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利用者:J-ishikawa/work09

ヘルデンテノール

ヘルデンテノール(独語:Heldentenor、「英雄的テノール」の意)とは、

パウロ

パウロ((古代ギリシア語: Σαούλ Saul and Σαῦλος Saulos and Παῦλος Paulos, ヘブライ語: שאול התרסיŠaʾul HaTarsi (Saul of Tarsus)とは、1世紀前半から中頃の人物で、原始キリスト教の代表的な伝道者であり、またキリスト教最初の神学者である。

キリスト教を、ユダヤ教の一派から当時の「世界」における普遍的な宗教にするために大きな功績があり、その著作は新約聖書に収められている。

日本正教会では教会スラヴ語を反映してパウェルと呼ばれる。正教会ではパウロを首座使徒との呼称を以て崇敬する。

パウロの生涯[編集]

パウロとはギリシャ名であり、サウロというヘブライ名も持っていた。なお、『使徒言行録』第9種の記述から、キリスト教への回心後にサウロからパウロに改名したとの俗説があるが、誤りである。

年譜[編集]

  • 紀元前後:タルソスで生まれる
  • 30年?:イエスの十字架刑死
  • 31-33年:キリスト教徒(ユダヤ教「イエス派」)に対する迫害
  • 33年:ダマスコスで回心・召命
アラビア伝道の後、ダマスコスに戻る
  • 35年:エルサレムにのぼり、15日間滞在
その後、主としてアンティオキアでバルナバの下で活動
  • 48年:第一回伝道旅行(キプロス、小アジア中部)
  • 48年:エルサレム使徒会議
  • 49年:アンティオケアの衝突
  • 49-50年:第二回伝道旅行(ガラテア地方、トロアス、フィリピ、テサロニケ、アテネ、コリント)
  • 50年秋-52年春:コリント滞在(1年半、総督ガリオ)
『第1テサロニケ書』執筆
  • 52年:コリントからエフェソ経由でエルサレム、アンティオキアへ
  • 53年:第三回伝道旅行(ガラテア、フリュギア、エフェソ)
  • 53年秋-55年:『第1コリント書』『ガラテア書』執筆
入獄。『フィリピ書4:10以下』『同1-2章』『フィレモン書』執筆
コリントの教会との関係が悪化。『第2コリント書1:3-11、2:14-6:13、7:2-4』執筆
コリントへ「中間訪問」
『第2コリント書10-13章』執筆
  • 55年:マケドニアへ。コリント教会との関係好転。
『第2コリント書1:12-2:13、7:5-16』執筆、『同8章』『同9章』相次いで執筆
  • 55-56年:コリントへ(3ヶ月滞在)。『ローマ書16章』『フィリピ3章』『ローマ書』執筆
  • 56年春:献金を携えてエルサレムへ。逮捕される。
  • 56-58年春:カイサリアで未決囚として拘禁される(総督はフェリクスとフェストゥス)。
  • 58年秋-59年春:皇帝に上訴。ローマに護送される。
  • 60年?:ローマで処刑される。

生涯[編集]

史料[編集]

文献[編集]

パウロを知る上で参考になる史料は極めて限られている。すなわち、いずれも『新約聖書』に収められた『使徒言行録』とパウロが自ら書いたいわゆる「パウロ書簡」のみである。

更に、「回心」の項で例示するように、『使徒言行録』はその記述をそのまま信じることができないものであって、扱いには注意を要する。すなわち、『使徒言行録』の著者(ここでは便宜的に伝承による「ルカ」という名を使う)が、パウロの旅程に関するかなり詳しい資料を持っていたことは、いわゆる「われら章句」に限らず、多くの研究者が認めている。また、その資料は単なる旅程のリストに留まらず、各地での出来事をもある程度含んでいたものと思われる。

が、ルカは少なくとも今日知られるような「パウロ書簡」を読んだ形跡はなく、彼独自の思想に基づいてかなりの創作の手を入れていることは否定しがたい。とりわけ、各地でパウロが(ペトロの場合も同様)行う長い演説はルカの筆になるものであって、パウロとは無関係とするのが定説である。

一方で「パウロ書簡」はその大部分がいわゆる第3回伝道旅行か、それ以後に執筆されたもので、過去の記憶ではあるが、旅程等については信頼できるし、パウロの思想を知る上ではほぼ唯一の史料である。ただし真正な「パウロ書簡」の範囲については、「著作」の項を参照のこと。

ガリオ碑文[編集]

パウロの生涯の年代づけに決定的な役割を果たす考古学的遺物に、「ガリオ碑文」(または「デルフォイ碑文」)がある。 [1]

「使徒言行録」第18章に、パウロが第二次伝道旅行の途上、コリントに滞在したときの記録として、以下のような記述がある。

12ところがガリオがアカイア〔州〕の総督であった時、ユダヤ人たちは一致して、パウロに反対して立ち上がり、彼を法廷に引き立てて行った。

ここで「ガリオ」と呼ばれているのは、かの哲学者セネカの兄であるルキウス・アンナエウス・ノヴァトゥス・ガリオである。

20世紀初めにデルフォイで発見された「ガリオ碑文」は、彼のアカイア州総督在任が51年から52年であることを明らかにした。

これが現時点ではパウロの生涯の年代推定の唯一の手がかりである。すなわち、この年代から、「使徒言行録」「パウロ書簡」の記載内容に従って時間的に前後することで、ほぼ矛盾なく、パウロの生涯の主要年代が推定できる。

