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みやはら ひろあき

宮原 博昭
生誕 (1959-07-08) 1959年7月8日(64歳)
日本の旗 日本 広島県呉市
出身校 防衛大学校
職業 実業家
活動期間 1982年 -
肩書き 株式会社学研ホールディングス
代表取締役社長
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宮原 博昭(みやはら ひろあき、1959年7月8日 - )は、日本の実業家。株式会社学研ホールディングス代表取締役社長。公益財団法人古岡奨学会理事長、一般社団法人日本雑誌協会副理事長、日販グループホールディングス株式会社社外取締役。


経歴[編集]

1959年7月8日広島県呉市で生まれる。父・昭允(てるまさ)は、過去に貴族院議員を輩出し、代々医師を務めてきた呉の名家の生まれで、東京慈恵会医科大学医学部に進んで医師になる。母・重子は、小学生の時に両親を亡くし、父方の祖母に育てられる。女学校時代、呉海軍工廠で働いていたとき、広島に投下された原子爆弾を目撃する。 [1]

母方の叔父は海軍兵学校 (日本)の出身で、特別攻撃隊の生き残りだった。

両親からは「世のため、人のために生きろ」と言い聞かせられながら育った。 [2]

小学5年生から神戸で過ごし、地元の公立中学校に進学。1974年、白陵高校(現在は中高一貫白陵中学校・高等学校)に進学。白陵高校の創設者、三木省吾先生から直々に指導を受ける。 [3]

高校時代、学年トップで防衛大学校に進んだ先輩から言われた「防衛大学校に来れば国を守る実感が得られる」という言葉に啓発され、防衛大学校への進学を決意。 [4]

防衛大学校では戦闘機パイロットを目指し、厳しい訓練に励む。また、「リーダーシップ論」「戦略・戦術論」を学んだほか、世界的にも著名な経営学者一橋大学名誉教授野中郁次郎先生からビジネスのケーススタディを4年間学ぶ。

1982年防衛大学校卒業。貿易商社勤務を経て、1986年、勤務地限定職として学習研究社(現学研ホールディングス)入社。入社にあたって、学習研究社の創業者、古岡秀人オーナーと面接し、「日本を守るために重要なのは、防衛と医療と教育です。私はすでに防衛の道を健康上の理由で断念しています。父親は医者をしていましたが、今から医者になるのは現実的ではありません。教育を自分の使命にするつもりで志望しました」と決意を表明。神戸支社にて「学研算数・国語教室(現学研教室)」事業の創成期~成長期に携わる。 [5]

学研教室の創成期、神戸支社を全国1位にするために奮闘。神戸支社と契約している教室の総数が300ぐらいだった頃は、すべての電話番号を暗記していた。 教務面の顧問として、神戸市立教育研究所や神戸市立小学校校長を歴任した萩原和久先生を迎え、「新人スクール」などの新人研修制度を立ち上げ、研修ビデオライブラリーを作成するなど、研修制度・運営体制を整える。

また、業界トップを目指し、テレビコマーシャル新聞広告などのプロモーション活動にも力を入れ、新聞広告、折り込みチラシポスティングダイレクトメールなどと連動させたメディアミックスで、飛躍的に会員数を伸ばす。

神戸支社で初めて「夏の学研教室」を実施し、この成功事例をもとに全国でも展開し成功。 さらに、兵庫県に特化した「学力テスト」を制作。採点システム、成績表や受験者へのコメントなどフィードバックの仕組みも構築。その後の「実力診断テスト」「全国共通テスト」「学研統一テスト」など、学研教室のテスト事業の礎を築いた。 [6] [7]

関西、中国、四国、九州、沖縄を統括する西日本総局長などを歴任した後、2004年、学研教室事業部長に就任。最後の勤務地限定職から正社員となり、東京の本社勤務に。 [8]


2007年、学習研究社執行役員、第四教育事業本部長兼学研教室事業部長に就任。


2009年、学習研究社はホールディング制に移行し、株式会社学研ホールディングスとなる。学研ホールディングス取締役に就任し、2010年、学研塾ホールディングス、学研エデュケーショナル、学研教育出版の代表取締役社長を兼任。


2010年12月、株式会社学研ホールディングス代表取締役社長に51歳で就任。「教育」と「医療福祉」を中核とした事業改革を牽引し、V字回復を果たす。現在、学研ホールディングスは、連結子会社50社以上を有し、13期連続増収、8期連続増益を達成。社長就任時138円だった株価は7倍以上に。2022年4月から、東証プライム市場に移行。 [9] [10]

