利用者:Eugene Ormandy/sandbox96 コリン・デイヴィス

コリン・デイヴィス
Colin Davis
コリン・デイヴィス
基本情報
生誕 (1927-09-25) 1927年9月25日
出身地 イングランドの旗 イングランドサリー州
死没 (2013-04-14) 2013年4月14日(85歳没)
学歴 王立音楽大学
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者
担当楽器 指揮、クラリネット
活動期間 1950年代 - 2013年
レーベル フィリップスRCA

コリン・デイヴィス (Colin Davis, 1927年9月25日-2013年4月14日) はイギリスの指揮者[1][2]サドラーズ・ウェルズ・オペラBBC交響楽団コヴェント・ガーデン王立歌劇場ボストン交響楽団などで活躍した[1]

生涯[編集]

幼年期[編集]

1927年9月25日、イギリスのサリー州ウェイブリッジに生まれる[3]。生地のスクールバンドでクラリネットを吹いていたが、音楽を始めた頃から指揮者になりたいと思っていたという[3]

学生時代[編集]

その後ロンドンの王立音楽院に進学しフレデリック・サーストンにクラリネットを師事したが、ピアノが弾けなかったため指揮科への編入はかなわなかった[3][1][2]。デイヴィスは近衛騎兵隊英語版のクラリネット奏者を務めつつ[1][2]、1947年には王立音楽院の学生からなるカルマー室内管弦楽団というアンサンブルを組織し指揮者として活動した[4]。なお、のちにデイヴィスは「若くして指揮をしたい人は、本当は自分のオーケストラを設立しなければならないと考えています」と述べている[5]

キャリア初期[編集]

チェルシー・オペラ・グループでモーツァルトのオペラを指揮したことでデイヴィスは注目されるようになったが、ピアノが弾けなかったためオペラハウスのコレペティートルになることはできず、ケンブリッジで学生オーケストラや付近の合唱団を指揮していた[1]。その後1957年にBBCスコティッシュ交響楽団の副指揮者に招かれ、指揮者としての本格的なキャリアをスタートさせた[1]

活躍の場が広がったサドラーズ・ウェルズ・オペラ時代 (1959年-1965年)[編集]

BBCスコティッシュ交響楽団の副指揮者となった翌年の1958年、モーツァルトの『後宮からの逃走』を指揮してサドラーズ・ウェルズ・オペラ(のちのイングリッシュ・ナショナル・オペラ)にデビューしたところ好評を博し、1959年には同団の専属指揮者となった[1]。同年10月には、急病で倒れたオットー・クレンペラーの代役としてロイヤル・フェスティバル・ホールで演奏会形式の『ドン・ジョバンニ』を指揮したが、これも好評を博し「トーマス・ビーチャム以来の最大の才能」として知られるようになった[1]。さらに1960年には、病床にあったビーチャム自身の招きでグラインドボーン音楽祭に出演して『魔笛』を指揮し、好評をもって迎えられた[1]

翌1961年にはサドラーズ・ウェルズ・オペラの音楽監督に就任し、1965年まで務めた[1]。サドラーズ・ウェルズ・オペラでは、モーツァルト、ベートーヴェン、ストラヴィンスキーの作品の演奏で好評を博したが、一方でヴェルディ、プッチーニ、ワーグナーの作品についてはそこまで成功できなかった[2]。また、イルデブランド・ピツェッティクルト・ヴァイルら同時代の作曲家の作品も取り上げ、リチャード・ロドニー・ベネットの『硫黄の鉱山英語版』を初演した[2]

なお、この頃からデイヴィスはコンサート指揮者としても活躍するようになり、1964年にはロンドン交響楽団の世界ツアーに参加した[1]。また、1960年にはロイヤルバレエを指揮してコヴェント・ガーデン王立歌劇場にデビューしたほか、1967年1月にはルドルフ・ビング英語版の招きでメトロポリタン歌劇場にデビューし、ベンジャミン・ブリテンの『ピーター・グライムズ』を指揮するなど、活躍の場を広げた[1][6][7]

