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利用者:J-ishikawa/jpwork02

小林多喜二

年譜[編集]

  • 1903年明治36年)
    • 10月13日 秋田県北秋田郡下川添村川口の農家に生まれる。父は末松、母はセキ。兄弟姉妹のほか、継祖母ツネがいた。
  • 1907年(明治40年)
    • 12月下旬 小樽新富町に住む伯父慶義の勧めで一家で小樽に移住
  • 1908年(明治41年)
    • 1月 小樽市南端の若竹町に住まいを定め、叔父が経営する三星パンの支店を開業する
  • 1910年(明治43年)
    • 4月 潮見台小学校に入学
  • 1916年大正5年)
    • 3月 潮見台小学校を卒業
    • 4月 慶義の援助で小樽商業学校に入学し、慶義の家に住み込み、パン工場の仕事をしながら通学する
  • 1917年(大正6年)
  • 1919年(大正8年)
    • 4月 校友会誌『尊商』の編集委員に選出される。詩、短歌、小品を書き始め、『文章世界』にコマ絵を投稿し、庁商短歌会に出席する
    • 11月 小樽市稲穂町の中央倶楽部で開催された子羊画会に水彩画6点を出展する
  • 19年(大正36年)
  • 19年(大正36年)
  • 19年(大正36年)
  • 19年(大正36年)
  • 19年(大正36年)
  • 19年(大正36年)


来歴・人物[編集]

4歳の時に北海道小樽に移住。生活は豊かではなかったが、伯父からの学資を受け小樽商業学校から小樽高等商業学校へ進学。在学中から創作に親しみ、文芸誌への投稿や、校友会誌の編集委員となってみずからも作品を発表するなど、文学活動に積極的に取り組んだ。小樽高商の下級生に伊藤整がおり、また同校教授であった大熊信行の教えを受ける。この前後から、自家の窮迫した境遇や、当時の深刻な不況から来る社会不安などの影響で労働運動への参加を始めている。

卒業後、北海道拓殖銀行(拓銀)小樽支店に勤務(この頃、悲惨な境遇にあった恋人田口タキを救う)。1928年の総選挙のときに、北海道1区から立候補した山本懸蔵の選挙運動を手伝い、羊蹄山麓の村に応援演説に行く。この経験がのちの作品『東倶知安行』に生かされている。同年に起きた三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を『戦旗』に発表。作品中の特別高等警察による拷問の描写が特高の憤激を買う(後年の拷問につながる)。 翌1929年に『蟹工船』を『戦旗』に発表し、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集め同年7月には土方与志らの新築地劇団(築地小劇場より分裂)によって『北緯五十度以北』という題で帝国劇場にて上演された。だが同時に警察(特に当時の特高警察)からも要注意人物としてマークされ始める。同年、『中央公論』に発表した『不在地主』が原因で銀行を解職され、翌年春に東京へ移住。日本プロレタリア作家同盟書記長となる。1930年5月中旬、『戦旗』誌を発売禁止から防衛するため江口渙貴司山治片岡鉄兵らと京都大阪、山田、松阪を巡回講演。23日に大阪で日本共産党へ財政援助の嫌疑で逮捕され、6月7日、一旦釈放された。

24日に帰京後、作家の立野信之方で再び逮捕され、7月、『蟹工船』の件で不敬罪の追起訴を受ける。8月、治安維持法で起訴、豊多摩刑務所に収容された。1931年1月22日、保釈出獄。その後神奈川県七沢温泉に篭る。1931年10月、非合法の日本共産党に入党し、11月上旬、奈良志賀直哉邸を訪ねる。1932年春の危険思想取締りを機に、地下活動に入る。8月下旬、自らの地下生活の体験を元に『党生活者』を執筆した。

1933年2月20日、共産党に潜入していた特高のスパイ三船留吉からの提案により、赤坂の連絡場所で三船と落ち合う予定にしていた。しかし、今村恒夫とともに訪れたその待ち合わせ場所には、三船からの連絡により張り込んでいた特高が待機していて、多喜二はそこから逃走をはかったが、逮捕されてしまった。同日築地警察署内においての取調べについては、今村から話を聞いた江口渙が戦後発表した「作家小林多喜二の死」という文章を、手塚英孝が『小林多喜二』で紹介している。それによると、

「警視庁から特高係長中川成夫が、部下のテロ係りの須田巡査部長と山口巡査を引きつれてやって来て、訊問にとりかかった。すると小林は今村を省みて、『おい、もうこうなっては仕方がない。お互に元気でやろうぜ』と、声に力をこめていい放った。/それを聞いた特高どもは『何を生意気な』というが早いか、中川警部の指揮の下に、小林を寒中まる裸にして、先ず須田と山口が握り太のステッキで打ってかかった」[1]

とある。その後警察署から築地署裏の前田病院に搬送され、19時45分、絶命した。

なお、警察当局は、翌21日に「心臓麻痺」による死と発表したが、翌日遺族に返された多喜二の遺体は、全身が拷問によって異常に腫れ上がり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れ上がっていた。しかし、どこの病院も特高警察を恐れて遺体の解剖を断った。死顔は日本共産党の機関紙『赤旗』(せっき)が掲載した他、同い歳で同志の岡本唐貴により油絵で描き残されている。中央公論編集部は、多喜二から預かったまま掲載をためらっていた『党生活者』の原稿を『転換時代』という仮題で『中央公論』(1933年4-5月号)に、遺作として発表した。3月15日には築地小劇場で多喜二の労農葬が執り行われた。なお、小林多喜二を虐殺した時の特高警察部長は安倍源基であり、その部下であった毛利基特高課長、中川成夫警部、山県為三警部の三人が直接に手を下している。

小林多喜二シンポジウム[編集]

生誕100年を迎えた2003年以来、白樺文学館多喜二ライブラリー主催「小林多喜二国際シンポジウム」が2年連続で開催され、2005年秋には、中国河北省河北大学で「第1回多喜二国際シンポジウム」が、中国各地および日本をはじめ中国国外から研究者約200名を集め開催された。その記録は、白樺文学館多喜二ライブラリー編 / 張如意監修『いま中国によみがえる小林多喜二の文学-中国小林多喜二国際シンポジウム論文集』(東銀座出版社、2006年2月。ISBN 4-89469-095-0)に収められている。

ドキュメンタリー映画[編集]

生誕100年・没後70年を記念して、記録映画「時代(とき)を撃て・多喜二」が同製作委員会によって製作され、日本各地で巡回上映がおこなわれた。

  1. ^ 『手塚英孝著作集』第3巻、pp300