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利用者:Kanbun/作業空間/論争と対話

ウィキペディアで行われる「議論(discussion)」は、「論争(dispute)」ではなく「対話(dialogue)」であるべきです。「論争(dispute)」は相手の意見に対し攻撃を加えたり反抗したりする行為のことですが、「対話(dialogue)」とはお互いに尊敬と関心を持って、意見を交換する行為のことをいいます。そして「論争(dispute)」はつねに相手への反撃として始められるのに対し、「対話(dialogue)」は相手への積極的な語りかけによって始められます。「論争(dispute)」が自分の主張に合致した目先の解決を求めるのに対し、「対話(dialogue)」は段階的に、時間を追って徐々に歩み寄りを図っていくものです。「論争(dispute)」と「対話(dialogue)」、これらを区別することは重要です。

『バティニョール地区のアトリエ』
マネを中心とする印象派の画家たち。新しい表現を求めた彼らは既存の芸術に支配されたサロンになかなか受け入れられなかった。しかし共通の目的に支えられた彼らの友情とお互いに対する信頼は、普仏戦争後の混乱にも負けることはなく、彼らは自主運営の展覧会を開いて芸術の新しい潮流を開いた。ウィキペディアの前進にも、ウィキペディアンどうしの友情と信頼が不可欠である。一つの目的のために一つのコミュニティを作っていることを心にとめておくべきだ。

「対話」が成立しない議論はコミュニティを消耗させる[編集]

「対話(dialogue)」が成立しない議論はコミュニティを消耗させます。なぜなら、そのような議論は議論参加者同士の溝を深め、お互いに攻撃的な態度を取らせ、相手に対しての理解を忘れさせるからです。相手への無理解は、相手の意見を根絶しようという行動につながります。一方が相手の意見を根絶することに成功しても、それはコミュニティにとってよいことであるとは言えません。結果的にそのことが、コミュニティから柔軟さを失わせているのだということに留意してください。コミュニティは多様な見解を受け入れ、さまざまな人々に開かれているべきです。そのような態度が百科事典を編纂するためには必要であるということを思い出してください。百科事典は多様性をそのまま表現しようとしているのです。つまり異なる考え方を持っている人を排除するのではなく、受け入れていくことがウィキペディアにとって前進であるということです。

「論争(dispute)」はコミュニティとウィキペディアのプロジェクト自体を後退させます。「論争(dispute)」を避け、「対話(dialogue)」を成立させるためには、相手を理解し、相手に理解してもらうことを忘れてはなりません。人は納得さえできれば、それを受け入れることができます。相手に納得してもらうためには、また自分が納得するためには、相手を理解することが必要だということです。「対話(dialogue)」とは、「間(dia)」と「言葉(logos)」からなり、お互いの間を言葉の交換によって埋めていく行為です。

「対話dialogue」は相手を受け入れ、また相手に受け入れられていくことを目指す話し合いのことです。

心を通わせる[編集]

フリードリヒ2世アル・カーミル
フリードリヒ2世は粘り強い外交交渉によって、聖地エルサレムを平和裡に回復した。キリスト教徒とイスラム教徒の間で激しい対立があった時代に、両宗教の政治的指導者が何度も交渉を重ね、譲歩と相互理解によって、一時的にせよ平和的な解決を選択できたことに学ぶべきである。

「対話(dialogue)」は慎重な話し合いの過程であり、自分の意見を自覚的に確認しながら、相手に対し心を開いてゆかなくてはいけません。見せかけの言葉や行為、頑なな姿勢ではなく、謙遜、率直さ、相手への信頼をもって、対話の過程と結果がお互いを豊かにすることを信じて行われるものです。対話はお互いの、そしてコミュニティの前進のために行われなければなりません。

以下に議論を非生産的な「論争(dispute)」にすることなく、生産的な「対話(dialogue)」として成立させるための若干のヒントを述べます。それほど難しいことではありません。「明快」「穏和」「信頼」「誠実」。この4つの言葉を心得ているだけでよいのです。

明快[編集]

