかり活動していけば、誤解もとけるでしょう」とコメントしている[5]

脚注

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  1. ^ 川西, 正鑑, 1897-”. 国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス. 2024年12月3日閲覧。
  2. ^ 「東洋大学長に川西氏」『読売新聞』1957年5月17日夕刊、5ページ。
  3. ^ 「福岡村に東洋大学 理事会、旧造幣廠跡、払い下げ申請」『読売新聞埼玉版』1957年6月29日朝刊、8ページ。
  4. ^ a b 「東洋大で学生座込み 学長退任要求」『読売新聞』1957年10月23日夕刊、5ページ。
  5. ^ a b 「"郵便シール"にクレーム 「外郭みたい」と郵政省 協会側は反論」『読売新聞』1986年4月13日朝刊、19ページ。

外部リンク

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