利用者:Eugene Ormandy/sandbox77 フリードリヒ・ドッツァウアー

エーミル・パウア
Emil Paur
エーミル・パウア
基本情報
生誕 1855年8月29日
ブコヴィナ チェルニウツィー
死没 (1932-06-07) 1932年6月7日(76歳没)
モラヴィア ミステク
ジャンル クラシック
職業 指揮者ヴァイオリン奏者、ピアノ奏者、作曲家

エーミル・パウア (Emil Paur, 1855年8月29日 - 1932年6月7日) とは、指揮者、ヴァイオリン奏者、ピアノ奏者、作曲家である[1][2]ウィーン宮廷歌劇場管弦楽団のヴァイオリン奏者として活躍したのち、ボストン交響楽団ニューヨーク・フィルハーモニックピッツバーグ交響楽団などの指揮者を務めた[1][2]エーミル・パウル[3]エミール・パウアー[4]と表記されることもある。

やること[編集]

JSTOR にある Robert F. Schmalz "Paur and the Pittsburgh: Requiem for an Orchestra" を反映

生涯[編集]

幼少期・学生時代[編集]

1855年8月29日チェルニウツィーに生まれる[1]。父はウィーン楽友協会の会長であり、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが指揮するオーケストラで演奏したこともあった[5][1]。エーミルは父から音楽の手ほどきを受け、8歳の時にピアノとヴァイオリンを初めて公の場で演奏する[1]。1866年、ウィーン音楽院に入学し、作曲をフェリックス・オットー・デッソフ、ヴァイオリンをヨーゼフ・ヘルメスベルガー1世に師事した[1][3]

キャリア初期[編集]

1870年にウィーン音楽院を卒業したのち、ウィーン宮廷歌劇場管弦楽団に第一ヴァイオリン奏者およびアシスタント・コンサートマスターとして入団した[1][2]ハンス・フォン・ビューローの勧めでピアニストとしても活動しつつ、1872年にはフェリックス・モットルアルトゥール・ニキシュとともにリヒャルト・ワーグナーと面会し[6][2]、コンサートのリハーサルに立ち会った[7][註 1]

1876年には、カッセルで指揮活動を開始した[1]。その後、ケーニヒスベルクの宮廷副楽長(1880年からは楽長に昇格)、マンハイムの予約演奏会の指揮者、ライプツィヒ市立劇場の指揮者を歴任した[1]。なお、マンハイムのオーケストラでは、ピアノを弾くヨハネス・ブラームスの伴奏指揮も務めた[8]

ボストン時代[編集]

1893年には、アルトゥール・ニキシュの後任としてボストン交響楽団の指揮者に就任し、1898年まで務めた[3][9]。なお、着任当時パウアはアメリカで無名だった[10]

上地隆裕はボストン時代のパウアについて「前任者の築いたレヴェルを保持するのに苦労した。ドイツもので凌駕することを期待されたからである」と評しつつ、「短期の在任だったところから、自分の芸術を余すところなく忠実に写し出す、というところまでには至らなかった」とも指摘している[11]。なお、パウア時代のボストン交響楽団には、フェルッチョ・ブゾーニがピアニストとして登場している[12]

ニューヨーク時代[編集]

1898年には、アントン・ザイドルの後任としてニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者に就任した[3][4]。パウアはニューヨークで、ジャン・シベリウスの作品や、リヒャルト・シュトラウス交響詩といった同時代の音楽を積極的に取り上げた[13][註 2]。また、パウアはニューヨーク・フィルハーモニック以外の場でも活躍しており、1899年にはアントニン・ドヴォルザークの後任として、ニューヨークのナショナル音楽院英語版の院長に就任したり[1][15]メトロポリタン歌劇場でもドイツオペラを指揮したりした[2]。アメリカ以外でも活動しており、1900年にはロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスに登場した[1]

