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利用者:Igoten/sandbox

開産社(かいさんしゃ)は、明治の初頭に筑摩県に設立された、半官半民の会社。 本社は松本開産社、本社所在地は、筑摩県松本。

開産社社金元受帳

設立の経緯[編集]

初代筑摩県権令永山盛輝は、明治6年11月16日の下問会議に、管下36大区長をはじめとする下問会議議員を集め、殖産興業、窮民救済の会社設立を下問し、明治7年3月末日から同年4月の7日ごろ勧業社なる会社を設立する。この勧業社が明治8年3月15日に、開産社と社名を変更して再出発する。勧業社が開産社と名前を変えた理由は、明治7年内務省に設置された勧業寮への名前の抵触を避ける為とみられる。

設立の旨趣[編集]

勧業社(後の開産社)設立の目的は、殖産興業をもって貧民を富ますとともに、財本を蓄積し、助けが必要な貧民にこれを貸し出すことが出来る会社の設立にあった。

以下に明治6年の「勧業社条例」を掲げる。
なお下線部分は、「勧業社条例」にあって「開産社条例」に無い部分である。
「勧業社条例」第1条「発行旨趣」
『抑(そもそも)予備なくして凶荒に遇ひ、餒(う)へて溝壑(こうがく=どぶ)に転し、寒へて街衢(がいく=ちまた)に倒る、愁苦(しゅうく=くるしみ)焉(これ)より大いなるはなし。此時に膺(あた)り偶(たまたま)糶発(ちょうはつ=穀物を出す)して之を賑はす(貧しいものに金品を与えて救いめぐむ)者あり。其の志素より嘉賞(かしょう=ほめたたえる)するに足ると難も、目下の凍餒(とうたい=寒さと飢え)を拯(すく)ふに過ぎす。吾県令閣下勧業(開産)の方法を設け、常に此等の貧民を富まし、卓然自主の権を有せしめんと欲し玉ふと事茲に年あり。故二千五百三十三年十一月十六日(明治6年) 県庁問題を下して之を議せしめしに、到底会社を置きて財本を貯蓄し、貧民の求需を待って之を貸与し、欲するところを為さしめて其のその成功を責むるに若くなきの旨に同意せり。社中権令閣下民を愛するの至渥(しあつ=うるおいにいたる)と、議者の貧民を外視せすして此会社を創立し、管内の幸福を謀らんとするの厚意に基き、以て会社設立す。名づけて之を勧業社(開産社)と云う。』
- 有賀義人著 「信州の啓蒙家 市川量造とその周辺」「勧業社の発足」(170P-171P)より抜粋 - 

元資[編集]

勧業社(後の開産社)の元資は、大まかな分類で次のようになっていた。
1、 県令、県官及び有志からの募金。
2、 大蔵省からの無利子の融資。  
3、 一般庶民から徴収。      
大蔵省からの無利子の融資は、”拝借金”と称し、融資にあたり政府から担保の提供を申し渡され、勧業社社長となった大区長30名が各自所有の土地を抵当として提供した。一般庶民からの出資は、農地や宅地の面積をもとに雑穀や米を相場で代金に換算して徴収した。

融資の使用制限[編集]

「勧業社条例」(後に「開産社条例」)には受けた融資は、次のような事業を行うことに使用しなければならないことになっていた。
1、 荒蕪ノ地ヲ拓キ桑、茶、楮、莨、藍、其他果実等地味ニ応ジ之ヲ栽培スベキ事。
2、 養蚕牧牛ヲ始メ、豚、鶏、家鴨を盛大ニ蓄フ事
3、 新溜池ヲ築キ旱損ノ患ナカラシメ、且畑田成ヲ目論見可キ事
4、 山繭ヲ養ウ事
5、 石炭ヲ鑿(サク)リ蒸気機械ヲ製シ、百工技芸ヲ起ス事
6、 薩摩芋、馬鈴薯等ヲ栽付ル事
7、 利器ヲ造リ善良製糸ヲナス事

北原稲雄と松本新聞との対立[編集]

開産社は30名の大区長を社長としスタートしたが、筑摩県廃県後の明治10年前後に、北原稲雄が専任社長に就任する。北原稲雄は明治9年の筑摩県廃止まで官吏を務め、8年時は十等出仕であった。12年5月、北原稲雄社長は困窮士族救済のための特別措置に関する「奉願」を県へ提出する。8月、市川量造松沢求策らが『松本新聞』にて北原社長の「専断」と士族優遇措置を攻撃し始める。2月、長野県は開産社に対して社則改正要求の通牒と改正会議の社員召集を要求。実質的な県の経営介入に対し、北原は反発、翌13年2月、社則改正協 議会が県官を迎えて開催されるが、北原は県側の主張(開産社の完全民営化要求と北原の「専断」に対する非難)に反発し、途中退席しそのまま辞職する。

新社長の選任[編集]

北原稲雄辞任後、「改正法案」起草委員として樋口与平・上篠四郎五郎ら五名が選出され、松沢求策も参加。14年に入り、「改正法案」に基づき南部七郡で改正委員五一名を選出する。その後規則改正会議が何度か開催されるが、欠席者が多く議事がまとまらなかったようである。同年9月にようやく規則改正案を決議するに至る。明治14年11月、南部七郡から選出された議員”により社長選挙が実施され、上伊那郡小野村の在野の倉澤清也(倉澤義随、島崎藤村作「夜明け前」では、倉澤義髄となっている)が当選する。なお上記起草委員の樋口与平は北原稲雄の弟であり、倉澤清也社長就任後、7人が任命された副社長の一人となり、社長の清也を補佐する。

開産社の苦悶と終息[編集]

倉澤清也が開産社社長となった明治14年、開産社は県の保護干渉を脱し、完全な民営となる。しかしながらこの後開産社に待っていたものは、決して平坦な道ではなかった。明治14年ごろは、不換紙幣の暴落により、この対策として、紙幣整理政策が実行されつつあり、物価は暴落し、経済の不振により貸付金の回収は滞った。開産社の染織工場も損失が多く、経営困難となり、明治16年には民間人に貸与し、事業継続を図るに至った。 このような困難な状況下で、倉澤清也以下新たに選出された人たちは、鋭意この回収整理に努め、県借用金及び、大蔵省拝借金等順次償還を行った。明治17年7月より明治18年6月までの開産社考課帖付属標によると、金1,776円29銭9厘の純利益を出している。しかしこの時期、各地に設立された銀行は、ほぼ同様の業務を司る開産社存続の意義を減じ、明治18年9月の通常総会成義案に開産社の解散分離の議案が提出されるに至り、貸付金の回収がほぼ終了した明治21年、開産社はその役目を終えて解散する。結局、拝借金は全て完済し、貸付金を含む総資産53、000円余りの資産を計上し、これを最初の積穀高に按分し各郡に分配した。

参考文献[編集]

有賀義人 『信州の啓蒙家 市川量造とその周辺』凌雲堂書店、昭和51年5月30日発行