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利用者:Hardway/ほにゃらか

背景[編集]

人種差別の都市[編集]

1960年、バーミングハムのおよそ35万の人口は、およそ65%が白人で35%が黒人という人口構成で、米国で最も人種差別の根強い都市のひとつであった。バーミングハムが位置するジェファーソン郡での公共施設、商業施設での人種差別は法的に許可されており、生活の全般にわたって厳格に実施されていた[1]。1960年では市の黒人人口の10%しか有権者登録をしていなかった[2]。市の黒人の平均所得は白人の半分以下で、地元の製鋼所の黒人労働者の賃金水準が著しく低いのは当たり前であった[3]。バーミングハムでは警察官、消防士、百貨店の店員、バス運転手、銀行の窓口係といった職業に就いている黒人はいなかった。黒人秘書は、白人の専門家の下で働けなかった。黒人に与えられる仕事は、バーミングハムの製鋼所や黒人コミュニティでの単純労働に限られた。一時解雇が必要となれば、黒人従業員が真っ先に切られた。黒人の失業率は白人のそれに比べて2.5倍高かった[4]

バーミングハムの経済はブルーカラーからホワイトカラーの仕事への移行を試みるにつれて停滞した[5]。1958年のタイム誌では、人種差別廃止から白人労働者が得られたものは、黒人労働者とのさらなる競争であると報じた[6]。1945年から1962年の間に、人種差別が動機の未解決の爆破事故は50件にものぼり、市は「ボミングハム」とさえ呼ばれるようになった。白人と黒人世帯が共有する地域は多くの爆破攻撃を受けて、「ダイナマイト・ヒル」と呼ばれるようになった[7]。公民権を議論する場である黒人教会は特に攻撃の標的となった[8]。爆破実行犯はKKKのメンバーで、バーミングハムの主要産業である鉄鋼業で鉱夫として働くうちに爆弾の知識を得た者たちであった[9]

1956年、アラバマ州が全国有色人種向上協会 (NAACP)を禁止すると[10]、同年にフレッド・シャトルワース牧師は、抗議運動と訴訟でバーミングハム市の人種差別政策に対抗した。法廷が市の公園での人種差別を撤廃する判決を出すと、市当局は68の公園、38の遊園地、6のプール、4のゴルフコースを閉鎖する対応をとった[9] 。シャトルワースの家と、彼の務めるベセル・バプチスト教会は度々爆破された[11]。1962年にシャトルワースが市の人種差別的な法律に違反したことで逮捕され収監されると、彼はアート・ヘインズ市長あてに公共施設の差別撤廃を求める請願を出した。ヘインズ市長はこれに対し、請願をゴミ箱に捨ててしまったことを知らせる手紙で対応した[12]。外部の助けを求めて、シャトルワースはキング牧師とSCLCをバーミングハムに招いた[13]

運動の目標[編集]

1962年の夏の間、キング牧師はジョージア州オールバニの人種差別的な政策を変えようと運動を率いて、失敗に終わった。オールバニの運動でキングの評判は下がり、彼は回復することに熱心だった[13][14]オールバニ運動は1963年のバーミングハム運動に着手するSCLCにとって重要な教訓となった。オールバニでは、キングとSCLCは総じて市全体の人種差別の撤廃に集中した。一方でバーミングハムでは、彼らの運動の戦術は繁華街の商業地区と行政の地区に明確な目標を絞った。これらの目標には、バーミングハムのダウンタウンの店舗での人種差別撤廃、店舗と市当局での公正な雇用の慣行、閉鎖された公園の復活、バーミングハムの公立学校の差別撤廃を監視する二人種による委員会の設立などが含まれた[15]

公安委員長ブル・コナー[編集]