話し合いは、お互いが理解しうることについて行われなければなりません。つまり一方の考えが相手に伝わらなければ「対話(dialogue)」は成立しません。あなたはまず自分の語っている言葉について、わかりやすいものであるか、誰もが知っているものか、よく考え込まれているかを吟味すべきです。相手の表現を使って自分の考えを述べてみることも、相手に自分の考えを理解してもらうためのよい方法です。自分の意見はつねに「明快」に述べるべきです。

穏和[編集]

話し合いに臨むときは、穏やかな心を忘れないようにしてください。話し合いで、あなたの言葉が重みを持つのは、言っていることが説得的であり、模範的であり、「明快」であるから、多くの人に受け入れられ、尊重されたためなのです。一方的に意見を押しつけたり、要求したり、命令したりする態度は、あなたの言葉を軽薄なものであると思わせるでしょう。攻撃的な態度、威圧的な態度は避けて、平和的な姿勢を保ってください。相手の不条理と思える意見や要求にも、忍耐強く誠実に応対し、広い度量で接してください。そして相手の信頼を勝ち取ってください。

信頼[編集]

自分の言葉を信頼し、また相手がそれを受け入れてくれることを信じてください。あなたが相手に信頼を寄せることで、相手も徐々に頑なな態度を崩し、あなたの意見を受け入れ、よりよい合意を目指すようになるでしょう。お互いが利己的な態度を取っていては、話し合いは非生産的な結果に終わるでしょう。お互いを認め合い、相手との間に友情を築くこと、それが生産的な議論をする秘訣です。

誠実[編集]

誠実さを忘れてはなりません。また合意に至るまでは、決して結論づけをしないことも大切です。一方的に話し合いを打ち切らないこと、性急に安易な妥協を求めないことです。むしろゆっくりと誤解の糸を解きほぐして、関わりを深くしていくことが大事です。

ディベート的な議論の問題点[編集]

ノートでの議論において、最も注意しなければいけないことは、それが単なるディベートになってしまってはいけないということです。これは一般論としてディベートに問題があるということではなく、ウィキペディアの記事についての議論をする上で、お互いの論理力だけを問題にするのは適切ではないということです。ディベートは論理力を競うものですが、ウィキペディアの議論はあくまで方針に合致しているかどうか、百科事典として適切かを検討するものであるべきです。

たとえばディベートの技術の一つとして、相手の論理のほころびをつくことで、相手の主張の信頼性を失わせ、自らの主張をより正しく見せるという手法がありますが、これは相手の論理が必ずしも完璧でないことを示しただけで、何一つ自分の主張の正当性を補強していないことに注意してください。ウィキペディアの議論はお互いフェアに、つまり一方が相手の言い分の誤りだけを指摘する形ではなく、お互いがより正当だと思う結論を示しながら、どちらがより適切であるかを検討すべきです。一方的に現在の記事内容を批判するだけの書き込みは建設的ではありません。既存の記事を批判する際はそれに足る十分な証拠が提出されるべきですが、それを怠る利用者もおり、それが議論をよりややこしくし、ウィキペディアの健全性を阻害していることを顧みるべきです。

このようなディベートに終始してしまう議論には、自らの意見を補強するために、議論相手の信頼性を失わせようと、相手の履歴上の問題点をつくなど悪辣で生産性のない行動が見られるものです。相手の履歴や年齢、その行動から意見を軽視することは、最も恥ずべきことです。そのような問題点は意見そのものに対してでなく、それらの行動に対して別途コメント依頼を出すなりして、分けて検討すべきものです。

意見を見ない、相手を見る[編集]

最終的に合意を目指す観点に立てば、相手の意見を細かく分析するときに、その誤謬をいちいち指摘することは賢明とは言えません。合意を形成するのは、人と人であって、意見と意見が合意を形成するのではありません。むしろ相手との一致点を探るべきであり、そこからお互いの理解を深め、双方の納得できる内容で合意することが最も理想的です。

これは相手の意見を分析して、それを言い換えたり、わからない点を質問するなと言っているのではありません。相手の意見を分析して、わかりづらいと思われた点を指摘することは有意義です。この言葉の意味はむしろこうです、些細な誤謬から相手の意見を排除すべきではありません。相手の意見を理解しようとして、細かく分析していくうちに、かえって相手の意見を排撃するようになってしまうことはありがちなことです。このような過ちを避けるために、相手の意見を分析するときは、自分の意見との一致点を重視するようにしてください。

