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利用者:Gomezrz/練習・下書き

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全体図 新潟の通りと小路

新潟町の移転[編集]

元禄11年(1698年)の新潟町

江戸時代初期までの新潟町は現在よりも海岸側にあり、信濃川左岸を港として使用していた[1]。信濃川の川幅は現在の3倍以上あり、川に浮かぶ白山社領の白山島、寄居村を持つ寄居島を挟んで、対岸には蒲原の町が、さらに阿賀野川を挟み沼垂の町が栄えていた。信濃川と阿賀野川は加茂屋堀という水路で結ばれていた[1]

寛永6年(1629年)までに起きた大洪水で加茂屋掘の幅は拡がり、阿賀野川の本流となった。沼垂の町は阿賀野川に浸食されるようになり、蒲原方へ移転した。一方阿賀野川が合流した信濃川には大量の土砂が堆積するようになり、白山島、寄居島と新潟町間の流路は水位が著しく低下した。白山島と寄居島が信濃川の左岸となると、港の使用に支障をきたした新潟町は町の移転を請願した[2]長岡藩幕府の許可を受け、白山神社領を平島村に、寄居村を海岸側へ移転させた。新潟町はこの跡地への移転が決まり、信濃川左岸に再び港を手に入れた[2]

移転前の新潟町には無く、信濃川側から順に大川端通、本町通、片原通、古町通とあった[3]。新潟町の移転は承応3年(1654年)に許可され、堀を整備する工事が開始された[2]。南北には信濃川に沿うように町を貫く寺町堀、片原堀が掘られた。この堀はやや曲がりながら進むため、自然の川を活かして整備されたという説もある[4]。この堀と交差する様に信濃川への水路となる4本の堀(白山掘、新津屋小路堀、広小路堀、御祭堀)が掘られた。これらの堀は横堀と呼ばれ、後に道心小路に新堀が掘られて5本となった[5]。工事開始から1年後の明暦元年(1655年)には堀の整備がほぼ完了した[1]

移転後の新潟町[編集]

町の中心となる古町通と本町通は堀と堀の中間点に作られ、この2本の通りが表通りとなった。当初2本の通りの裏手はそのまま堀に通じていたが、その後数十年の間に堀に面する通りが整備され、店が立ち並ぶようになった[6]。古町通と同じく古くから発展していた本町通は表店(おもてだな)、遅れて整備が進んだ大川前通は他門(たもん)と呼ばれた[7]

通りと交差する道は小路と呼ばれた。小路はあくまでも通りと通りの連絡通路であり、ほとんどの小路には表間口が構えられることはなかった[8][9]。今では片側2車線の大通りとなった柾谷小路も、当時は幅三間(約5.4m)ほどの広さしかなかった[8]。例外的に上手にある片原掘西側の片原通と古町通を結ぶ小路には小揚(堀の船乗り)の小間口が並び、小揚小路と呼ばれていた[9]

町は住人の商いによって区分されていた。例えば、川から揚がった材木を取引することが許された材木町は大川前通上一ノ町から下一ノ町(現在の上大川前通1番町から3番町)、魚の卸が許される肴町は本町十四軒町(現在の本町通11番町)といった具合である[10]。商いは街区や職種によって許可される数が決められていた[8]。通りに軒を構えるのは自ら家や土地を所有する「本家」と呼ばれる身分が殆どで、小路には本家の「借家」が住む長屋が並んだ。新潟は武士が殆ど存在しない町人の町だったため、家や土地を持つ事で身分が分けられていた[10]

町の拡大と変化[編集]

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上大川前通と下大川前通
改名された堀と小路

移転後も信濃川の土砂堆積は続き、江戸時代中期になると町の東に大きな島(秣島、榛島、上島、下島等)が次々に出来た。島と町のには僅かな流路が残り、堀と川を結ぶ水路して使われた。この水路は大川前通が他門と呼ばれていたことから他門川と名付けられた[11]。やがて島に出来た町は市街地と一体化していき、大川前通は上大川前通、島の東端は下大川前通と呼ばれるようになった。また、幕末には甚九郎小路や熊谷小路など、幾つかの小路には表間口が並ぶようになっていた[9]