BBC交響楽団時代 (1967年-1971年)[編集]

1967年9月、BBC交響楽団の首席指揮者に就任し、1971年まで務めた[1]。デイヴィスの就任は、当時同団の「ミュージック・コントローラー」を務めていたウィリアム・グロックの冒険的なプランの一環であった[2]

また、BBC交響楽団在任中の1970年にはコヴェント・ガーデン王立歌劇場に客演して、マイケル・ティペットの『ノット・ガーデン英語版』を初演した[8]。コヴェント・ガーデンでは他にも『ピーター・グライムス』や、ティペットの『真夏の結婚』を指揮した[8]

コヴェント・ガーデン時代 (1971年-1986年)[編集]

BBC交響楽団の首席指揮者を辞した1971年秋には、ゲオルク・ショルティの後任としてコヴェント・ガーデン王立歌劇場(ロイヤル・オペラ・ハウス)の音楽監督に就任し、1986年まで務めた[1][9]。在任中にデイヴィスは30以上のオペラを指揮しており、1974年から1976年にかけてゲッツ・フリードリヒの演出による『ニーベルングの指環』の全曲公演を行なったり、1977年にはデイヴィスに捧げられたマイケル・ティペットの『アイスブレイク』を初演したり、1981年には補筆完成版の『ルル』を上演したりした[2]

なお、音楽評論家の堀内修はデイヴィス時代のコヴェント・ガーデンについて以下のように批判している[10]

古い舞台装置で残されるのはほんのわずかであり、多くの演目が新しい舞台に置き換えられてきている。ただし、レパートリーの縮小という犠牲がそのために払われている。1983年に、ロイヤル・オペラ・ハウスの財政報告が公表されて以来、目新しい作品や実験的な作品は、ほんのわずかしかない。カンパニーは、いくつか現代作品を委嘱してはいるのだが、この10年間で、ヘンツェ、ティペット、ジョン・タヴァーナーの作曲になる3つのオペラだけで、結局のところ、ベンジャミン・ブリテンとマイケル・ティペットの舞台作品の保管者にとどまっている。少なくともシーズンごとに、ブリテンかティペットの作品が上演されている。またその対極にあるバロック・オペラの上演状況も、観客席が、モンテヴェルディやヘンデルのオペラにはほとんど適していないとはいえ、寂しい限りだ。1971年から1986年にかけての音楽監督サー・コリン・デイヴィスが、モーツァルトの7つの主要オペラのうち6つで、才気溢れる不思議な魅力の公演を行い、成功を収めたのだが、それでもモーツァルトへの好ましい親近感はない[10]

コヴェント・ガーデン在任中の1977年にはバイロイト音楽祭にデビューし、ゲッツ・フリードリヒの演出で『タンホイザー』を指揮した[2]。また、1986年にはウィーン国立歌劇場にデビューした[2]

バイエルン放送交響楽団時代 (1983年-1992年)[編集]

コヴェント・ガーデンを辞してからデイヴィスがコンサートホールに登場する機会は増加し、1983年から1992年はバイエルン放送交響楽団の音楽監督を務めた[2]

ロンドン交響楽団時代 (1995年-)[編集]

なお、1972年にはデイヴィスと同じ首席客演指揮者としてクラウディオ・アバドが就任した[11]

デイヴィスは1987年ごろからロンドン交響楽団と共同作業を行うようになり、1992年にはシベリウスの交響曲全集のサイクルを実施した[2]。その後1995年には、ロンドン交響楽団の首席指揮者となった[2]

その他世界各国での活躍[編集]

シュターツカペレ・ドレスデンでの活躍[編集]

