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利用者:Kairimilan/sandbox

釘浦山大澤寺は遠州駿河湾釘ケ浦に面した相良(牧之原市)の寺。 宗旨は真宗大谷派(東本願寺)。

大澤寺縁起 開祖は近江、安土の土豪今井権七(釋浄了)。 近江瀬田で木曽義仲と命運をともにした今井兼平を祖とすると寺に伝わる。 権七は安土武佐の広済寺(現本願寺派で浅井長政の異母兄、岡崎安休-母は本願寺顕如の乳母となる-を中興としのちに徳川家からの寵遇を受けて葵の御紋の使用を許された)に帰依する。

永禄元年(1558)権七は浄了を名のり郷里安土を離れ途中三州碧海郡赤松の本楽寺にいた叔父の祐寿とともに遠州城飼郡(のちの城東郡)段平尾(現菊川、内田)上小笠川にかかる耳川橋の南(内田屋敷跡の鬼門-北東方向-約200m)に本楽寺を建てる。
当地は高天神城の鬼門方向で大外堀ともいえる小笠川、菊川の造る湿地帯上の「塩の道」と呼ばれる街道筋の集落だった。

浄了は元亀元年(1570)本願寺顕如の檄に応じ石山本願寺(現大阪城)へ馳参。天正十年(1582)織田信長が滅するまで雑賀衆他、門徒衆とともに織田勢を翻弄、徹底抗戦した。その戦いぶりについて「石山退去録」や「紀伊圀名所図会」などに記述がある。

本樂寺は天正二年(1574)高天神城の戦いにて徳川方支援の陣となり焼失。寺にはこの焼失について一時は今川方から徳川に付き、姉川の戦いで戦功のあった高天神城主「小笠原与八郎の兵乱」と伝わっている。 一方、浄了の叔父の祐寿は当地の静波に廣済寺と本樂寺のそれぞれ一字をとった廣樂寺を建立。廣樂寺は武田勢小山砦の兵糧基地となり武田の後退に伴なって掛川へ移り現在に至る。

当時の国人領主、土豪、弱小名主たちが「家」を守るために苦肉の策として家を分けたように叔父祐寿は武田側、浄了(権七)は徳川側としたたかな寺としての存亡をかけた駆け引きがあった。 天正十年、紀伊鷺宮に籠城していた本願寺勢力は信長勢の包囲に風前の灯火の状況だった。奇しくも本能寺にて信長滅亡したとの知らせがあり 今井権七一行(五家の祖 野村、河原﨑、増田、澤田、赤松)は命からがら菊川に戻った。


元亀三年(1572)三方原の戦いで討死にした成瀬藤蔵正義の妻、勒(釋妙意 大澤寺文書「妙意記」によると勒は本多忠勝の姪)は夫の菩提を弔うために末の四男を伴って本楽寺に入寺していた。ところが前述の如く、高天神城の戦いで本楽寺が焼失したこと、そして自身の身代わりとして死した家臣の菩提のために徳川家康は再建に支援をした。相良の大沢に土地を確保、本堂を建てて本尊阿弥陀如来を寄進、今川義元伝来の明朝の皿を供物に寺領を与え「本楽院大澤寺」を名のらせた。当初初代の今井権七(浄了)は息子の西念に僧籍を譲るが成瀬正義と勒の四男祐傳を婿として大澤寺三代目とし西念には寺が元あった菊川段平尾近くに西林寺(平成四年廃寺 現菊川堀之内幼稚園)を建てさせた。 朱印状は大沢からさらに移転した相良新町の火災(安永三年-1774)により焼失している。今井権七-浄了に同行した五家の祖はそのまま相良の周辺に土着(野村-相良本通り、河原﨑-鬼女新田~池新田、増田-須々木、澤田-菅山、赤松-吉田神戸)した。