しかし、パウア在任中に、ニューヨーク・フィルハーモニックはスケール・ダウンしてしまった[13]。これを受けて、組織力の強化を図った運営陣は1901年にアンドリュー・カーネギーを理事長とする[13]。理事長に就任したカーネギーは、自ら新しい指揮者ウォルター・ダムロッシュを招き[13]、パウアは1902年に退任した[15][4]。また、ナショナル音楽院の院長も同じく1902年で退任した[1][15]

ピッツバーグ時代[編集]

ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者を退任したのち、1903年にパウアはヨーロッパへと戻り、マドリードベルリンで指揮活動を行なったが[1]、1904年にピッツバーグ交響楽団の音楽監督に就任した[1][16]。ピッツバーグ交響楽団のマネージャーであったジョージ・ウィルソンは、ボストンの音楽評論家フィリップ・ハレを通じてパウアと接触を図ったという[17][18]

パウア時代のピッツバーグ交響楽団には、〜といったソリストが登場したほか、エドワード・エルガーが指揮台に登場した[19]。エルガーはオーケストラを高く評価し「ピッツバーグ交響楽団以上に素晴らしく私の作品を演奏したオーケストラは、ヨーロッパにない」と述べた[19]

ベルリン時代[編集]

ニュルンベルクのマイスタージンガー』を指揮してデビューし、成功を収めたものの[20]

死去[編集]

1932年6月7日、モラヴィアのミステクにて死去[1]。なお、パウアが生前ヨハネス・ブラームスアントン・ブルックナーから受け取った手紙のコピーは、息子クルトがバッファローのグローブナー図書館の音楽部門に寄贈した[2]

人物[編集]

性格[編集]

家族[編集]

妻はピアニストのマリア・ビュルガー[3][21]。パウアがボストン交響楽団の指揮者に就任した際は、夫とともにアメリカに渡った[8]。エミールとマリアの間には、ハンスとクルトという2人の息子がいる[21]。なお、パウアは後年アンナ・パヴェルカと再婚した[21]

交友関係[編集]

ヨハネス・ブラームス[8]アントン・ブルックナー[22]クララ・シューマン[23]リヒャルト・シュトラウス[24]オイゲン・ダルベール[25]ヨーゼフ・ヨアヒム[25]ジュール・マスネ[25]エドワード・マクダウェル[26]グスタフ・マーラー[27]ハンス・リヒター[28]らと手紙のやりとりをした。

音楽性[編集]

指揮姿[編集]

ロベルト・F・シュマルツは「ピッツバーグ交響楽団の前任者ヴィクター・ハーバートとは異なり、パウアの指揮姿に劇場的な部分や、大袈裟な部分はなかった」と指摘している[29]

リハーサル[編集]

レパートリー[編集]

パウアはヨハネス・ブラームスリヒャルト・ワーグナーの作品の演奏を得意とした[30]

エドワード・マクダウェルは『組曲第2番』をパウアに献呈している[31]

パウアが初演を行なった作品は以下のとおりである。

作曲者 作品名 備考
アレグザンダー・マッケンジー カナディアン・ラプソディ 1906年2月19日、ピッツバーグ交響楽団とともにカナダ初演を行なった[32]
エイミー・ビーチ 交響曲ホ短調「ゲール風」 1896年10月30日、ボストン交響楽団を指揮して初演。本作はパウアに献呈された[33]

作曲活動[編集]

パウアは以下の作品を作曲した。なお、これらの他にも室内楽曲をいくつかのこしている[1]

パウアの作品
作品名 備考
交響曲「自然の中で」 1909年にピッツバーグ交響楽団が初演[1]
ピアノ協奏曲 1909年に初演[15]
ヴァイオリン協奏曲[1]

評価[編集]

作曲家からの評価[編集]

アントン・ブルックナーはパウアにあてた手紙で、宮廷管弦楽団との演奏にとても満足したと述べている[23]。一方、エドゥアール・ラロは友人への手紙にて、自身の作品を演奏したパウアとヴァイオリニストのハリアーについて不満を述べている[21][8]

評論家からの評価[編集]

