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田中諭吉
田中 諭吉
生誕 (1910-01-29) 1910年1月29日
日本の旗 日本 福岡県福岡市]
死没 (1970-09-05) 1970年9月5日(60歳没)
日本の旗 日本 福岡県福岡市
国籍 日本の旗 日本
業績
成果 戦後新天町 (福岡市) 戦後復興の企画
博多祇園山笠集団山見せの企画
太宰府天満宮曲水の宴の企画
櫛田神社節分お多福面の企画 他


田中 諭吉 たなかゆきち、1910年明治43年)1月29日 - 1970年昭和45年)9月5日)博多川端町生まれ。稀代のアイデアマンとして、福博文化行事に多大な貢献を果たした。 独学で絵画や書を学び、昭和3年福岡日日新聞社(現在の西日本新聞社)に入社。その後、大広・西広(広告代理店)に勤務。人が喜ぶ事を己の最大の喜びとし、戦後焼け野原となった街に新天町 (福岡市) の復興企画を立てたり、節分の櫛田神社におたふく面を設置したり、太宰府天満宮曲水の宴の企画、博多祇園山笠集団山見せの発想、櫛田神社の永代奉納番外飾り山(常設展示)など、その業績は枚挙にいとまがない。

エピソード[編集]

  • 自らのハゲ頭を「光頭無毛文化財(こうとうむけーぶんかざい)」と称し、有無庵(ゆうもあん)と号した。
  • 小学校の頃、学校の先生に「将来何になりたいか」とたずねられ、「はい、私は大学者になります。」と大きな声で答え、学級中の笑いを誘った。だが、16歳の時に父親が他界したため生計が苦しく、学校には満足に通えなかった。
  • 戦時中家族を養うため、「虎は千里の道を帰る」という故事に基づき、戦争に行った者たちに帰ってきてほしいとの願いをこめ、虎の絵を描いて農家に持参し、米や農作物と交換して糊口をしのいでいた。本人は、当時の時局に反して「この戦争、日本は負ける」と家族に語っていたという。
  • 博多の町に生まれ育った諭吉は、戦後荒れ野原となった地に立ち、新天町商店街の設立を決意する。整地のため、進駐軍にブルトーザーの出動を依頼しに乗り込むが、本人はまったく英語が話せず大学生であった長男に通訳を頼んだ。
  • 独学で学んだ絵は、企画に活かされると共に、さまざまな絵画作品も残している。
  • 書にも長けており、歌舞伎で使用される勘亭流の名手でもあった。

主な業績[編集]

  • 新天町 (福岡市) (福岡県福岡市)戦後復興の企画
  • 博多祇園山笠(福岡県福岡市)「集団山見せ」の企画
  • 太宰府天満宮(福岡県太宰府市)「曲水の宴」の企画
  • 櫛田神社(福岡県福岡市)「節分おたふく面」の企画
  • 櫻井神社(福岡県糸島市)「二見浦夫婦岩」の企画
  • 筥崎八幡宮(福岡県福岡市)「放生会灯篭」の企画
  • 西公園光雲神社(福岡県福岡市)「謡鶴」の企画
  • 宗像大社(福岡県宗像市)「交通安全祈願」の企画
  • 「博多仁和加振興会」発起人・企画・運営
  • 「九州漫画協会」発起人・企画・運営
  • 興宗禅寺(福岡市南区)所蔵 赤穂浪士掛軸の揮毫


主な著作書籍[編集]

  • 『企画奥の手』(1961年・積文館)

参考文献[編集]

  • 『有無庵追憶』(1986年・マスプロ編)
  • 『福岡地方紙研究第43号』(福岡地方紙研究会刊)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]