運動へのその強力な抵抗を通して、市政府はバーミングハム運動の成功での特筆すべき要因であった。市はその賛否両論の多い公安委員長、ユージーン・"ブル"・コナーに強力な影響を与える独特の構造を持っていた。彼はタイム誌に「大差別主義者」と描写され[16] 、公民権運動は共産党の謀略と信じ込み、教会が爆破された後に犯人は黒人であると言ってはばからない人物であった[17]。1958年、警察はバス・ボイコット運動を組織した牧師を逮捕した。連邦捜査局 (FBI)が逮捕での警察の不正行為の申し立てをめぐる捜査を開始した時も、コナーはFBIに謝るつもりはなく、もし北部の連中がこれ(人種差別廃止)を無理に押し付けるなら惨事が起こるだろうと言った[6]。1961年、フリーダム・ライダーズが地元の暴徒に攻撃されている時に、コナーは警察の介入を故意に遅らせた[18]。警察は、教会での集会で駐車した車の反則切符を切ったり、記録を取るために集会に私服で入り込んだりして、宗教的指導者と抗議運動家らに嫌がらせをした。バーミングハム消防署は実在しない火災の危険を探すことでこれらの集会を妨害した[19]。コナーは公民権運動に対してとても敵対的で、彼の行動は黒人たちを運動の支援へと駆り立たせた。

市長室での混乱はその運動に敵対するバーミングハム市政府を弱体化させた。コナーは、抗議運動に対抗しているその数ヶ月の間にいくつかの役職に立候補していて、唯一公安委員長の選挙にのみ勝ち残った。コナーの過激な保守主義は都市の進歩を総じて遅くさせると彼らは信じていたため、白人の政治的に穏健派のグループは彼を負かせようと動いた[20]。商工会議所と他の白人の実業家に支援された市民団体の戦術は成功した。1962年11月、 コナーは市長選挙で、より穏やかな人種差別主義者のアルバート・バウトウェルに敗れた。コナーと彼の支持者らは新市長の権限の受け入れを拒否した[21]。彼らは専門用語で任期が切れるのは1963年春ではなく1965年であると主張した。この短い間、バーミングハムには二つの市政府が置かれた状態であった[22]

バーミングハムへの焦点[編集]

不買運動[編集]

バーミングハムでの抗議行動は、モンゴメリー・バス・ボイコットを手本にして1962年に始まった。彼らの不買運動で商業地区は40%程度落ち込んだ。このボイコットに対応し、バーミングハム市当局は黒人コミュニティへの罰則として、主に低所得の黒人層が利用する食物供給プログラムを45,000ドル削減した。しかし結果としては黒人コミュニティをさらに抵抗に向けさせることとなった。

1962年に少しの黒人しか有権者に登録できなかったオールバニでの抗議からの教訓として、SCLCは、バーミングハムの商業への経済的圧力は、政治家への圧力よりも効果的であることを悟った。1963年春、ボイコットは、一年中でクリスマスに次いで忙しい商戦シーズンのイースターの前を狙って行なわれた。バーミングハムの数名の経営者らが人種を分ける標識を取り下げると、コナー委員長は、もし人種差別の慣習に従わなければ、営業許可を取り下げると経営者を脅した。

プロジェクトC[編集]

抗議運動家らは、バーミングハム警察から暴力を受けるだろうことを知っていたが、連邦政府の注目を得るために対決する姿勢は選ばなかった。SCLC創設者のひとりで1960年から1964年まで事務局長を務めたワイアット・ティー・ウォーカーは、直接行動の抗議の戦術を計画し、具体的にはデモに対して暴力で対抗するブル・コナーの性向に焦点を絞り、"対立"の頭文字を取ってプロジェクトCと名付けた運動を始めた。

方法[編集]

運動は図書館やランチカウンターでのシットインをはじめ、様々な非暴力の対立方法を使用した。SCLCの目標は刑務所を抗議者で満員にさせて市政府に交渉を仕向けることであった。 しかし都市の機能に影響するほどには逮捕されなかった。バーミングハムのほとんどの白人住人はデモに衝撃を受けたが、一部の白人はデモが続くにつれて協力的になった。

参考文献[編集]