成長戦略のひとつにM&Aを据えるが、社長就任から3年間はM&Aを凍結し、内部環境の立て直しに注力。M&A再開後は、デューデリジェンスM&Aの対象となる会社や事業の価値やリスクなどを調査すること)を綿密に行いながら、医療福祉分野など教育以外の分野へも積極的にM&Aを実施。少子高齢化が進む国内では医療福祉分野をはじめ大人向けの教育、海外ではデジタルや幼児を重点分野と捉え、中心となる事業を幹として、そこから枝葉のように新規事業を展開していく独自のツリー理論で事業展開を行う。 社長就任後、PMI(Post Merger Integration:M&A後の経営統合プロセス)を大事に、20社以上と、「人」を中心とする事業領域での成長M&Aを実施。 TCG REVIEW/100年経営対談


2011年、デジタル事業推進室(のちのデジタル事業本部→ブックビヨンド)を立ち上げ。

将来の幹部候補生育成プログラム「ジュニア・ボード」と、社内の企画コンペ「G-1グランプリ」を立ち上げ。「G-1グランプリ」からは、株式会社GIビレッジが誕生している。


2013年シンガポールマレーシアに駐在員事務所を開設。レセプションには日本公使や日本大使も訪れた。

ノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんの『I Am Malala: The Girl Who Stood Up for Education and Was Shot by the Taliban』の出版権を取得。『わたしはマララ』として発売。

首都圏以外の国内拠点として、大阪に支店機能を置いている各社の事務所を統合し、「Gakken大阪本社」をスタート。

5月インドの特命全権大使であるディーパ・ゴパラン・ワドゥワ閣下、インド教育界のVIPであるディネッシュ・クマール博士ご一行、モスクワ大学の副学長の訪問を受ける。

インドネシアマカッサル州・パレパレ市に、学研から救急車5台を同市に寄贈した縁で、パレパレ市長、マカッサル州知事の訪問を受ける。また、パレパレ市長から招待を受け、パレパレ市出身のユスフ・ハビビインドネシア大統領の銅像落成記念式典に参加。ユスフ・ハビビインドネシア大統領の賓客として、国賓級の待遇を受ける。この訪問の返礼として、後日、ユスフ・ハビビインドネシア大統領の私邸に招かれた。


2016年東京マラソンに参加し、フルマラソンを完走。厚切りジェイソンさんを追い抜いた。

英語版の学研教室・算数教材をテトゥン語に翻訳し、無償提供したご縁で、国賓として来日した東ティモール民主共和国タウル・マタン・ルアク大統領夫妻の訪問を受ける。

エコ&スマート、安心・安全な暮らしを3世代・100年にわたって持続する次世代の街に、サービス付き高齢者向け住宅、デイサービス、訪問介護・看護、認可保育所、塾など、学研ココファングループを中心に参画し、地域包括ケアシステムを構築。高齢者福祉のみならず、子育て支援、多世代交流の実現を推進する「Fujisawa サスティナブル・スマートタウン」(神奈川県藤沢市)、通称「Fujisawa SST」がオープン。

グループ各社を、アウトプット&マーケットインの視点に立ち、①教育コンテンツ、②教育サービス、③教育ソリューション、④医療福祉サービス、⑤トータルソリューションのセグメントに再編成。「学研の保育」「学研の教育」「学研の高齢者福祉」「学研の企業向けサービス」など、お客様の一生をケアする「オール学研」のサービス構築を目指す。


社長就任からの中期経営計画のテーマ

  • 2010 事業の選択と集中による収益基盤の確立
  • 2011 自主独立経営の強化と役割の明確化
  • 2013 将来の飛躍に向けた基盤整備
  • 2015 収益力の強化
  • 2016 成長軌道に乗せるために再構築を行う
  • 2018 成長軌道へのテイクオフ


2017年、学研の事業ドメインを「教育」と「医療福祉」に変更。

売上1000億円を達成。


2019年、令和の[[即位の礼]([[即位礼正殿の儀]、饗宴の儀)に出席。


人物[編集]

座右の銘は「逡巡の罪」。「チャンスを前にためらい、戦いに挑まないことは、戦って負けるよりも罪が重い。失敗を恐れずにチャレンジしてほしい」という想いを込めている。

社長就任以来繰り返し説いてきたのは、「現場主義であれ」「不変と可変を見極めよ」「社内連携を強化せよ」「損益がわかる社員であれ」「数字への執念を持て」「自分の飯は自分で食え」「出る杭となれ」「企画の厳選と売り伸ばし」「イノベーションを創出せよ」「学研DNAを承継せよ」「学研ファンを増やせ」「ピンチをチャンスに変える」「悲観的に考え、楽観的に行動する」「クールヘッド、ウォームハート」「アテンション アンド リラックス」など。

