利用者:Isuk3/sandbox
Isuk3/sandbox | |
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1920年中国・大連にて撮影 | |
生誕 |
1872年5月15日(152歳) 日本柳川藩 |
死没 |
1929年4月3日(56歳没) 日本東京市 |
宮崎虎之助(みやざき とらのすけ、1872年(明治5年)5月15日 - 1929年(昭和4年)4月3日)は日本の宗教家、画家。自らを預言者と称し、明治時代の終わりから大正のはじめにかけて東京の街頭で説教をしてまわる活動で有名だった。
生涯
[編集]誕生から上京まで
[編集]1872年、柳河藩(現在の福岡県柳川市)に、宮崎俊造、テイ夫婦の間に生まれた。テイの実家が浄土真宗の寺院であったこと以外、宮崎家についてはよくわかっていない。22歳ごろ日向神峡において悟りを得たとされる。その後大井憲太郎の下で、政治活動に携わった。小作条例期成同盟会と呼ばれる団体の発足や機関紙である大阪週報への寄稿等の記録が残っている。こののちに東京へうつり、深川で再び啓示を受けた。
東京での活動
[編集]明治37年、預言者であることを公言し、『我が新福音』を著す。以降深川や小石川の居宅を拠点としながら布教活動を街頭において行う。妻子を伴って「預言者」と書かれた襷をかけた姿での演説が有名となった。信者かつ、経済的な援助者として海軍機関中佐の飯森正芳がいたが、宮崎との関係を危険視した上司により呉勤務と異動されると、関西を中心に全国への伝道活動へと力を入れるようになった。またこのような宣教と並行して、読売新聞や朝日新聞に頻繁に寄稿し、芸術政策から文学論など広い話題について意見を書き表していた。
東京での活動のうち最もよく知られているのは大正5年の夏目漱石の葬儀への闖入事件である。芥川龍之介の『葬儀記』では斎場の入り口において自身の宣教活動を行なった宮崎虎之助をその人と認識している。
晩年
[編集]光子夫人の死後、自身の絵の展覧会を催すなど、それまでの街頭での活動からの転換を見せる[1]。それと同時に朝鮮や満州への伝道活動に力を入れるようになり、東京市民の記憶から忘れられるようになった。1928年の秋、大陸で病気を患った虎之助は帰朝し、目白の自宅で療養生活を送るようになったが翌年4月3日死去した。読売新聞によれば「死んでからでは詰まらない」と死の一ヶ月前に自ら告別式を執り行い、遺言として「誰か序のある人に頼んで太平洋の眞中に水葬して呉れ」と言い残していたという。
人物
[編集]街頭での宣教活動によって「預言者」と大きく書かれた襷、フロックコート、長い髭を持ってよく知られていた。
家族
[編集]- 妻 光子
- 長女 照子
著作
[編集]- 『我が新福音』前川文榮閣、1904年
- 『幽裏明』育英社、1905年
- 『基督観』博文館、1907年
- 『クリエーション』神生クリエーション教壇、1911年
- 「聖母帝子刀自」『宮崎帝子』神生教壇、1918年
- 『神生紀元』神生教壇神戸支部、1925年
- 『神生画集』前後編、神生教壇、1928年
- 『神を成就するもの』平凡社、1929年
- 『予言者の生活 自己礼拝・自己祈祷』中村有楽、1933年(没後出版)
脚注
[編集]- ^ 鳥谷部陽太郎『大正畸人伝』三土社、1925年、126頁。
関連項目
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外部リンク
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