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デブレツェンのコシュート像

コシュート・ラヨシュKossuth Lajos1802年-1894年)は、ハンガリー民族運動の指導者であり、ハンガリーの民族的英雄。

生涯[編集]

1802年、モノク(現・スロヴァキアの都市)で、貴族の息子として生まれた。プロテスタント系の学校で法律を学び弁護士となり、1825年にはペシュト(現・ブダペシュトの一部)議会の議員となった。1832年より発刊していた『議会通信』の内容が急進的であるという理由で発刊が禁止され、1837年に懲役4年の刑を宣告された。(実際は3年で釈放。)しかし、釈放後には『ペシュト新報』を発刊し、自由主義的な運動を継続させた。

1848年革命の熱狂の中、コシュートは封建的特権、農奴制の廃止やウィーンからの独立を議会演説で主張し、多くのマジャル人の支持を集めた。1848年3月のペシュト蜂起は、皇帝フェルディナントの譲歩を引き出し、コシュートも財務大臣に就任し、近代的諸改革が実施された。しかし、革命の中心地であったフランスで六月蜂起(六月暴動)が失敗に終わるなど、各地の自由主義運動が衰退へ向かうと、再びオーストリア政府は強硬策へと転じることになった。クロアティアの軍人イェラチッチを派遣してハンガリーを圧迫した。1849年、劣勢となったコシュートはデブレツェンに拠点を移して抵抗し、正式にハンガリーの独立を宣言した。その後、軍勢を巻き返し、ブダペシュトの奪回に成功する。

再び、ハプスブルク家の軍勢が押し寄せ、ブダペシュト包囲を経て街は陥落した。コシュートはオスマン帝国に亡命、その後はイギリス、アメリカ合衆国、フランスへ身を寄せた。イギリス亡命中にカール・マルクス、フランス亡命中にジョゼッペ・マッツィーニと接触があった。その後、1867年にアウスグライヒによってオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立するが、彼はこれを真の独立ではないとして受け入れなかった。そのまま帰国せず、1894年にイタリアのトリノで死去した。



セーチェニ・イシュトバーン
セーチェニ鎖橋
セゲドのイシュトバーン像

セーチェニ・イシュトバーンSzéchenyi István1791年-1860年)は、19世紀前半に活躍したハンガリーの自由主義貴族。ブダペシュトを代表する観光名所であるセーチェニ鎖橋は、彼の名をとって付けられたものである。

セーチェニ・フェレンツ伯の息子として生まれた。ナポレオン戦争に参加している。一時は青年期に放蕩生活を続けるが、やがてハンガリーへの民族愛にかられ、ハンガリーの近代化に力を注ぐようになる。ハンガリー科学アカデミーの創設に理念、資金面で全面的に協力した。

改革のモデルとしてイギリスを想定した。1830年に著した『信用』において、封建的諸制度の撤廃を 含む改革案を示した。しかし、反ハプスブルク、ハンガリー独立を掲げる急進派とは見解は一致しなかった。

1848年革命の際、一時的に樹立された革命政府に入閣するが、劣勢になると発狂する。1859年に自殺。