学研創立70周年を機に、「教育コンテンツ&サービス創造企業」として、「教育ソリューション」と「高齢者福祉・子育て支援」を経営戦略の2本柱に、「教育ICT」「デジタル」「グローバル」の3本の矢を掲げる。「出版からコンテンツ創造へ」「業態変化」「ワンソース・マルチユース」「既存事業の強化と、成長分野への種まき」「製販一体」「他社とのコラボレーション」「プロダクトアウトからマーケットイン」「バリューの提供」について、グループ各社での取り組みを促す。


1995年阪神・淡路大震災を経験。すぐに出勤し、学研教室の指導者・会員の安否を確認する。学研教室も甚大な被害があった。ある指導者は、倒壊した自宅の前で、布団を持ったまま泣きながら立っていた。亡くなった子どもの棺にそっと学研の図鑑を入れたことも。神戸支社1万人会員達成まであと少しであった。この経験を教訓として、東日本大震災熊本地震をはじめ、各地の豪雨災害などでも、自身がすぐに現地入りするなど、迅速な復旧支援を心がけている。


2015年2月、学研初のICT協議会「ICT CONNECT 21(みらいのまなび共創会議)」設立発表会で「学研は教育ICTにいち早く乗り出したが、一社でやる限界を感じていた。こうした組織が立ち上がることは非常に有意義だと思う。学研グループとしては全社を挙げて、社長としては命がけで、日本の教育ICTを推進してまいります」と述べる。

「人を動かし、自らも動く」「個人が変われば組織が変わる。組織が変われば個人も変わる」との考えから、セグメント再編、社内再編、人財の異動を積極的に行う。「人の流動と人の活用」を意識し、機動性に富んだ「フラクタル組織」の構築を目指す。

パラリンピックゴールボールの[[浦田理恵さん、パラリンピック走り幅跳び谷真海(旧姓:佐藤)さん、フィギュアスケート浅田真央さん、陸上選手・侍ハードラーの為末大さん、卓球張本智和さんなど、アスリートとの面会も多い。

同じ手帳を長年にわたって愛用。年末年始には、歴代の手帳の記録を手書きで書き写し、パソコンで入力するのが習わし。

現場主義を貫き、時間が許す限り、園、学校、塾、介護施設、展示会など、現場を見に行く。

社長に就任して以来、毎年欠かさず、古岡秀人オーナーの命日の墓参に訪れている。また、節目、節目に、自分が尊敬する人々の墓参に行く。京都霊山護国神社パール判事坂本龍馬中岡慎太郎青山墓地のフルベッキなど。

学研の将来像として、ロンドンパリに本社があり、CEOは外国人の女性、世界135か国に進出して、リアルなスペースを持ちながら、多言語のデジタル書籍やコンテンツを提供する、世界各地に拠点を持つ“太陽の沈まない会社”を描く。

学生時代は1日3冊の本を読んでいた。社長就任以降も読書は欠かさず、自社の出版物はすべて目を通す。愛読書は、江戸時代の儒学者・佐藤一斎が著した随想録『言志四録』、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『燃えよ剣』など。歴史や古典に幅広く通じる。『漢字源』を愛読し、漢字にも造詣が深い。『君の名は。』『永遠の0』など、話題の映画も見るようにしている。

趣味は、飛行機の操縦、古城・旧跡めぐり、分水嶺を見に行くこと。


出演[編集]

テレビ


著書[編集]

宮原博昭『逆風に向かう社員になれ』学研プラス、2022年、ISBN9784054068575


脚注[編集]

  1. ^ 財界オンライン2021.02.01
  2. ^ 『逆風に向かう社員になれ』p.69
  3. ^ 『逆風に向かう社員になれ』p.81~83
  4. ^ 『逆風に向かう社員になれ』p.71
  5. ^ 『逆風に向かう社員になれ』p.67、68
  6. ^ 『逆風に向かう社員になれ』p.23、24、44
  7. ^ 『自分史物語 萩原和久 わが人生を語る』p.22、23
  8. ^ 『逆風に向かう社員になれ』p.103
  9. ^ 『逆風に向かう社員になれ』奥付け
  10. ^ 『学研教室 37年のあゆみ』p.54