利用者:Hasi/下書き5
バルフ(Balkh)はアフガニスタンの都市。バルフ州に属する。かつては、バクトリア王国の都バクトラとしても繁栄した。古代より交易路の要所として発展したが、現在は小規模な都市となっている。人口は1万人程度。
地勢
[編集]アフガニスタンに広がる山岳地帯の山麓近く、バルフ川の右岸に位置している。ウズベキスタンの国境に近く、約70キロほど北が国境地帯である。近隣の都市としては、約20キロ東のマザーリシャリーフが挙げられる。
歴史
[編集]古代より交易路の拠点として繁栄しており、その繁栄はバビロンやニネヴェ、エクバタナにも比類したとされる。ゾロアスター教の信徒にとっては、始祖ゾロアスターが埋葬された地として神聖視された。アケメネス朝ペルシアの支配を経て、アレクサンドロスに征服された。前325年頃、アレクサンドロスが死去したという虚報を契機に、一部のギリシア人軍団が反乱を起こすと、彼らはこのバクトラを占領して一時抵抗をみせたが鎮圧された。アレクサンドロス帝国の分裂後は、セレウコス朝シリアの支配下におかれた。前256年頃、ギリシア人のディオドトスが反乱を起こし、この都市(当時はバクトラ)を中心としてバクトリア王国がセレウコス朝シリアから独立を果たしたと考えられる。
ただ、バクトラの都がどこであったかは、確実な裏付けがあるわけではない。かつて根拠となっていたバラ・ヒッサール遺跡は、調査によってティムール帝国期の遺跡であったことが分かった。おそらくはこの地などを中心としてギリシア文化が保たれたと考えられるが、その後世への継承については、以前の想定よりも限定的であったとされる。(いわゆる後世の「ガンダーラ美術も、近年はローマ帝国がインド洋にまで商業網を広げる中で、再びギリシア文化が北インドへ伝えられたとする見解が有力になっている。)
その後は、大月氏、ついでクシャーナ朝のもとで繁栄し、仏教の受容も進んでいった。この辺りの支配をめぐって、6世紀にはエフタルとササン朝ペルシアと抗争が続いたが、最終的にはササン朝の影響下におかれた。7世紀には、この地に唐僧の玄奘が訪れたとされる。7世紀後半にはイスラーム勢力のウマイヤ朝に征服された。その後、アッバース朝、サッファール朝の支配を経て、900年頃にサーマーン朝はこの地を征服して勢力を拡大させた。その後、トルコ系王朝の支配を経て、13世紀にチンギス・ハンに征服されて荒廃した。
14世紀、のちに広大な帝国を築き上げるティムールと、そのライヴァルであったフサインが争いを繰り広げたが、バルフはその際のフサインの居城となった。最終的にはティムールがバルフを包囲してフサインを降伏させた。この際にティムールによって街の城壁が破壊された。そのため、近隣の都市マザーリシャリーフで4代正統カリフであるアリーの墳墓が出土したこととあわせ、マザーリシャリーフにその繁栄を奪われた。その後、一旦は19世紀初頭に繁栄を取り戻すが、洪水期にマラリアが流行して都市機能を失い、再びその中心的位置をマザーリシャリーフに譲った。20世紀初頭のブリタニカには、ユダヤ人コミュニティーの存在も指摘されている。
1966年、バルフの郊外から壺に入った多くのコインが出土した。アテネなどギリシアの諸ポリスで流通していたものであり、おそらく前4世紀前半に埋蔵されたものと推測されている。
観光
[編集]- ハージャ・アブー・ナスル・パルサ廟
- ラビア・バルヒの墓
主な出身者
[編集]- アブー・マーシャル(潮の満干と月の満ち欠けを関連づけた)
- イブヌル・バルヒー(歴史家、『ファールースの書』)
- ジェラルッディーン・ルーミー(メフレヴィー教団の創始者、ペルシア四大詩人)
- サーマーン・ホダー
- ウンスリー(詩人)
- ダキーキー(詩人)
- ワトワート(詩人)
- ミールホーンド(歴史家)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- アフガニスタンへの扉・バルフの紹介(日本語)