「意見を見ずに、相手を見るべき」という意見を次のように誤解してしまう人がいるかもしれません。つまり、相手の意見ではなく、相手のウィキペディア上での行動とか編集履歴から、相手が議論に参加するに値するかどうか判断せよということであると。これは大変な誤解です。むしろ言っていることは全く逆で、相手のウィキペディア上での行動や編集の履歴があまり好ましくないからとか、意見表明の仕方が誤っているからといって、相手の意見を排除すべきではありません。とくに相手のウィキペディア上での行動や編集履歴が好ましくないと思われるなら、別途コメント依頼をすべきで、それを理由に議論から排除しようとすることは誉められたものではありません。相手のウィキペディア上での履歴から、信頼の置けない人物であると考えることは、「対話(dialogue)」の拒否に他ならないことを思い出してください。「対話dialogue」は相手を「信頼」することが大切です。

『ソクラテスの死』
知恵者と呼ばれる者たちの、無知を暴露して回ったソクラテスは誤解され疎んじられるようになり、最後には「神への冒涜」や「青年を惑わせた罪」で告発され、死刑を宣告された。しかしソクラテスこそ知恵と正義の人物であった。ウィキペディアの改善のために、あえて批判の言葉を選んだ者を、誤解から排除してはいけない。プロジェクトから、ソクラテスのような人物を追い出すべきではない。

この精神は次のように置き換えて考えると、わかりやすいかもしれません。意見が対立している人同士でも、共通の目的があれば、お互いを尊重して歩み寄ることができます。つまり「対話(dialogue)」はお互いの共通の認識を探り出しそこから歩み寄る行為であり、細かな相違点にこだわって、相手の意見を排除したり問題自体を棚上げするような「後ろ向き」の態度に陥ってはいけません。表明された相手の意見だけにとらわれず、相手も同じ人間であることをまず意識し、自分の意見との細かな相違にこだわらないようにしてください。

意見に明白な対立が存在するようなときは、自分の意見の大部分を取り下げても良いと、自分も相手も考えることができる、よりよい合意を目指すべきです。そして、このような合意は相手の意見と「にらめっこ」をしているだけでは到底望むべくもないことです。

挑発しない、挑発に乗らない[編集]

あなたが相手と「対話(dialogue)」をしたいと思っているなら、挑発的な行動は控えるべきです。むしろ挑発的な言葉や行動が見られることは、その議論が「論争(dispute)」に陥ってしまっていることを示しています。「論争(dispute)」になってしまっている議論を「対話(dialogue)」に引き戻すためには、そのような挑発に乗らないことが一番で、さらに自分自身を反省して必要であれば謝罪し、相手の「信頼」を取り戻すべきです。

あなた自身の言葉や行為が、意図せず、挑発的な言葉や行動であると指摘されたなら、謝罪をおこなうべきです。あなたが意図して挑発的な言葉や行為をしたのならば、あなたは今すぐ議論から手を引くべきです。そのような行動は議論を生産的なものにしません。つまりあなたがその議論を台無しにしようとしていることを自ら明らかにしているといわざるを得ません。不必要な議論はありません。ウィキペディアのあらゆることは、つねに議論の対象となりえます。不必要なのは非生産的な「論争(dispute)」だけです。「穏和」な態度を忘れずに。

「編集内容の要約」で煽らない[編集]

挑発のパターンとしてよくありがちなのが、記事を編集したときに記載可能な「編集内容の要約」に、他の利用者を批判するような内容を書くことです。誰しも失敗することはあります。あなたにとって不可解で容認しがたく、あまりに稚拙と思われる編集ミスであっても、善意にとって下さい。相手が編集ミスをしていると思ったら、「編集内容の要約」には挑発文句を書いたりせず、参照すべき方針文書などへのリンクを示すなど適切なアドバイスを書くべきです。「編集内容の要約」にこのような配慮を少し加えるだけで、無用な編集合戦や論争も減らすことができ、あなた自身にも多くの利益があります。なぜなら、多くのウィキペディアンにとって、暴言を吐く攻撃的な編集者は「荒らし」と変わりませんから、あなたが一回「編集内容の要約」で暴言を吐くたびに、あなたの信用はそのつど下がっていくのです。「編集内容の要約」でのあなたの発言はノートでの発言と同じく、あなた自身の信用につながっているのです。

