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利用者:Kawakudaridonko/sandbox

高石忠造

本籍は東京市京橋区築地、1848年(嘉永2年)12月13日福岡県筑後国山門郡沖端 村矢留村に柳川藩家臣田村義八長男として生まれる。19歳で東京に遊学し、3年 後に長野県で職につく。同年5月大蔵省臨時建設局へ転職し、東京府の京橋新橋 間赤煉瓦造りの家の建設に従事する。その後山形県で土木建設事務を専門とす る。1874年(明治7年)東京建築会社に入り、建設業に従事する。1879年(明治 12年)退職後山形県土木課で諸工事の監督、1884年(明治17年)皇后建設事務局 等の歴任。1886年(明治19年)退職後は大倉組店員、1889年(明治22年)東京都 流水工事、並びに呉海軍鎮守府の各工事に従事。1895年(明治28年)竣工後来 台、大倉組台湾出張所主任として、台湾総督府各工事に従事する。1899年(明治 32年)退職、住所を東京に移す。

1900年(明治33年)高石忠慥は台湾で独立し、土木建設業及び物品販売業を営 む, 1910年(明治43年)8月10日経営拡大し、資本金20万元に増資、共同組織へ改 組。高石組本店は台北の臺北撫臺街、その他台南支店、新竹出張所、林内出張 所、嘉義出張所。土木建築業の他にガラス類販売、日用商品等各種代理店業、秋 田木材株式会社の台湾販売、防水布及び塗料製造販売等。

高石忠慥の関係事業は日本芳醇、台湾醤油、台湾劇場、台湾 ○○会社等の主要株 主、および、台湾農林等各株式会社の監督等。

高石組は基隆郵便局(1912)、台北記念博物館(1914)、屈尺第一発電所、台北 淡水河護岸工事、北山砿発電所、基隆軍兵舎、台北軍兵舎、台北市内幹線暗工 事、後瀧溪護岸工事、台湾総督府庁舎の一部分、濁水渓護岸工事、蘇澳花蓮港道 路改修工事、中○(←土に歴の感じが読めません。)平鎮間パイプライン工事鶯歌 石間パイライン工事、新竹竹南間パイライン工事、大林三疊渓架橋工事、集集水 里坑間鐵道路復線板橋街水道工事 などのプロジェクトを請負いました。