利用者:Eugene Ormandy/sandbox44 アトランタ交響楽団(加筆用)
アトランタ交響楽団は、アメリカのオーケストラである。
歴史
[編集]前身
[編集]1939年に、アトランタ交響楽団の前身となるアトランタ市並びに周辺地区の高校生によるオーケストラが設立された[1][2]。アトランタ市ではこれ以前にも何度かオーケストラ結成の機運が高まっていたが、どれも挫折していたため、この高校生オーケストラがアトランタ市初のオーケストラとなった[2]。この高校生オーケストラは、その名のとおりアトランタ市およびその周辺の市の高校生で編成されており、シカゴから招かれた指揮者ヘンリー・ソプキンの尽力によってスケール・アップを果たした[1]。1945年2月4日にはアトランタ・ユース・オーケストラに改名して本格的な公演を行い、成功を収めた[2]。
ヘンリー・ソプキン時代 (1947〜1966年)
[編集]1947年、アメリカ合衆国ジョージア州アトランタにて、アトランタ・ユース・オーケストラが改組されてアトランタ交響楽団が設立される[1][2]。初代音楽監督は、ユース・オーケストラ時代から交流のあったヘンリー・ソプキンが務めた[1]。発足当初はプロとアマチュアが混在していたが、運営側の努力によりやがて完全なプロフェッショナル体制となり、市民などから多くの支援を得た[1]。なお、設立から3年後の1950年には、アメリカ交響楽団連盟より全米25のメジャーオケの1つにランクづけされている[1]。
音楽評論家の福本健一は「知名度の点では決して特筆できないソプキンだったが、そのオーケストラにかける情熱と指導者としての資質が功を奏し、同時にそれが認められて、彼は20年間も音楽監督を務めた」と評している[1]。ソプキンは1966年に引退した[1]。
ロバート・ショウ時代 (1967〜1988年)
[編集]1967年からは2代目の音楽監督としてロバート・ショウが着任した[1]。ショウは自身の名を冠したロバート・ショウ合唱団を率いる合唱指揮者として著名であったが、50年代の半ばよりオーケストラの指揮者としても活動しており、クリーヴランド管弦楽団音楽監督ジョージ・セルのもとで副指揮者を務めていた[1]。
ショウは楽団員の数を増やしてレパートリーを拡大し、さらには併設の合唱団を組織して、演奏水準を飛躍的に向上させた[1][2]。また、テルデックへのレコーディング活動も活発に行なった[1]。さらに、着任時のショウの将来性を買ったフォード財団から100万ドルの寄付があったり、管理部門の努力で初シーズンには10万ドルしかなかった運営予算が1986年には200万ドル以上になるなど、財政面でも安定するようになった[2]。アトランタ市民やスポンサー、市や州政府からも評判が良く、1986年6月にはパリ公演を行った[2]。
ショウは1988年に音楽監督を辞したが、終身指揮者・桂冠指揮者としてアトランタ交響楽団と関わりをもち続け、合唱団のトレーニングも引き続き行なった[1]。
ヨエル・レヴィ時代 (1988〜年)
[編集]3代目の音楽監督ヨエル・レヴィは、当初の契約期間は4シーズンのみであったが、更新されて00年まで務めた[1]。
アトランタ交響楽団合唱団
[編集]評価
[編集]参考文献
[編集]- 淺香純編『ONTOMO MOOK THE ORCHESTRA 世界のオーケストラ123』音楽之友社、1994年、
- 上地隆裕『アメリカの交響楽団①』泰流社、1987年、ISBN 4-88470-607-2。