『ザ・ミュージカル・タイムズ』の記者はパウアについて「非常に素晴らしい指揮者で、聴衆の興味を引き、魅了する方法を知っている」と評した[5]。また、『ザ・ミュージカル・タイム・アンド・シンギング・クラス・サーキュラー』の記者も「パウアは長きにわたりアメリカで高い評価を得ている。それもそのはず。パウアはオーケストラ奏者に多大な影響を与えることができる、際立った個性を持つ指揮者だからだ。パウアの主な特徴はその活力と精神性、そして何より、明確なリズムとオーケストラの多彩な色彩を愛する心だ」と評している[34]

上地隆裕はボストン時代のパウアについて「前任者の築いたレヴェルを保持するのに苦労した。ドイツもので凌駕することを期待されたからである」と評しつつ、「短期の在任だったところから、自分の芸術を余すところなく忠実に写し出す、というところまでには至らなかった」とも指摘している[11]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1870年にウィーン音楽院を卒業したとする資料もあるが[2]、1872年にワーグナーと面会した際のパウアは学生だったとする資料もある[7]
  2. ^ パウアはニューヨーク・フィルハーモニックリヒャルト・シュトラウスの作品を積極的に取り上げており、同団の60周年記念コンサートでは、ベートーヴェンの『交響曲第1番』と『交響曲第9番』の間に、シュトラウスのオペラ『グントラム』のアリアを演奏した[14]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r J. A. Fuller Maitland 1982, p. 514.
  2. ^ a b c d e f g Kenny 1951, p. 631.
  3. ^ a b c d e 演奏家大事典 1982, p. 240.
  4. ^ a b c 上地 2015, p. 29.
  5. ^ a b The Musical Times 1904b, p. 250.
  6. ^ Kalisch 1922, p. 173.
  7. ^ a b Liszt et al. 1997, p. 24.
  8. ^ a b c d Kenny 1951, p. 633.
  9. ^ 上地 2015, p. 46.
  10. ^ Schmalz 1994, p. 130.
  11. ^ a b 上地 2015, p. 48.
  12. ^ Knyt 2013, p. 298.
  13. ^ a b c d 上地 2015, p. 31.
  14. ^ Krehbiel 1902, p. 331.
  15. ^ a b c d J. A. Fuller Maitland et al. 2013.
  16. ^ Schmalz 1994, p. 131.
  17. ^ Schmalz 1994, p. 127.
  18. ^ Schmalz 1994, p. 129.
  19. ^ a b Schmalz 1994, p. 136.
  20. ^ The Musical Times 1912, p. 672.
  21. ^ a b c d Kenny 1951, p. 632.
  22. ^ Kenny 1951, p. 638.
  23. ^ a b Kenny 1951, p. 643.
  24. ^ Kenny 1951, p. 645.
  25. ^ a b c Kenny 1951, p. 646.
  26. ^ Kenny 1951, p. 647.
  27. ^ Kenny 1951, p. 648.
  28. ^ Kenny 1951, p. 649.
  29. ^ Schmalz 1994, p. 133.
  30. ^ 上地 2015, p. 69.
  31. ^ The Musical Times 1904a, p. 226.
  32. ^ The Musical Times 1906, p. 241.
  33. ^ Block 1993, p. 125.
  34. ^ The Musical Times and Singing Class Circular 1900, p. 537.

参考文献[編集]

英語文献[編集]

  • J. A. Fuller Maitland; Malcolm Miller; James Deaville (2013). "Paur, Emil". Grove Music Online. Oxford University Press. doi:10.1093/gmo/9781561592630.article.A2088696. 2023年1月3日閲覧

日本語文献[編集]

  • J. A. Fuller Maitland「パウア, エーミル」『ニューグローヴ世界音楽大事典 第12巻』、講談社、1996年、514頁、ISBN 4-06-191632-7 
  • 上地隆裕『世界のオーケストラ(1) 北米・中米・南米編』芸術現代社、2015年、14頁。ISBN 978-4-87463-203-1 
  • 「Paur, Emil」『演奏家大事典 Ⅱ M-Z』、財団法人音楽鑑賞教育振興会、1982年、240頁。 

外部リンク[編集]