明治に入ると県令楠本正隆によって、通りと小路の名称は単純化された。楠本はそれまで街区ごとにバラバラに別れていた町名を通りの上手(南側)から順番に番号をふり、東西に並ぶ町を同じ番町に統一した(本町通の例[12]。横堀は上手の白山掘から順に番号がふられ、一番掘から五番堀に、寺町掘と片原堀は、それぞれ西堀と東掘に改められた[12]。前途したような通りと変わらぬ小路は横町と名付けられ、上手の横一番町通から順に横七番町通まで改められた[12]。堀に架かる橋はそれまで新津屋小路堀に架かる古町通の橋なら新津屋小路堀古町橋、片原堀に架かる柾谷小路の橋なら片原堀柾谷小路橋といったように、堀と交差する通りや小路を組み合わせたものであったが、この時にあわせて古町橋、東堀橋のようにそれぞれ改められた[13]。しかし結果的に改名された名は住人の間で馴染むことはなく、一番掘通や横七番町通のように、改名後の名がそのまま定着した例はごく僅かである[14]

明治期の堀では一時的に美化運動が進んだ事もあったが[15]大正期の大河津分水開通による信濃川の流量低下や[16]、増える自動車の交通量で必要となった道路拡張[17]、そして何より伝染病が相次いで流行した衛生面の問題が大きく[18]昭和39年(1964年)の新潟国体に伴う整備で堀は全て埋め立てられた[19]

通りの一覧[編集]

本町通の町名[20]
1729年 2010年
本町上一之町 本町通1番町
本町通2番町
本町下一之町 本町通3番町
本町通4番町
本町二之町 本町通5番町
本町三之町 本町通6番町
本町四之町 本町通7番町
本町五之町 本町通8番町
本町六之町 本町通9番町
本町十七軒町 本町通10番町
本町十四軒町 本町通11番町
横町 本町通12番町
湊町 本町通13番町
中洲崎町 本町通14番町
  • 西堀通(にしぼりどおり)
新潟町の移転後に寺町掘として掘られた。寺町川とも[4]。堀の西側は寺町として計画され、寺社が立ち並んだ。通りの中間点(現在の西堀交差点付近)には奉行所が置かれた[8]。堀の東側(現在の西堀前通)は江戸時代中期まで店を構える者はほとんどいなかったが、江戸時代後期になると遊女が行き交う歓楽街となった[21]明治5年(1872年)10月に寺町堀は西堀と改められ、埋め立てられた後に西堀通と名付けられた。西堀通は長らく東掘通の対抗方向となる4車線の一方通行道路であったが、2008年7月24日に片側2車線の対面通行となった[22]。通りは1番町から11番町まである。
  • 古町通(ふるまちどおり)
移転前から存在した町の中心であり、現在にいたるまで新潟の中心であり続けている。元は本町と呼ばれていたが、新町(現在の本町)の発展により古町と呼ばれるようになった[20]。通りの町名は統一されていなかったが、明治5年10月に上手から通し番号がふられた[23]。通りは1番町から13番町まである。
  • 東掘通(ひがしぼりどおり)
新潟町の移転後に片原掘として掘られた。片原川とも[4]。堀の西側は早くから店を構える者が多く、中間点には町会所が置かれた[8][21]。明治5年10月に片原堀は東堀と改められ、埋め立てられた後に東堀通と名付けられた。東堀通は長らく西掘通の対抗方向となる4車線の一方通行道路であったが、2008年7月23日に片側2車線の対面通行となった[22]。通りは1番町から13番町まである。
  • 本町通(ほんちょうどおり)
移転前から存在した古町と並ぶ町の中心である。元は新町と呼ばれていたが、通りの発展により本町と呼ばれるようになった[20]。通りの町名は統一されていなかったが、明治5年10月に上手から通し番号がふられた[23]。通りは1番町から14番町まである。
  • 上大川前通(かみおおかわまえどおり)
移転前の大川端通にあたる。他門とも。元々はこの道が信濃川沿いにあり、単に大川前通と呼ばれていた。大川とは信濃川のことを指す[11]。移転後も続いた土砂の堆積により川岸が東へ移動した為、新たに出来た東端の通りは下大川前通に、元の大川前通は上大川前通と呼ばれるようになった。通りの町名は統一されていなかったが、明治5年10月に上手から通し番号がふられた[23]。通りは1番町から12番町まである。

小路の一覧[編集]