  • Bass, S. Jonathan (2001). Blessed Are the Peacemakers: Martin Luther King, Jr., Eight White Religious Leaders, and the 'Letter from Birmingham Jail'. Louisiana State University Press. ISBN 0807126551
  • Branch, Taylor (1988). Parting The Waters; America In The King Years 1954-63. Simon and Schuster. ISBN 0671460978
  • Cotman, John (1989). Birmingham, JFK, and the Civil Rights Act of 1963: implications for elite theory. Peter Lang Publishing. ISBN 0820408069
  • Davis, Jack. (2001). The Civil Rights Movement, Oxford. ISBN 0631220445
  • Eskew, Glenn (1997). But for Birmingham: The Local and National Movements in the Civil Rights Struggle. University of North Carolina Press. ISBN 0807861324
  • Fairclough, Adam (1987). To redeem the soul of America: the Southern Christian Leadership Conference and Martin Luther King, Jr. University of Georgia Press. ISBN 0820308986
  • Franklin, Jimmie (1989). Back to Birmingham: Richard Arrington, Jr. and his times. University of Alabama Press. ISBN 0817304355
  • Garrow, David (1986). Bearing the cross: Martin Luther King, Jr., and the Southern Christian Leadership Conference. W. Morrow. ISBN 0688047947
  • Garrow, David, ed. (1989). Birmingham, Alabama, 1956-1963: The Black Struggle for Civil Rights. Carlson Publishing. ISBN 092601904X
  • Hampton, Henry, Fayer, S. (1990). Voices of Freedom: An Oral History of the Civil Rights Movement from the 1950s through the 1980s. Bantam Books. ISBN 0553057340
  • Isserman, Maurice, Kazin, Michael. (2008). America Divided: The Civil War of the 1960s, Oxford. ISBN 0195091906
  • Manis, Andrew (1999). A fire you can't put out: the civil rights life of Birmingham's Reverend Fred Shuttlesworth. University of Alabama Press. ISBN 0585354405
  • McWhorter, Diane (2001). Carry Me Home: Birmingham, Alabama, the Climactic Battle of the Civil Rights Revolution. Simon & Schuster. ISBN 0743217721
  • Nunnelley, William (1991). Bull Connor. University of Alabama Press. ISBN 058532316X
  • White, Marjorie, Manis, Andrew, eds. (2000) Birmingham Revolutionaries: The Reverend Fred Shuttlesworth and the Alabama Christian Movement for Human Rights. Mercer University Press. ISBN 0865547092
  • Wilson, Bobby (2000). Race and Place in Birmingham: The Civil Rights and Neighborhood Movements. Rowan & Littlefield. ISBN 0847694828

脚註[編集]

  1. ^ Birmingham City Council (1963年). “"Birmingham Segregation Laws"”. Civil Rights Movement Veterans. 2008年3月14日閲覧。
  2. ^ Eskew, p. 86.
  3. ^ Garrow, (1989) p. 165.
  4. ^ Garrow, (1989) p. 166.
  5. ^ Bass, p. 89.
  6. ^ a b “Birmingham: Integration's Hottest Crucible”. Time. (1958-12-15). http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,810711,00.html 2008年12月29日閲覧。. 
  7. ^ Gado, Mark (2007年). “"Bombingham"”. CrimeLibrary.com/Court TV Online. 1997年12月20日閲覧。
  8. ^ Branch, p. 570–571.
  9. ^ a b ジェームス・M・バーダマン 「黒人差別とアメリカ公民権運動」 (集英社新書)
  10. ^ U.S. Supreme Court (1958年). “"N. A. A. C. P. v. ALABAMA"”. FindLaw.com. 2008年3月13日閲覧。
  11. ^ Interview with Fred Shuttlesworth” (QuickTime). Birmingham Civil Rights Institute Online (1996-12-10). 2007年12月20日閲覧。
  12. ^ Garrow, (1989) p. 168.
  13. ^ a b Hampton, p. 125.
  14. ^ Bass, p. 96.
  15. ^ Morris, Aldon (October 1993). “Birmingham Confrontation and the Power of Social Protest: An Analysis of the Dynamics and Tactics of Mobilization”. American Sociological Review (American Sociological Association) 58 (5):  621–636. doi:10.2307/2096278. 
  16. ^ “Dogs, Kids and Clubs”. Time. (1963-05-10). http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,830260,00.html 2008年1月29日閲覧。. 
  17. ^ Isserman and Kazin, p.89.
  18. ^ Garrow, (1989) p. 169.
  19. ^ Manis, p. 162–163.
  20. ^ McWhorter, p. 286.
  21. ^ Jackson, Kenneth T. (1994). “Theophilus Eugene Connor”. Dictionary of American Biography (Supplement 9: 1971–1975 ed.). Charles Scribner's Sons 
  22. ^ Cotman, p. 11–12.