パウロは、生没年こそ不詳だが、イエスと比較するまでもなく、古代の人間としてはその生涯の概要が推定できる極めて稀な人物である。

出自[編集]

当時、ローマ帝国のアシア州の首都であったタルソス(現:トルコ)に生まれた。生年は不明であるが、で自らを「老人」と書いていることなどから、多くの研究者は西暦紀元頃の誕生を想定している。

マルコ(左)とパウロ(右)新約聖書の『使徒行伝』によれば、パウロの職業はテント職人で[1]生まれつきのローマ市民権保持者でもあった[2]。ベニヤミン族のユダヤ人でもともとファリサイ派に属し、エルサレムにて高名なラビであるガマリエル1世(ファリサイ派の著名な学者ヒレルの孫)のもとで学んだ[3]。パウロはそこでキリスト教徒たちと出会う。熱心なユダヤ教徒の立場から、初めはキリスト教徒を迫害する側についていた。

回心[編集]

1さてサウロは、なおも主の弟子たちを脅迫し、殺害しようと意気込んでいた。そこで、彼は大祭司のもとに行って、 2ダマスコスにある諸教会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ次第、男も女も縛り上げ、エルサレムに引いて来るためであった。 3ところが、行ってダマスコスの近くまで来ると、突然、天からの光が彼をめぐり照らした。 4サウロは地に倒れ、サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」という声を聞いた。 5そこで、彼はたずねた、「主よ、あなたはどなたですか」。すると答えた、「私はお前が迫害しているイエスである。 6起きて町に入りなさい。そうすれば、お前のなすべきことが告げられるであろう」。 7サウロと共に来た者たちは、ものも言えずにそこに立っていた。声は聞いたが、誰をも見なかったからである。 8サウロは地から起き上がった。しかし、目を開けても何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いて、ダマスコスに連れて行った。 9サウロは三日の間、目が見えず食べることも飲むこともしなかった。 (10節から16節は割愛) 17そこでアナニアは、出かけて行って、ユダの家に入り、両手をサウロの上に置いて、言った、「兄弟サウロよ、主が私を遣わされたのです。---あなたがここに来る途上で、あなたに現れたあのイエスが。それは、あなたが再び見えるようになり、また聖霊に満たされるためなのです」。 18すると、たちまち鱗のようなものがサウロの目から落ちて、見えるようになった。そこで、彼は立って洗礼を受け、 19a食事をとって元気を取り戻した。

15しかし、私の母の胎〔の内にある時〕から私を選び分かち、その恵みをとおして私を召された方[すなわち神]が、〔次のことを〕よしとされた時、 16〔すなわち〕神の御子を私が異邦人たちのうちに〔救い主として〕告げ知らせるために、、御子を私のうちに啓示することを〔よしとされた時〕、私はただちに血肉に相談することはせず、 17またエルサレムにのぼって 私よりも前に使徒〔となった人〕たちのもとへ〔赴くことも〕せず、むしろアラビアに出て行き、そして再びダマスコスに戻ったのである。

伝道旅行[編集]

第1回伝道旅行[編集]

10年あまりの空白期を置いて、パウロが歴史に再登場するのがいわゆる第1回の伝道旅行である。同行者は、バルナバとエルサレム教会のヨハネ・マルコという人物である。

なお、第1回伝道旅行を次項に述べる「エルサレム使徒会議」の後におく研究者もいるが、この伝道旅行が異邦人伝道の問題点を顕在化させ、「使徒会議」の開催が避けられなくなったという見解を本稿は採用する。

時期は、47年ないし48年。旅行ができない冬季を除いた、かなり長期にわたる旅であったと推定される。

ただし、この段階ではパウロはバルナバの補佐役に過ぎなかったと考えられている。

アンティオケアから港町のセレウキアに出て、船でキプロス島サラミスに渡った。ここから、島の南側を通って島の西岸のパポスに至った。この地では、

使徒会議[編集]

第2回伝道旅行[編集]

第3回伝道旅行[編集]

最期[編集]

著作[編集]

『新約聖書』には、13通のパウロを発信者とする書簡が含まれている。が、今日では疑うことのできないパウロの真正の書簡とされているのは以下の7書のみである。

本稿の執筆に当たっても、この見解を前提とした。

なお、 『テサロニケの信徒への手紙二』や『コロサイの信徒への手紙』などは、パウロの死後まもなくかかれたものと推定され(これらをパウロの真筆とする意見も少なくない)、また1世紀末にはパウロの書簡が組織的に収集されたことが想定できるので、ここからも原始キリスト教会におけるパウロの重要性が読み取れる。

更に、2世紀にはパウロの名を借りた『パウロの黙示録』『パウロ行伝』といった外典も作成されているが、内容的にもパウロとの直接の関連はない。

思想[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]


関連項目[編集]

外部リンク[編集]