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利用者:J o/MBC草稿

歴史[編集]

現在では地上波テレビ1系統、ラジオ2系統(AM・FM計3波)、DMB3チャンネルを本社と19系列局を通じて韓国全土に展開するとともに、ケーブルテレビ・衛星向け○チャンネルを傘下に置くメディア企業体を形成したMBCであるが、その歴史は平坦なものではなく、激動を重ねた韓国政治の影響を強く受けてきた。

釜山文化放送局の発足[編集]

1950年代後半、日本で民間ラジオ放送の開局が相次ぐと、その電波が受信可能な韓国南部の沿岸地域への日本文化の浸透を憂慮する声が韓国内で出されるようになった。これを背景に、釜山の実業家であった金相用(김상용、キム・サンヨン)とラジオ商会を営んでいた鄭煥玉(정환옥、チョン・ファンオク)[1]は1958年1月に商業放送局の設立を合同で出願、8月に設立許可を受け、1959年4月15日に韓国初の本格的な民間商業ラジオ放送局である釜山文化放送局が開局した [2][3]

しかし当時は商業放送局のシステムが未発達であったうえ、多くの人気番組はソウルで制作して釜山に輸送し放送していたため、開局当初から費用面でのハンディを抱えていた。このため、二人はソウルで新たに民間放送局の開設を目指すことにし、同年9月に釜山有数の企業家であった金智泰(김지태、キム・ジテ)に釜山文化放送局の経営権を譲渡した。

ソウルで開局[編集]

ソウルでの民放開設許可は東亜日報社、高羲東(고희동、コ・ヒドン)、 金相用の三者に出されていたが、東亜日報社は開局準備に手間取り、釜山文化放送局の初代社長であった金相用も経営権をすでに金智泰に譲っていた。

鄭煥玉は、残るもう一つの許可を高羲東から引き受け、宿願であったソウルでの民放開局へ向けて奔走したが、資金不足のため金智泰に出資を仰いだ。こうして1961年2月にソウル民間放送が設立、韓国放送(3月)、韓国文化放送(6月)と2度の社名変更を経て[4]、同年12月2日午前6時にソウルでラジオ放送を開始した。MBCはこの日を開局記念日としている。

韓国文化放送は鐘路区仁寺洞の家具店ビル4階に演奏所、京畿道始興郡西面小下里(現在の光明市)にラジオ送信所を構えた。開局当初の放送時間は朝(午前6時 - 10時)、昼(午前11時 - 午後2時)、夜(午後6時 - 午前0時)の計13時間で、とりわけ午後7時台・8時台に公開娯楽番組を集中的に編成して人気を集めた。

開局直後の経営権献納[編集]

1961年5月の「5・16軍事クーデター」を首謀した朴正煕は、国政の実権を握ると軍事独裁色を強めていった。これによりMBCは開局早々に最初の転機を迎える。

1962年3月、金智泰社長が商用での日本訪問から帰国すると、財産の不正蓄積・海外移転の容疑で中央情報部 (KCIA) 釜山支部に突然拘束された。金智泰は「財産を国家に献納する」旨の覚え書きを5月に提出して釈放され、保有する韓国文化放送、釜山文化放送局、釜山日報社の全株式は釜日奨学会(釜山日報社系の奨学金財団)を改組した「5・16奨学会」に移された。

この経営権移転をめぐっては、のちに金智泰とその親族が実際には強制されたものと主張した。国家情報院「過去事件真相究明委員会」は、朴正煕政権による言論掌握を目的とした強奪とする調査結果を2005年7月にまとめ[5]盧武鉉大統領直属の「真実・和解のための過去史整理委員会」も釜日奨学会の献納は国家権力による強制的な財産侵害であると2007年5月に結論づけた[6][7]。一方、正修奨学会[8]は自主献納であると反論した。

全国ネットワークの形成[編集]

東亜日報社が1963年4月に東亜放送 (DBS) を開局させ、東洋放送の前身となるラジオソウル (RSB) [9]も1964年5月に開局した。すでに全国に系列局を有していた基督教放送 (CBS) も1966年10月に報道分野で朝鮮日報社と提携し、各局間の競争が激化した。

こうした中でMBCも大邱(1963年8月)、光州(1964年6月)、大田(同9月)、全州(1965年2月)に直営地方局・系列放送局を開設し、ソウル・釜山を含む6大都市を結ぶ放送網を構築した。さらに1968年4月から1970年4月にかけての第2次ラジオネットワーク拡張事業により、系列を構成する地方局19社がすべて開局した。

遅れたテレビ放送参入[編集]

MBCは1960年代にラジオネットワークの拡張に力を入れたが、テレビ放送への参入は大きく出遅れた。

韓国初のテレビ放送局は、米RCAの支援で韓国RCA配給会社 (KORCAD) が運営する小規模商業テレビ局HLKZである。HLKZは1956年5月に開局、翌1957年には韓国日報社の傘下に入って大韓放送 (DBC) に名称を改めたが、1959年2月の火災で放送時間の大幅短縮を余儀なくされ、1961年10月に閉局した。

