利用者:IonianWind/Wikipedia編集時に各人が意識すべき要素の重み付けについて

あるべき姿勢[編集]

ウィキペディアというのは、基本的に、「皆で 良い内容の百科事典を作ろう」というプロジェクトだ。 そのプロジェクトを実現しつづけるためには、ウィキペディアンたちが記事内容に しっかりと意識を集中させる必要がある

ところが、ウィキペディアンの中には、プロジェクトの本筋から脱線してしまって、記事内容にしっかりと意識を集中させない人がいる。他の編集者との過去の関係にばかり意識を向けてしまって、個々の編集まで色眼鏡で見てしまったり、「あちらの恨みをこちらで晴らしてやる」とか「あいつはXの記事で対立したから、Yの記事で白紙にして仕返ししてやる。正しい内容であっても白紙にしてやる!」みたいな発想をする人がけっこうな数存在している。これは、Wikipediaプロジェクトの最重要点が何かということを踏まえると、非常に問題がある行為だ。

もし 「個々の記事の編集内容の質」、「他の編集者に対する関係」という要素があるとしたら、

その重み付け、個々のウィキペディアンの心の中での優先順位というのは次のようであるべきではないだろうか?

「個々の記事の編集内容の客観的な質」> 「他の編集者に対する個人的関係・感情」


マズい姿勢[編集]

Wikipediaプロジェクトというのは、あくまで良い内容の百科事典を作るプロジェクトなのだから、 Wikipediaの画面を開いている限り、絶対に、ウィキペディアンの発想が次のようになってはいけないのではないだろうか ?

「個々の記事の編集内容の客観的な質」<「他の編集者に対する自分の個人的関係・感情」

こんな発想をしていると、「お前は、オレにきちんと仁義を切ったから、加筆を許す」とか「お前は仁義を切らなかったから、どんな加筆でも即座に白紙化してやる」とか「この記事は最初からオレの陣地だ。だからオレに媚びへつらう者以外は出ていけ」みたいな発想・発言がじわじわとひろがっていってしまって、Wikipediaの各ページが、まるで ヤクザやチンピラの縄張り争いの場のようになってしまう。それは絶対にマズい。ウィキペディア創始者のジンボ・ウェールズも、「ウィキペディアンは、個々の記事のページを、自分の陣地や縄張りのように見なす発想はしてはならない」といった主旨の発言をしていた、と記憶している(古い記憶なので、とっさに該当ページを見つけられないが、たしか発言していた。)。

管理者は、ウィキペディアンの発言を観察していて、「あいつに対しては個人的な恨みがある」とか「あの個人が好きだ」とか言いつつ、ヒートアップして、公式ルール違反の行為を繰り返すウィキペディアンが現れたら、そういうウィキペディアンに対して、前のほうの望ましい式、『「個々の記事の編集内容の質」> 「他の編集者に対する個人的関係・感情」』を提示して、どんな場合でも、個人的な恨みよりも、3大ルールに基づいて個々の記事の質を絶対に優先して判断すべきだと諭すべきではないだろうか? 

また、管理者は、『個人的な感情は切り離して[1]、編集上の判断はするべきだ』、とウィキペディアンたちに諭すべきではないだろうか? [2]

同じBさんの編集でも、【P】の記事の何月何日のあの編集は良い、だが【Q】の記事の何月何日の加筆は良くなかった、【R】の何月何日の加筆はまあまあだ・・・・と個別に判断すべきではないだろうか。たとえ個人的に恨みがあっても、良い編集は、やはり良い編集なのだから。

 --IonianWind 2010年7月15日 (木) 01:04 (UTC)

つぶやき[編集]

  1. ^ 人間というのは動物的な側面も持つものだから、すっかり感情を切り離すことは不可能だとしても、正当化できるようなものではなく、各人はできうるかぎり切り離す努力を常にしつづけなければならない、とし、諌めるようにしなければ、集団は暴走し、ケダモノの群れのようになってしまう。
  2. ^ 人間は、大人になるにしたがって、単細胞な状態は卒業し、アンビバレントな感情を持てるように成長しなければならないのではないだろうか?  それとも、高校生や20代前半の人の比率が異常に高い日本のウィキペディアでは、そういった精神的な成熟を期待することが、土台 無理な話なのだろうか?