  • ピンチャン小路
小路の中では最も上手にある古町通から西堀通に抜ける小路。江戸時代の地図には確認できず、明治に入ってからこう呼ばれるようになったと思われる[24]。この小路に住んでいた鍛冶屋の愛称、その鍛冶屋の鉄を打つ音が「ピンチャン」と聞こえた、水はけが悪く水溜りに「ピン、チャン」と玉水が落ちる音がしていた等、由来には諸説ある。
  • 眞浄寺小路(しんじょうじこうじ)
古町通から西堀通に抜ける小路。元は付近にあった寺の名前から妙覚寺小路と呼ばれていた。眞浄寺に至る小路でもある事からこの名がついた[24]
  • 丁持小路(ちょうもちこうじ)
古町通から東堀通に抜ける小路。江戸時代は堀で商いをする小揚が多く住んでいたことから小揚小路と呼ばれた[21]。明治に入り丁持が多く住むようになってからこの名で呼ばれるようになった[9]。明治5年には曲師屋小路と共に横一番町通と改められた。小路には現在も横一番町通の名が残る。
  • 銅屋小路(どうやこうじ)
東掘通から上大川前通に抜ける小路。小路の名は、片原堀東側に屋があったことに由来する[25]
  • 舟蔵小路(ふなぐらこうじ)
東掘通から上大川前通に抜ける小路。新右衛門小路とも。その名の通り舟を収める蔵が並んでいたことに由来する[25]
  • 曲師屋小路(まげしやこうじ)
東掘通から上大川前通に抜ける小路。金四郎小路とも。小路の名は、ふるいや蒸篭を作る曲師屋と呼ばれる職人が住んでいたことに由来する。明治5年には曲師屋小路と共に横一番町通と改められた[25]
  • 新川小路(しんかわこうじ)
西堀通から上大川前通まで町を貫く小路。宝暦九年(1759年)この筋に掘られた新川という堀に由来する。この堀は幕末に埋め立てられ、小路の名前だけが残った[26]
  • 権現小路(ごんげんこうじ)
古町通から上大川前通に抜ける小路。東掘通から上大川前通の間は由右衛門小路とも。小路の名は、かつて小路の先の古町通に熊野権現社があったことに由来する[24]
  • 法音寺小路(ほうおんじこうじ)
古町通から西堀通に抜ける小路。小路を抜けた寺町掘の先に法音寺があったことからこの名が付けられた[24]
  • 鍛冶小路(かじこうじ)
西堀通から上大川前通まで町を貫く小路。「鍛冶」は職ではなく屋号と考えられている。うひゃー
  • 碇屋小路
  • 柾谷小路
  • 加賀屋小路
  • 新津屋小路
  • 小原小路
  • 千歳小路
  • 八間小路
  • 新堀通(道心小路)
  • 吹屋小路
  • 坂内小路
  • 六軒小路
  • 広小路
  • 能登屋小路
  • 俵屋小路
  • 風間小路
  • 片桐小路
  • 五菜堀(御祭堀、五番堀)
  • 思案小路
  • 木下小路
  • 梅屋小路
  • 茂作小路
  • 甚九郎小路
  • 放生津屋小路
  • 関口小路
  • 斎川小路
  • 横七番町通(熊谷小路)

通称・愛称[編集]

  • 東新道(鍋茶屋通)
  • 昭和新道
  • 番号なし箇条書きの項目

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『新潟歴史物語』、20-24頁。
  2. ^ a b c 『新潟の堀と橋』、5頁。
  3. ^ 『新潟歴史物語』、19頁。
  4. ^ a b c 『新潟の堀と橋』、14頁。
  5. ^ 『新潟歴史物語』、30頁。
  6. ^ 『新潟の堀と橋』、9頁。
  7. ^ 『新潟歴史物語』、32頁。
  8. ^ a b c d e 『新潟歴史物語』、30-31頁。
  9. ^ a b c d 『新潟の地名と歴史』、33頁。
  10. ^ a b 『新潟歴史物語』、34-37頁。
  11. ^ a b 『新潟の堀と橋』、16頁。
  12. ^ a b c 『新潟の堀と橋』、34頁。
  13. ^ 『新潟の堀と橋』、35頁。
  14. ^ 『新潟の地名と歴史』、31頁、46頁。
  15. ^ 『新潟の堀と橋』、32-33頁、50-55頁。
  16. ^ 『新潟の堀と橋』、50頁。
  17. ^ 『新潟の堀と橋』、120頁。
  18. ^ 『新潟の堀と橋』、47頁。
  19. ^ 『新潟の堀と橋』、127頁。
  20. ^ a b c 『新潟の地名と歴史』、28頁。
  21. ^ a b c 『新潟の堀と橋』、14-15頁。
  22. ^ a b 東堀通り・西堀通り・新津屋小路の一方通行規制解除について” (PDF). 新潟市 (2008年7月7日). 2011年3月21日閲覧。
  23. ^ a b c 『新潟の地名と歴史』、46頁。
  24. ^ a b c d 『小路めぐり・古町』、2面。
  25. ^ a b c 『小路めぐり・本町』、2面。
  26. ^ 『新潟の堀と橋』、18頁。

参考文献[編集]