「編集内容の要約」に何か書き込んだとき---特に誰かの編集を差し戻したり表現を改めたりする際には---、その内容によく気をつけるべきです。表現が攻撃的でないか、自分がその「編集内容の要約」を見て嫌な思いをしないかということをよく考えて下さい。あなたが「編集内容の要約」を使って言葉を投げかける相手、そのウィキペディアンは仲間であって、ともに記事を育てる共同執筆者なのです。あなたが彼に暴言を吐くということは、結局あなた自身が仲間を大切にしていないということを明らかにし、多くのウィキペディアンがあなたに背を向けることになるのです。そして、ウィキペディアはウィキペディアンの皆の共同作品であることを考えれば、結局あなたは暴言を吐いている時点で、ウィキペディアの何ものをも理解しておらず、プロジェクトに参加する資格などこれっぽっちもないのです。

「編集内容の要約」を上手に使って、ほかのウィキペディアンと意思疎通を図るのが模範的なウィキペディアンです。「編集内容の要約」は簡潔に自分の編集意図を表明できるので、こまめに活用することで無用な誤解や混乱を避けることもできます。ただ、ときにそれは諸刃の刃です。簡潔に書かれたあなたの言葉は、逆に誤解の元になることもあり、また一方で、あなたの言葉が簡潔であるために必要以上にあなたの本性を皆に知らしめることにもなるのです。ノートでの言葉や記事とは違い、「編集内容の要約」を書き換えることはできません。「編集内容の要約」の利用には賢明であってもらいたいのです。

謝罪は誤解を招く言葉を避ける[編集]

もし議論で行き過ぎた言葉を使ってしまい、相手を傷つけてしまったとき、またあなたが安易に使ってしまった言葉に、相手が不快感を表明してきたとき、あなたはすみやかに謝罪をすべきです。なぜなら「誠実」を忘れないこと、そして相手の「信頼」を損なわないことこそが「対話(dialogue)」を続ける上で最も重要なことだからです。

しかしただ謝意を表明すればよいというだけではありません。謝罪行為は適切な形でおこなわれてはなりません。不適切な謝罪は、逆に相手の不信感を募り、「対話(dialogue)」を遠ざけるからです。

謝意を示すときだけでなく、一般的な議論でも次のような言葉は誤解を広げるだけと言えるので、なるべく使わない方がよいでしょう。

「私は○○な人間なので」
例えば自分の発言に対して、相手から表現の不適切さ・わかりづらさを指摘されて応えるのに、「私は昔から誤解されやすい性格なので」とか「私は理解力に乏しいので」という言葉を使うことは避けるべきです。不適切な言葉やわかりづらい言葉で議論をすることは「対話(dialogue)」を拒否していることと同じであることを思い出してください。相手が批判すべきと思っている点に「私は○○なので」と応えることは一種の自己肯定であり、相手の批判を真剣に受け止めていないと取られてしまうでしょう。
「○○しろというなら○○する」
これは一見相手の主張を受け入れているように見えて、本心から納得していないことが明白な言葉です。とくに謝罪の際に「謝れというなら謝ります」という表現は避けるべきです。謝罪は「誠実」に行われなければいけません。

謝罪の時には自分が反省している事柄について明言すべきです。たとえばそれが自分の使った言葉に対してであるなら、「○○のような言葉を使ってしまい、申し訳ありません」と述べます。

「暫定的な合意」の重要性と「問題」の棚上げ[編集]

すべての合意とほとんどの方針文書は暫定的である[編集]

時間とともに状況は変化し、また物事はつねに流動的です。したがって全ての合意は暫定的であり、ウィキペディアにおいて、根本的な方針を除いた残りの大部分の方針でさえも暫定的なものであるということができます。つまり、ウィキペディアにはつねに改善の余地があるのであり、現状維持に固執して反動的な行動をとることは、それに代わる十分な理由があれば、その正当性を失うことを意味します。

では合意は軽視してもよいか?[編集]