同じ1961年、国民の歓心を得るために年内のテレビ局開設を公約した朴正煕政権は、HLKZのチャンネルを継承する国営KBSソウルテレビジョン放送局を公約期限間近の12月31日夜に開局させた。次いで東洋テレビ放送 (DTV) がサムスングループ総帥の李秉喆による資金援助を受け1964年12月にソウル、釜山で開局した[9]。これが韓国初の本格的な商業テレビ放送の始まりである。

一方でMBCはテレビ放送に対応した新社屋を中区貞洞に建設することになり、放送開始はさらに遅れた。社屋竣工直後の1969年8月8日にソウルでテレビ放送を開始すると、翌1970年から地方局でのテレビ開局を急ピッチで進め、1971年5月にマイクロ波中継回線による全国同時放送を開始した。また同10月までに提携地方局の社名を「○○文化放送」に統一させ、系列の結束をさらに強めた。

テレビ3大ネットワーク時代[編集]

1968年7月に国営のソウル中央放送局、ソウル国際放送局、ソウルテレビジョン放送局が中央放送局として文化広報部傘下に併合され、1973年3月に中央放送局と16地方放送局を統合した公営放送として韓国放送公社 (KBS) が発足した。また中央日報社とともにサムスン系のメディア企業体「中央マスコミセンター」を形成していた東洋放送 (TBC) は、1974年12月に「中央日報・東洋放送」として正式に合併した。

このころ、MBCは経営危機に陥っていた京郷新聞社と1974年7月に経営統合し、同11月には「文化放送・京郷新聞」に社名を改めた。これにより京郷新聞の財務状況は改善した。東亜放送が1974年末以来の東亜日報広告弾圧の影響を受けたこともあり、テレビが報道・娯楽・広告媒体として大きく成長した1970年代は、MBC・KBS・TBCが韓国を代表する3大ネットワークのとしての位置を確立した。

言論統廃合、KBSとの2大ネットワーク時代に[編集]

1979年10月に朴正煕大統領が暗殺され1972年以来の維新体制が終結すると、韓国社会では民主化への期待が高まった。しかし12月の粛軍クーデター全斗煥が軍の実権を握り、年明けから軍部は報道機関への干渉を再び強化した。

各地で民主化要求運動が盛り上がりを見せるなか、韓国記者協会は5月16日に検閲拒否を宣言した。朴正煕暗殺事件直後に済州道以外に出されていた非常戒厳令が翌17日夜に全国に拡大され、18日には光州事件が発生したが、事件直後は徹底的な検閲により韓国内では報道できない状態が続いた。特に光州文化放送は設備が破壊され、6月4日の再開まで放送を中断した。

5月31日に国家保衛非常対策委員会が設置され、常任委員長に任命された全斗煥が国政を掌握した。社会の不条理追放を掲げた「社会浄化運動」の一環として、報道機関でも自立浄化を名目とする「言論人強制解職」が7月に行われ、ソウルの文化放送・京郷新聞では97人が解雇された。



第二の転機は19xx年の軍事クーデターにより政権に就いた全斗換による言論統廃合である。 (言論統廃合=KBS傘下入り)

KBSから独立、公営公益放送へ[編集]

第三の転機は1987年の民主化運動である。 (放送文化振興会発足、株式会社にして公営公益放送)

脚注[編集]

  1. ^ 鄭煥玉はソウルでの開局を目指していたが、経済的・地域的条件が整わず釜山での開局に転じた。
  2. ^ 1965年3月に社名を釜山文化放送(釜山MBC)に変更した。
  3. ^ 1954年12月に基督教放送 (CBS)、1956年12月に韓国福音主義放送局(極東放送の前身)が開局していたが、いずれもキリスト教系の宗教放送局であった。
  4. ^ 実務スタッフらは韓国を代表する民間放送という意を込めて「韓国放送」を強く推したが、釜山文化放送局の発足にも関与した経営陣は「文化放送」という社名への愛着があったといわれる。
  5. ^ 「ブイル奨学会の献納・京郷の売却」朴元大統領の指示 中央日報 2005年7月22日
  6. ^ 過去史委「釜日奨学会献納事件は公権力による強要」 (Internet Archive) 朝鮮日報 2007年5月30日
  7. ^ 「朴槿恵候補、正修奨学会事実上所有」設立者次男が検証要求、朴側「退任後関与しない」 中央日報 2007年6月13日
  8. ^ 5・16奨学会は全斗煥政権(第五共和国)下の1982年に朴正煕と妻・陸英修の名を取って「正修奨学会」と改称した。
  9. ^ a b 1965年8月にラジオソウルは中央ラジオ放送 (JBS)、東洋テレビ放送は中央テレビ放送 (JBS-TV) と相次いで社名変更したのち、11月に両社が中央放送 (JBS) として合併、翌1966年に東洋放送 (TBC) に改称した。

参考文献[編集]