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トルネ川のデルタ地域には、最終氷期の末から人々が定住していた。1995年現在、ヴオレリム(前6000年から前5000年)で見つかったものに近い16か所の集落跡が知られている。この地方のスウェーデン側の集落跡は、スカンディナヴィアで最も古い時期のものである。ヴァイキングの時代に「植民地化」されるまで、この地方は無人であったとするかつての説は、今では
トルニオの教会の尖塔は、ピエール・ルイ・モーペルテュイが測定で利用したランドマークのひとつである。教会は1686年に、マッティ・ヨーセピンポイカ・ヘルメによって建設された。
19世紀まで、周辺の農村部の住民はフィンランド語とそれに近い東サーミ語群のケミ・サーミ語を使っていたが、町の住民はおもにスウェーデン語の使用者であった。
トルニオは川の別名にちなみ、スウェーデン語で Torne å と命名された。これがのちにフィンランド語化され、トルニオとなった。
スウェーデン王から特許を取得した1621年、スエンサーリ島(直訳すると「オオカミの島」だが、かつての主要な地主に由来すると思われる)に正式に町が建設された。この特許は、トルニオが16世紀を通して、ラップランドにおけるすべての貿易の中心地であったことにかんがみて与えられた。当時、北方最大の商業都市であったトルニオは、数年の間、スウェーデン領で最も豊かな町に位置付けられた。しかし、ラップランドや海外との活発な貿易にもかかわらず、町の人口は数百年間、500人を少し上回る程度で安定していた。
18世紀には、北極探検を目的としたヨーロッパ中部のいくつかの探検隊がトルニオを訪れた。トルネ谷沿いに子午線弧を計測し、地球が極地に向かって扁平であることを証明したアカデミー・フランセーズの会員、モーペルテュイ率いる探検隊(1736年 - 1737年)が最も有名である。
トルニオが依拠していたラップランド貿易は、18世紀になると衰退に向かった。氷河の後退による地盤の隆起で川の水深が浅くなり、航行不能になった結果、港は二度も下流に移転されなければならかった。しかし、町の豊かさに対する最大の一撃は、1808年のスウェーデンとロシアとの最後の戦争であった。この戦争でロシアはフィンランドを占領し、また併合した。ムオニオとトルニオの河川のなかで最も水深の深い水道に国境が引かれたため、ラップランドはふたつに分断され、貿易の障害となった。トルニオはロシア皇帝の特別な要請で、ロシア領となった。スウェーデンは国境沿いにハーパランタ村(今日のハパランダ)を発展させ、トルニオの衰退を相殺した。トルニオは不承不承ながらも、フィンランドとなった。
ロシア支配下のトルニオは、静かな兵営の町であった。貿易は、ヒトとモノの重要な国境通過点となったクリミア戦争と第一次世界大戦中にのみ活気を帯びた。第一次世界大戦においてトルニオ - ハパランダ間の鉄道は、ロシアと西欧の連合国を結ぶ唯一の鉄道であった。