とはいえ、このことからただちに、あなたが十分正しいと思っているのであれば、合意を軽視すべきと考えてよいわけではありません。合意にはそこに至るまでに問題が検討され、その時点での一定程度の妥当性を元に多くの利用者が賛同したという正当性があるのであり、あなたがすべきことは、合意を無視して編集を強行することではなく、ノートや井戸端を利用して問題提起をし、議論によって新たな合意を形成することです。議論の過程を通じて、あなたの考えが本当に妥当かどうかもより深く検討されるでしょうし、多くの利用者も議論の過程を追うことで、以前の合意の問題点について正しく認識するはずです。一度決定された合意や方針文書を覆すことは、えてして多大な労力を伴うものですが、あなたが問題意識を持っているならば、それをコミュニティに問うことは大変価値があることです。必要以上に恐れることはありません。あなたが議論を無駄なものにしないように、議論の過程で一番注意しなければいけないことは、何よりも礼儀を忘れないことです

投票は民主的で公平か?---よりよい決定のためによりよい投票の形を[編集]

あらゆる場合に合意が可能であるわけではありません。その際に多くの人々は多数決によって問題を解決するのが好ましいと考えています。これは一見民主主義的な解決手段に思えるからです。しかし、多数決による決定は、一見正当なようで実はそれほど公平なものでないことにも注意してください。公開された投票は、とくに優勢な側に票が集まりやすい傾向にあることに留意してください。ウィキペディアの性格上全ての投票は公開投票に頼らざるを得ませんから、投票での解決を検討する場合には、投票結果によってどういう結果が得られるのか、その投票過程は公平であるか、賛成・反対の基準は正当なものかについて慎重に検討すべきです

たとえば、あなたがある方針文書の適用範囲をより広く変更しようと考えているとします。そのときにその方針文書の適用範囲を変えるか変えないかで投票することは正当でしょうか。方針文書の適用範囲をより厳しく、狭くすべきと思って変えようと考える人も、「変えるべき」という意見に賛成するでしょう。もし「より広く変えるべき人」と「より狭く変えるべき人」と「変えるべきでない人」が1:1:1であった場合、「変えるべき」と「変えないべき」で投票をすれば、票は2:1となって「変えるべき」という結果になってしまうでしょう。これをもし「より広く変えるべき」と「そうは考えない」という意見投票であれば、1:2で「より広く変えるべき」という意見は否決されるはずです。これは結果から見れば大変な違いをもたらすものです。この場合であれば、公平性を考えて、「より広く変えるべき」「より狭く変えるべき」「変えるべきではない」という三択で投票を行うほうがよりよい選択であるといえるでしょう。投票を行う際には、このようにどのような投票を行えば意見を公平に扱うことが出来るか吟味すべきです。とくに重要な変更をもたらす投票であれば、事前に結果を反映しない自由な形の調査投票をおこなうべきです。

問題を棚上げすることも悪いことではない[編集]

そして、早期に解決可能でないと判断されるならば、無理に投票で結果を求めたりせずに、問題自体を戦略的に棚上げすることも考慮してください。多くのウィキペディアンは問題はつねに解決されなければならないという信念を持っていますが、投票などによって問題解決を強行した場合に、少数派がコミュニティから分離してしまう可能性があることに留意すべきです。少数派を排除してまで問題解決を強行することは、生産的な方向に向かっていると言えるでしょうか?むしろ少数派も含めた全員が納得できる解決を漸進的にでも目指すべきではないでしょうか?なんでもかんでも問題を解決してしまうことは一方で、多様である意見を限定するものになってしまうことに注意してください。ウィキペディアは可能であれば、より自由であるほうがよいという意見には、ほとんどのウィキペディアンが賛同しているはずです

最も必要なもの---長期的な視野[編集]

