コンテンツにスキップ

利用者:JN3VQM/sandbox

Latok I
Latok Peaks and the Ogres thumb
最高地点
標高7,145 m (23,442 ft) [1]
プロミネンス1,475 m (4,839 ft) [1]
座標北緯35度55分41秒 東経75度49分21秒 / 北緯35.9280度 東経75.8225度 / 35.9280; 75.8225
地形
所在地ギルギット・バルティスタン州, パキスタン
所属山脈Panmah Muztagh, カラコルム山脈
登山
初登頂1979年7月19日, 重廣恒夫松見親衛渡辺優[2]
最容易
ルート
East Ridge from south side
プロジェクト 山
Latok II
最高地点
標高7,108 m (23,320 ft) [1]
座標北緯35度55分12秒 東経75度48分09秒 / 北緯35.9200度 東経75.8025度 / 35.9200; 75.8025
地形
所在地ギルギット・バルティスタン州, パキスタン
所属山脈Panmah Muztagh, カラコルム山脈
登山
初登頂1977 by E. Alimonta, T. Mase, R. Valentini[3]
最容易
ルート
Southeast Buttress
プロジェクト 山
Latok III
最高地点
標高6,949 m (22,799 ft) [1]
座標北緯35度55分13秒 東経75度50分23秒 / 北緯35.9204度 東経75.8396度 / 35.9204; 75.8396
地形
所在地ギルギット・バルティスタン州, パキスタン
所属山脈Panmah Muztagh, カラコルム山脈
登山
初登頂1979年7月15日,寺西洋司高見一成森榮[2]
最容易
ルート
Southwest Ridge
プロジェクト 山

概要[編集]

ラトック(Latok)山群は,パキスタンの中央カラコルム地域(Karakoram mountain range)のパンマー・ムズターク(Panmah Muztagh)にある峨々たる岩峰の集まりである.それらは,バインター・ブラック(Baintha Brakk)に代表されるオーガ山群の東に位置している.ラトック山群のすぐ南側には,カラコルムの大氷河の一つ,ビアフォー氷河(Biafo Glacier)の支流のバインター・ルクバル氷河(Baintha Lukpar Glacier)が横たわっている.北側には,チョクトイ氷河が走る.

この山群には4つの峰が含まれ,そのそれぞれを,以下にその山群における位置・高度[1]・初登頂年と共に列記する.

  • ラトック I,北の中央,7,145m,1979年
  • ラトックⅡ,西,7,108m,1977年
  • ラトックⅢ,東,6,949m,1979年
  • ラトックⅣ,北端,6,456m,1980年

全ての峰はその極端な技術的困難さにおいて特筆すべきであり,世界中の高々度における,どこよりも厳しい登攀がなされてきた.

ラトック I[編集]

ラトックⅠは,高田直樹が率いる日本の遠征隊によって,1979年に攀られた.最初の登頂隊は重廣恒夫松見親衛渡辺優であった.続いて3日後,武藤英生奥淳一遠藤甲太が登頂した.彼らは,バインター・ルクバル氷河より,バットレス岩壁を登り東陵を辿った.

ラトックⅠの高度2,500mの急峻な北陵は,未踏のルートとしてよく知られている.最初の試みはアメリカのクライマー4名(ジム・ドニーニ(Jim Donini),ミカエル・ケネディ(Michael Kennedy),ジョージ・ロウ(George Lowe),ジェフ・ロー(Jeff Lowe))によってなされたが,惜しいところで成功しなかった.軽量スタイルでのこの登攀は,広く賞賛されたが,残念ながら頂上に達せなかった.その後,数多くの試みがなされてきたが,未だ成功したものはない.[4]

ラトック I 初登頂記録概要[5][編集]

隊の名称[編集]

ビアフォ/カラコルム登山隊 1979

活動期間[編集]

1979年5月〜7月

目的[編集]

ラトック I峰初登頂

隊の構成[編集]

