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利用者:Ikedat76/言い訳はそれで終わり?


利用者や利用者の意見・行動を焦点とする批判に対して、批判に応えることを拒否するために持ち出されるいくつかの文書があります。そうした文書は、タイトルのみでは趣旨を正しく理解できるわけではなく、文書を読みこむ必要がありますが、しばしばそうした読み込みがなされないまま、誤用(ときには悪用)される場合があります。

「個人攻撃」の誤訳あるいは誤用について[編集]

個人攻撃は許されない、とはWikipedia:個人攻撃はしないにあるとおりですが、では個人攻撃とは何で、なぜ許されないのでしょうか。

そもそもの問題として、(そのタイトルにもかかわらず)しないよう求められているのは、個人攻撃ではなく人格攻撃(personal attacks)です。日本語版におけるWikipedia:個人攻撃はしないen:Wikipedia:No personal attacksの2003年当時の版の訳として導入されました。その限りにおいて禁じられている行為の例示(「ただし、以下の内容は一例であって以下のものだけが個人攻撃とは限らない。」)となるのは

とあります。

しかしながら、その一方で利用者間に議論となった際に対話の中で、必要に応じて説明を求めるたり、誰かの考えに論駁することは禁じられていません。当たり前ですが、そのようなことをすればおよそ議論というものはなりたたなくなります。不適切な行動に対する制止が禁じられる、というのであれば、何をかいわんや。かかる誤用から距離をとるため、個人攻撃ではなく人格攻撃という語を以後、使うことにします。

さて、それでは人格攻撃がなぜまずいのか。かつての井戸端のトピックで示された考察によれば次の通りです。

結局のところ、非難されるべき個人攻撃とは、
  1. まず「~~~という主張は間違っている。なぜなら、それを主張している人は×××だからだ」という論理的には誤った論法であり
  2. かつ、議論の主題に関して合理的・説得的な根拠を提供できず
  3. さらに、それが人を精神的に傷つけたり、萎縮させたりする
という場合ではないかと思います(概念的には、2と3の要件を満たさずとも「個人攻撃」になりますが、それは非難されるべきことを必ずしも意味せず、たんに論法の分類という衒学的な趣味に貢献する概念に過ぎないでしょう。)。 — 利用者:mizusumashi、2008年10月5日 (日) 01:28 (UTC)[1]

つまりは、論理的に誤っており、有用性を欠くからということです。しかしながら、その一方である利用者が継続的に問題行動を継続し、利用者を焦点とすることによって最も有用なかたちで問題を摘出できるのであれば、どうでしょうか。

また、2と3は比較考量にのり、わずかながら説得力はあるがそれが生み出す萎縮効果とはつりあわないとか、たしかに人を傷つける可能性は否定できないがそれが生み出す説得力は絶大であるので許容されるべきである、ということもあるように思います。 — 利用者:mizusumashi、2008年10月5日 (日) 01:28 (UTC)

あるいは、

コメントを受けて考えましたが、やはり、根拠があるのかどうか、というのが重要な点ではないかと思います。ある人に対する評価に根拠があり、またその評価が主題に関する主張・意見・要請の根拠となるという、いわば二段階の根拠によって最終的に説得力を生み出すならば、(それによって人が傷つけられたり、萎縮したりという効果と比較考量した上で)人に対する批判ないしは人に対する否定的評価の表明も許される、と考えるべきではないかと思います。そうでなくては、投稿ブロック依頼など提出しようがありません。 — 利用者:mizusumashi、2008年10月5日 (日) 05:55 (UTC)

利用者を焦点として、プロジェクトに対する有害な影響の発生を防止するためにWikipedia:投稿ブロック依頼が存在するように、個人を焦点とした批判はいつ・いかなるときにでも・無条件に禁じられているわけではありません。必ずしも推奨されているというわけではありません。かならず根拠が伴わなければならないにせよ、単に比較考量の可能な有用性の次元において、批判はしてよいのです。

例えば、記事は特定の利用者の「所有」に帰するものではありませんから、記事の改善が特定の利用者のみに責を帰されることはありえません。しかしながら、継続的に問題のある記事を作成し続け、その改善が(場合によっては削除が)他の利用者のリソースを無為に浪費させ続けているなどという場合に、問題のある記事を作成し続ける利用者を批判する(攻撃ではありません。批判には根拠が伴わなければなりません)ことは、むしろ必要なことです。

善意であれば何をしてよいのか?[編集]

もうひとつ顕著に見られるのが、Wikipedia:善意にとるの誤用・悪用です。

いかなる行動をしている利用者であっても、その利用者や利用者の行動を善意あるものとして受け取らなければならない。批判してはならない。人のことを悪く言ってはいけない。右の頬を打たれたら、左も差し出さなければならない……こうした解釈(これらに限りませんが)は全て誤謬です。

そもそもにおいて「善意にとる」とはどういうことなのでしょうか。

善意にとることは、ウィキペディアにおける基本的な行動原理です。ある編集者による記事の編集やノートのコメントが善意に基づいていると仮定するということです。 — Wikipedia:善意にとる、2013年6月23日 (日) 10:59 (UTC) 版

そうです。ある利用者が善意である、とは仮定でしかなく、それが事実であるかどうかさえ問題ではないのです。これは別にオンラインに限ったことではありませんが、たとえリアルワールドであったとしても、相手が善意の人物であるかどうかは、外形的には判断しうるかもしれませんが、逆にいえば判断できるのは外形であるにすぎません。「真意が伝わっていない」ではないけれど、そもそも心のなかの問題であり客観的に結論に至ることのできない意思(善意・悪意問わず)を問題にすることは、問題の立て方が誤っているために解けない擬似問題に迷い込むことになります。あたりまえですが、ウィキペディアの参加者は心の哲学の例題を解きに来ているわけではありません。いうならば、もっと実務的な問題に取り組もうとしているに過ぎません。

実務的、とはどういうことでしょうか。この文書は意図ではなく行為に着目することをもとめています。したがって、着目するべきは行為です。行為が悪しき結果を生んでいるのであれば、それは行為としてしかるべく評価され---批判され---るでしょう。なにより、

もちろん、善意にとることと悪行を無視することとは異なります。善意がある人だと思われたいなら、それを証明する行動で示して下さい。他人に責任をお仕着せしないで下さい。「善意にとる」と叫んでいても行動していることにはなりませんし、そんなことばかりしていると確実にふまじめだと思われてしまうでしょう。 — Wikipedia:善意にとる、2013年6月23日 (日) 10:59 (UTC) 版

悪意はなかった、だから悪い結果になっても許される。いいえ、とんでもない。逆です。「善意」という仮定は、単にある問題(誤った・解けない問題)を宙吊りにするための便宜的手段に過ぎません。もっといえば、善意であっても悪意であってもそんなことはどうでもいいのです。そんなものは問題ではないし、問題にする必要もないのです。「善意」であっても「悪意」であっても(「悪意」であればなおさらですが)悪い結果を生んでいるのであれば、その行為に対しては相応に応じられるし、ただ行為が生んだ結果のみに対応することが求められているに過ぎません。

脚注[編集]

  1. ^ Wikipedia:井戸端 2008年10月5日 (日) 01:28 (UTC)より。「(概念的には…概念に過ぎないでしょう。)」の部分はオリジナルでは脚注。