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利用者:Hirobeatbox


REATMO[編集]

REATMO(リトモ)は、日本人ヒューマン・ビートボクサー作曲家音楽プロデューサー、選曲家。

概要[編集]

人間の口とマイクによる一般的なヒューマン・ビートボックスの演奏のみならず、DAWやループステーション、MIDIコントローラーなどを駆使して「自らの声とビートボックスで楽曲を生み出し、演奏する」スタイルのパイオニア。演奏活動と並行して、作曲家・音楽プロデューサーとしても活動。主たるDAWとしてAbleton Liveを使用。

パリファッションウィーク(いわゆるパリコレ)での演奏、米国の大型フェスSXSWへの単独出演と全米ツアー、世界30カ国に及ぶライヴツアー経験、Maroon 5Linkin Parkが演奏を絶賛するなど、ヒューマン・ビートボクサーとしては他に類を見ない活動経歴を持つ[1]

来歴[編集]

15歳より演奏活動をスタート、いくつかのステージネームを経て、2013年より「REATMO」を名乗り活動開始。

2014年、米国のロックバンドMaroon 5のメンバーJesse CarmichaelにInstagramを経由して見出され、Jesse、Maroon 5の公式SNSアカウントそれぞれでパフォーマンスを称賛される。Maroon 5をデビュー当時から愛聴していたREATMOはJesseからの思わぬ連絡に驚き、現在に至るまでの親交を持つようになった。Maroon 5の2014年の来日ではバンドと行動を共にし、以後Maroon 5が来日する度に友人、音楽家として親交を深めている[1][2]

同年2014年、六本木のライブハウス新世界にて主催イベント「FADER」を隔月開催。ヒップホップMCShing02(シンゴ・ツー)とは、このイベントにShing02が出演したことで親交が始まり、その後ライブや楽曲制作などで数多くコラボを重ねている。

2015年1月、フランスパリで開催された日本人ファッションデザイナーミハラヤスヒロのFW15コレクションのファッションショーに出演。ライブ演奏でランウェイの音楽を奏でた。これをきっかけに、その後数年にわたりMIHARA YASUHIROの店舗BGMの選曲はREATMOが担当した。

同年2015年、SXSWでのPerfumeによるパフォーマンスをネット視聴、SXSW出演に興味を持つ。優勝者がSony Musicの完全バックアップのもとSXSWと全米ツアーを行うことができる「グランプリ、いきなり米国フェス出演オーディション」をSNSで見かけ、参加。応募総数1850組からオーディション優勝を勝ち取り、2016年開催のSXSWへの出演と全米ツアーを実現させた。[3]

2016年、SXSWへの出演を皮切りに、全米各都市でのライブツアー敢行。帰国まもなく、国際交流基金の招聘により、日本人ダンスユニットHilty & Boschとともにブラジルサンパウロでライブツアーを行った。これがきっかけとなり、後年REATMO単身で複数回にわたってブラジルツアーを重ねることとなる。また、同年よりは中国ツアーも定期開催するようになり、年間で10都市以上ライブを行った。

2017年、日本版SXSWともいえるコンセプトで始まったJ-WAVE主催のイベント「Innovation World Festa」に出演。同じく出演していた蛯名健一(EBIKEN)、白Aのメンバーと出会う。同年夏期には、中国・上海で初開催された日本発のフェスSUMMER SONICに出演。

2018年、再び国際交流基金の招聘により、REATMO単独としては初のブラジルツアーを開催。同年には、Shing02とREATMOの2組による中国3都市におけるライブツアーが行われた。

2022年8月〜9月、ブラジル4都市でのツアーを敢行。大きな盛り上がりを見せたライブの模様は、ポルトガル語圏最大の日系・アジア系情報新聞「Jornal Nippon Já」の一面を飾った。

同年2022年より、日本初のプロダンスリーグ「Dリーグ」の出場チームavex ROYALBRATSのパフォーマンス楽曲の制作・提供を開始。兼ねてより数々のダンスイベントへのライブ出演、Hilty & Boschとコラボを重ねていたことでダンス界との接点が濃くなっており、近年ではダンスパフォーマンス用の楽曲制作が増えている。

尚、avex ROYALBRATSはREATMO制作の楽曲を使った試合では無敗が続いており(2022-2023シーズン終了時点)、チームメンバーや関係者の間ではREATMOは「勝男」(かつお)の異名で呼ばれている。

人物[編集]

神奈川県逗子市生まれ。出生後すぐの幼少期から高校卒業までを長野県で過ごす。幼少期から声帯模写を好んで行う子供であったが、十代半ばに姉が主催したアカペラサークルのコンサートでボイスパーカッションを見たことで自らも習得を志すようになり、独学で練習に励むようになる[1]

当初はアカペラグループを結成して自らボイスパーカッションを担当することを望んでいたが、通っていた中学校・高校では仲間が見つからず、一人で演奏できるヒューマン・ビートボックスに傾倒していった。「Rockapella」、「The House Jacks」といった米国のアカペラグループのアルバム、The RootsのビートボクサーRahzel(ラゼール)の1stアルバム「Make The Music 2000」を愛聴、その中で聞くことができるビートボックスの技術を耳コピすることでビートボックスの腕を磨いていった。

母親が桐朋学園大学ピアノ科出身のクラシックピアノ奏者であった影響で、物心つく前から音楽に親しんでいた。そのため音楽の演奏や作曲にも興味を示し、ビートボックスの練習と並行してDAWを使っての音楽制作も独学で行うようになる[1]

高校卒業後に米国・マサチューセッツ州ボストンに語学留学、その期間中に現地でのビートボックスバトルに参加、優勝を果たす。この事が、それまで趣味として嗜んでいたビートボックスを、よりプロフェッショナルな領域で続けていくきっかけとなる[1]

帰国後、日本におけるビートボックスの先駆者AFRA(アフラ)と出会う。ビートボクサーとしてもさることながら、その人間性とフットワーク軽い活動哲学に感銘を受け、プロフェッショナルとしての手本とするようになる[2]

剣道有段者。

  1. ^ a b c d e 「肩書にとらわれない」32歳の自由な働き方”. 東洋経済オンライン (2019年12月24日). 2023年5月17日閲覧。
  2. ^ a b 「肩書にとらわれない」32歳の自由な働き方”. 東洋経済オンライン (2019年12月24日). 2023年5月17日閲覧。
  3. ^ 【速報】「グランプリ、いきなり米国フェス出演オーディション」グランプリはヒューマン・ビートボクサーREATMO!”. プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES (2015年12月1日). 2023年5月17日閲覧。