隊長=高田直樹(43歳),登攀リーダー=重廣恒夫(31歳),隊員=松見親衛(32歳),奥淳一(31歳),遠藤甲太(30歳),武藤英生(29歳),中村達(29歳),渡辺優(29歳),城崎英明(22歳),医師=五藤卓雄(34歳)

行動概要[編集]

6月10日バインター・ルクパール氷河上4600メートル地点にBC建設.南壁右寄りのピラーにルートを取リ,途中ニケ所の中間デポを設けて6月20日C1(5500メートル)建設.6月21日雪崩によりC1が流失した為,以後はBC・C1間の第二デポをC1として使用した.6月30日(5800メートル)建設.その後核心部である70メートルの重壁を二日間を費して突破し,7月8日C3予定地(6300メートル)に到達.C3予定地はテントを張るだけのスペースがなく,ビバークを繰り返すこととする.7月15日南壁上部のアイス・キャップに達し,C3(6500メートル)建設.7月17日重廣,松見,渡辺の三隊員により第一回アタックを試みるが,ロープの不足と天候の悪化で引返す.7月19日同じ三名にて再度アタック,新雪と頂上直下のスラブに苦労しながら19時45分初登頂に成功.7月22日第二次隊の三名(武藤,遠藤,奥)と重廣がC3より第二次登頂を果す.

ラトック II[編集]

ラトックⅡは,アルツーロ・ベルガマスキに率いられたイタリア隊が1977年に初登頂した(これはこの山群での最初の登頂である). 彼らはこのピークの南東面を登り,E・アミモンタ,T・メイス,R・ベランティーニが登頂した.[3]

ラトックⅡでの特筆すべき登頂が最近の1997年になされた.アレキサンダー・フーバー(Alexander Huber),トーマス・フーバー(Thomas Huber),トニー・ガッシュ(Toni Gutsch),コンラッド・アンカー(Conrad Anker)よりなる極めて強力なパーティーは,垂直に切り立った西壁を攀り,頂上に達した. 彼らはこのルートのことを,マッキンリーの頂上にエル・キャピタンを置いたようだと表現している. 標高6,100mの基部から垂直の岩壁は1,000mであり,垂直登攀の登攀距離はトータル2200mに達した.[6]

ラトック III[編集]

ラトックⅢの初登頂は1979年にになされた.寺西洋司をリーダーとする日本隊は南西陵ルートを攀った.彼らは南西陵をとり,登頂隊は寺西,高見一成森榮だった.[2] 同じルートからの第二登は1988年にイタリア隊によってなされた.実際のところ,これはこの山群における始めての第二登である(This was in fact the first repeat ascent of any peak in the group.[4]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e Heights in this article are taken from the map Karakoram, 1:250,000, Swiss Foundation for Alpine Research. A survey under the leadership of Professor Arturo Bergamaschi gives the heights as follows:
    • Latok I: 7,086 m
    • Latok II: 7,151 m
    • Latok III: 6,860 m
    Bergamaschi proposed that the designations of Latok I and Latok II be switched; however, most sources continue to refer to the central peak as Latok I and the western peak as Latok II, as does this article. See the American Alpine Journal, 1998, pp. 320-321. If Professor Bergamaschi's results are correct, then Latok II is the highest of the group, and would have a prominence of approximately 1,481 m; the prominence of Latok I would be greatly reduced.
  2. ^ a b c American Alpine Journal, 1980, 647-648
  3. ^ a b Jill Neate, High Asia: An Illustrated History of the 7000 Metre Peaks, ISBN 0-89886-238-8
  4. ^ a b Andy Fanshawe and Stephen Venables, Himalaya Alpine-Style, Hodder and Stoughton, 1995, ISBN 0-340-64931-3
  5. ^ 高田直樹「ラトックI峰遠征を終って」日本山岳会会報「山岳」1980年
  6. ^ American Alpine Journal, 1998, 34-43