1981年にモーツァルトの録音で初めて共演して以来、デイヴィスはシュターツカペレ・ドレスデンを継続的に指揮しており[12]、1991年には同オーケストラ史上初の「名誉指揮者」となった[13]。デイヴィスは演奏会やオペラ、ツアーなどで200回以上登場したほか、政治情勢に不安を抱く楽団員たちの相談に乗ったりもした[12][14]。デイヴィスはシュターツカペレ・ドレスデンの各種特別演奏会も指揮しており、フラウエン教会再建のための演奏会や、ルドルフ・ケンペ生誕85周年演奏会、急逝したジュゼッペ・シノーポリの追悼演奏会や、ドレスデン空襲追悼の日の演奏会などに登場した[14]。シュターツカペレ・ドレスデンでコンサート・マネージャーを務めたエーバーハルト・シュタインドルフは、オーケストラとデイヴィスとの関係について以下のように述べている[12]

芸術家としてまた1人の人間としてシュターツカペレとはかけがえのない関係を築きあげた。楽団員も現代を代表する名指揮者の1人を迎え、格別な思いを抱いた。個人の魅力もさることながら、継続的な音楽活動を通して、両者の間に育まれた信頼感を通して、デイヴィスはオーケストラという生き物にとって、音楽家の世代が代わっても、首席指揮者が代わっても、伝統とオーケストラの水準を維持する不変の存在であり続けた[12]

また、デイヴィスもシュターツカペレ・ドレスデンについて「一番個性のあるオーケストラ」と評するとともに[15]、以下のようなコメントを残している[16]

このオーケストラはいつも音楽のために仕事します。私が驚嘆の念を禁じえないのはまさにその点にあるのです[16]
ドレスデンのシュターツカペレは、紛うことのない独自の響きを持っています。それには周知のとおり歴史的な要因があります。そしてこの古いオーケストラの伝統は今でも生きています。今日でも、このオーケストラに入団する若い音楽家は、シュターツカペレのメンバーが教えている大学の出身です。それは東ドイツ時代も変わることはありませんでした。それにここのメンバーは本当に美しい演奏をします。ドレスデンのメンバーが古典音楽を演奏する様は世界のお手本です。ただただ素晴らしい!リヒャルト・ワーグナーがこのオーケストラを「魔法の竪琴」と呼んだのは誇張ではありません。このオーケストラに典型的な、紛うことのない独自の響きを持った楽器については言わずもがな、です。私が初めてこのオーケストラの響きに魅了されたのは18歳の時でした。それ以来、ドレスデンに来るのは毎回大きな喜びです[17]

音楽祭への参加[編集]

ザルツブルク音楽祭に登場したほか[18]バイロイト音楽祭で初めて『タンホイザー』を指揮したイギリス人となった[19]

晩年[編集]

演奏スタイル[編集]

レパートリー[編集]

好んで取り上げた作品[編集]

デイヴィスはエクトル・ベルリオーズのオーケストラ作品をほぼ録音しており、スペシャリストとみなされた[20]。特に1960年は集中的にベルリオーズ作品に取り組んでおり、音楽ジャーナリストのディーター・ダーヴィット・ショルツは「(デイヴィスは)ベルリオーズ・ルネサンスを巻き起こした最初のひとりであり、その録音は今でもひとつの基準とされています」と述べている[21]

なお、デイヴィスが若手指揮者を教える時の課題曲はブラームスの交響曲と、モーツァルトの『フィガロの結婚』『交響曲第35番「ハフナー」』であった[22][23]。これらの作品についてデイヴィスは以下のように語っている[23]

『フィガロ』では、オーケストラでレチタティーヴォをどう伴奏するかを学べます。そう簡単ではありません。本当に全てをコントロールしなければ、つまり手中に収めなければなりません。モーツァルトはあまりにシンプル、透明なので指揮者は裸でモーツァルトと聴衆の前に立たされます。何も隠すことはできません。モーツァルトを振るのは簡単ではないのです。ブラームスはまったく別の世界です。ブラームスはロマン派の代表です。モーツァルトが古典派の代表であるようにね。そして、この対照的な2人の作曲家には、知るべきこと、伝えるべきことがすべて見つかるのです[23]

好まなかった作品[編集]