賢明なウィキペディアンであれば、もうすでにウィキペディアの進むべき地平、その驚くべき長い道筋が見えてきたはずです。目指すべきは短期的な問題解決ではなくて、多様な知見の集約としての百科事典---プロジェクトはそこへ向かうべきなのです。ウィキペディアのオープンな、とはまさにそういう意味であり、このプロジェクトはオープンであるがゆえにつねに途上にあるのです。途上途上での短期的で暫定的な解決に固執して、プロジェクト全体の長期的な目標を曇らせてしまうことは正しいことではありません。非生産的な「論争(dispute)」はまさにそういった短期的な解決を争っているに過ぎないのです。ですから長期的な視野に立つウィキペディアンは必ずしも問題解決を急ごうとはせず、議論の過程を大事にします。ウィキペディアが極めて長期的なプロジェクトであることを忘れないでください

このことは単なる閲覧者とウィキペディアンを分けるひとつの基準でもあると言えます。閲覧者は現在のウィキペディア上にある情報のみにとらわれて、ともすればそこに記載されている情報の不十分さ、あるいは自分のよく知る観点を無視したかのような記述に大きな不満を感じることでしょう。しかし賢明なウィキペディアンはつねにその先を見ます。ノートを見てください。その記事の簡潔な内容は、それ以上に積み重ねられた詳しい議論の結果であるかもしれません。またあなたの求めている情報が価値判断を含んでしまったり、裏付けがない場合、ウィキペディアはそのような情報を信頼に乏しいものとして排除しています。ウィキペディアにはウィキペディアなりの情報の提示の仕方があり、それは長所でもあり短所でもあるのです。

長期的な視野に立つウィキペディアンは、その意味でも模範的な閲覧者であるということができます。ウィキペディアに記載されるべき情報の性質、ウィキペディアは何でないかについて理解していれば、ウィキペディアを閲覧する楽しみも、その有効利用の方法もおのずと明らかになるでしょう。そのうえでウィキペディアに付け加えるべき情報についてもわかるようになるので、より適切な加筆をすることができるようになります。議論においても、より自覚的な立場を取ることができるでしょう。

箴言[編集]

私たちの対話も同様に普遍的なものでなくてはならない。それがカトリック的ということであり、人が頭からはねつけない限り、あるいは心とは裏腹にさもうけいれるような態度をとる場合をのぞいて、誰とでも行われるものでなくてはならない。…(中略)…そして、私たちから、対話しようという相手より先に、はじめなくてはならない。
—教皇パウロ6世の回勅『エクレジアム・スアム』

わたしは、頭痛の折りふしに、発作がひどくなると、ほかの人のひたいのちょうど同じ部分をなぐりつけて、痛い目にあわせてやりたいとつよく思ったものだ。このことを忘れないこと。
これに似た思いは、人間において、じつにしばしば起こるものだ。
そんな状態のとき、わたしは殴りはしなかったものの、人を傷つけるような言葉を口にするという誘惑に負けてしまったことが何度もある。重力に屈してしまったこと。最大の罪。こうして言語の働きがそこなわれる。言語の働きは、ものとものとの関係を表現することであるというのに。
シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』

……人間は、言論と活動を通じて、単に互いに「異なるもの」という次元を超えて抜きん出ようとする。…(中略)…言葉と行為によって私たちは自分自身を人間世界の中に挿入する。そしてこの挿入は、第二の誕生に似ており、そこで私たちは自分のオリジナルな肉体的外形の赤裸々な事実を確証し、それを自分に引き受ける。…(中略)…それは、私たちが仲間に加わろうと思う他人の存在によって刺激されたものである。
ハンナ・アーレント『人間の条件』

第二は人間と人間の交わる生活。そこでは関係は明白であり、言語の形態をとる。われわれは<なんじ>を与えたり、受け取ったりすることができる。
マルティン・ブーバー『我と汝・対話』

μισει γαρ ο θεος τας αγαν προθυμιας. (神は度を過ぎた熱意を嫌う。)
エウリピデス

大意払悟(たいいふつご)するところなく、辞言繫縻(じげんけいび)するところなく、然るのち智弁を極騁(きょくへい)せよ。
説明の大部分に相手の意向を汲み取り、言葉遣いも相手を刺激しないよう配慮して、初めて縦横無尽に意見を披露すべきである。
韓非

Lagom är bäst. (ほどほどがよい。)
これを議論で用いる場合、ほどほどの線で合意せよという意味。また lagom の om には繰り返す意味があり、合意点を何度も何度も繰り返し探るべきことが含められている。
スウェーデンのことわざ