デイヴィスは、インタビューにおいて「私は自分のことで泣く作曲家にはもはや愛情を感じないのですよ。最近マーラーの5番のアダージョを聞いたときは、おやまあ、老いたウェルテルの悩みじゃないかと思っただけでした」と述べている(インタビュー実施時期は1990年代後半から2000年代初頭)[24][25]。また、インタビュアーの「ワーグナーに関してとても豊かな経験をお持ちですが、決してモーツァルトほど近い存在ではなかったのでしょうね」という質問に対し「そのとおり!私の年齢になってはなおさらです」と回答している[25]。他にも、祖国の音楽を積極的に取り上げる義務があると思うかという質問に対して「私は、自分が本当に愛するイギリスの音楽しか演奏しません。それ以外のものに対しては責任を感じません。もちろんティペット、エルガー、そしてベンジャミン・ブリテンのために随分尽力しました。でもそれは私が重要と感じる何かを訴える作曲家であり、作品だからです」とも述べている[21][26]

リハーサル[編集]

指揮姿[編集]

音楽評論家の三浦淳史は、デイヴィスの指揮姿について以下のように記している[20]

イギリス人によれば「モーツァルト風のプロフィール」をもち、がっしりとした長身のデイヴィスは、目を楽しませる、いわゆる「指揮台上のグラマー・ボーイ」ではない。彼の指揮は簡潔で飾り気がない。彼自身も指揮者のナルシズムを嫌悪し、自己陶酔に陥ることを避ける[20]

人物[編集]

顕彰歴[編集]

後世への影響[編集]

教育活動[編集]

もともと「指揮は教えられない」と考えていたが、ドレスデン音楽学校からのアプローチを受けて、若手指揮者のための講座を担当するようになった[22][27]。教え子にウラディーミル・ユロフスキがいる[28]

デイヴィスが認めた音楽家[編集]

デイヴィスはフランス国立管弦楽団のコンサートマスター、サラ・ネムタヌを評価していた[29][30]。なお、ネムタヌはクルト・マズアベルナルト・ハイティンクからも高く評価された[29][30]

評価[編集]

指揮者のジェームズ・レヴァインは、自身が音楽監督を勤めるメトロポリタン歌劇場の指揮台を独占しているという批判に対し「自分は主要な指揮者に声をかけているが、皆忙しい」と応じるなかで「オーケストラの音質をむらのないものにまで高め、ゲオルグ・ショルティズービン・メータ、コリン・デイヴィスのような指揮者に定期的に来てもらいたい」と述べている[31]

脚注[編集]

参考文献[編集]

英語文献[編集]

日本語文献[編集]

  • チャールズ・アフロン、ミレッラ・J・アフロン 著、佐藤宏子 訳『メトロポリタン歌劇場 歴史と政治がつくるグランドオペラ』みすず書房、2018年。ISBN 978-4-622-08733-5 
  • スティーヴン・ギャラップ『音楽祭の社会史 ザルツブルク・フェスティバル』法政大学出版局、1993年。ISBN 4-588-02141-9 
  • 小石忠男『続々 世界の名指揮者』音楽之友社、1980年。 
  • エーバーハルト・シュタインドルフ 著、識名章喜 訳『シュターツカペレ・ドレスデン 奏でられる楽団史』慶應義塾出版会、2009年。ISBN 978-4-7664-1616-9 
  • ディーター・ダーヴィット・ショルツ『指揮者が語る! 現代のマエストロ、29人との対話』アルファベータ、2008年。ISBN 978-4-87198-559-8 
  • ロバート・ターンブル 著、堀内修 訳『世界のオペラハウス』音楽之友社、1989年。ISBN 4-276-21433-5 
  • ローベルト・C・バッハマン 著、村上紀子 訳『大演奏家との対話』白水社、1980年。 
  • 三浦淳史「デイヴィス、コリン」『名演奏家事典(中)シミ〜フレイレ』、音楽之友社、1982年、588-589頁。 
  • クリスチャン・メルラン『オーケストラ 知りたかったことのすべて』みすず書房、2020年。ISBN 978-4-622-08877-6 

外部リンク[編集]