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利用者:Kinno Angel/編集姿勢

問題意識:まず基本を押さえたい[編集]

ホミャコーフのソボールノスチとか、ブルガーコフやフロレンスキイのソフィア論とか、現代の正教の中では比較的亜流と看做されているものについての研究は「なんかロシア独自っぽいから研究しよう」と言う事になっているからか(?)多くの先行研究・豊富な文献が日本にありますが、肝心の現代正教神学の主流の見解、正教の基本的な思想・物品は「どうせ面白みもないだろう」という事からか(?)、研究があまりされていないのが日本の現状です。

念のため強調しておきますが、上記研究分野の研究者達の努力を否定するものでは決してありません(各種著作にお世話になっており、研究者達には深く感謝し、尊敬しています)。しかし研究者として業績を残しにくいのは「基本」とされる分野である事も重々承知の上で、なお正教・ロシア宗教思想に関し、基本的分野の出版拡充がさらに図られるべきだとも思います。一部研究者によりそのような著作が少しだけ出されていて私もお世話になっていますが、出版社は出版不況にめげずにそうした本の出版をどしどし進めて頂きたい。基礎が広がらなければその分野は伸び悩み、ひいては出版需要も拡大しないままとなるでしょう。

これは、正教に限らず、日本のキリスト教研究全体に言える問題。昭和中期のものはバランスがとれた事典がありますが、平成になると「現代の問題」ばかり目が向いている。そこまで日本のキリスト教関連文献は、基礎研究が終了した訳ではないのですが…。他方、ボランティアによるウィキペディアを遥かに下回る品質の出鱈目ばかり書いてある「入門書」出版も相次いでいて、これはこれで問題です。

たとえばYAHOO百科事典。正教の基本的な事柄については誤謬があるのに、ロシア宗教哲学については結構詳細に書かれていたりしますが、こういう事例にも日本の学界のリソース投入のいびつさが顕れているように思えます。無論、個々人の責任を問うのは酷(というより無茶)です。学界の風潮・評価システムの方に問題(もしくは本質的限界)があるのでしょう。

そういう訳で、まず基本分野の記事を拡充することに、ウィキペディアにおける自分の役割があると考えています。「基本ほど難しい」事は承知していますが、各種教派の初歩的見解を纏める段階までは、各教派の出典からの要約・抽出で何とか書き得ますし、逆にそうしたものは学界ベース、商業ベースには乗せにくいでしょうから、jawpにしか出来ないものでもあると言い得るでしょう。

たまにあまり他言語版が存在しない、自分の興味が強い分野の記事を作りますが、5言語版(少なくとも2言語版)以上はある記事を出来るだけ優先的に作成するようにしています。なお英語版を基準にはしていません(英語版にも相当に偏りがある)。

「独自研究の排除」「中立的観点」「検証可能性」を超教派系記事で満たすための指針[編集]

基本姿勢[編集]

超教派系記事を限られた教派の文献のみで構成するのは不適当。せめて以下の視点の諸文献くらいは最低限、用意して加筆に望みたいものです。

  1. ローマカトリック←→プロテスタント
  2. 福音派←→所謂リベラル派
  3. エキュメニズムをどちらかというと肯定←→エキュメニズムをどちらかというと否定
  4. ほか、問題に合わせて対立軸を(場合によっては複数)見出し、思想ごとの見解をチェック。

私の場合、これに「正教」という視点を加える事になる。他人に正教への視点までは中々要求できないと思っていますが(用意出来る文献に限りがあるでしょう)、出来れば上記の視点4つ、最低限でも1、2くらいは考慮する必要があるでしょう。「他人が加筆すれば宜しい。自分は一部の視点からのみ書く」というのは、Wikipedia:中立的な観点に反して居ます。繰り返しますが正教にまで配慮すべきとは申しませんが、せめて「カトリック、プロテスタント(リベラル・福音派)」の三点は押さえた記事にして頂きたいと他者にも願っております。せめてこれらの視点が確保されていれば、後で私が正教の視点を加筆すれば済むのですから。

「キリスト教偏向」との論難に対して[編集]

概容[編集]

「Kinno Angelはキリスト教の視点から気に入らない箇所を問題視しているのだ」と繰り返し言われていますので、弁明をしておきます。

どうも「キリスト教に都合の悪い記述を全てKinno Angelは排除したがっている」と受け取られることが何度か各所でありました。しかしそのいずれでも、「具体的にどの点がキリスト教に都合が悪い」のかという前提となる指摘は皆無で、「Kinno Angelが削除編集するところは全てキリスト教に都合の悪いところに違いない」という思い込みがあるだけでした。

そこまで私のことをキリスト教弁証家・護教家か何かであるように誤解されるのはある意味光栄ですが、そこまで私の書く内容を「キリスト教(もしくは正教会)に正確に都合が良いものしか書いていない」とお考えになるのは、買いかぶりというものです。正教の離散といった、正教会で大変微妙な問題になっていて誰も書きたがらない問題(有体に言えば正教会の内輪もめ)についても、一応私は書いています(あまりに複雑な問題であり、大量に書くのには私の手に余りますが)。

しばしば、「jawpはキリスト教事典ではない」として私を非難する向きがあります。なるほどその通りです。

しかしながらオカルト研究家の記述が含まれていることを以て記事「憑依」の問題点を指摘したら、「キリスト教偏向」と論難されるケースなど、理解不能です。jawpは百科事典であって、怪しげなオカルト事典では無いのも確かなのです。どこの権威ある百科事典が、オカルト研究家の記述を基に書かれていますか?

「伝統宗教は百科事典に扱われるのに、宗教学者の見解は百科事典に扱われるのに、オカルト研究家の記述は百科事典に扱われないのか?そういう発想が偏向だ」という論難も予想されますが、学術的研究領域となっているレベルの伝統宗教と、一オカルト研究家の見識が同列に並べられるという発想そのものが、世間では一般的ではありません。

jawpは百科事典です。最低限の品質は保たれるべきです。

行動例[編集]

キリスト教関連の記事における私の言動のみを以て「キリスト教偏向」と論難する方が多いので、記事「神道悪玉論」におけるタグづけと、記事「仏教善玉論」におけるタグづけといった例も挙げておきます。この二つのケースでも、「憑依」の時も、私に暴言(「うるさい!黙って聞け!!」「うるさい!黙って読め!!」) を言ってきたのはIPでした。Wikipedia:説明責任の運用面についても見直しが必要なのではないかと最近思い始めています。

他の例:ノート:神道原理主義復活 (キリスト教)において、復活を事実と捉えない考え方を削除したIPの編集を差し戻し

「正教偏向」との中傷に対して、他の面での実績説明[編集]

ごくごく稀なケースではありますが、「Kinno Angelはjawpを正教会の宣伝媒体として使っている」という中傷をする人が現れて居ます(そのたびに第三者の皆様から「そんなことは無い」という弁護を頂戴し、そのたびに感謝し感動しております、御助力かつ御寛恕を頂いている皆様、いつもありがとうございます)。

そういう論難・中傷を突然して来る人はそもそもこの弁明すら御覧頂けない虞もありますが、第三者向けに「実績」の説明をしておきます。…本当はこんな「実績誇示」のような、醜い、つまらないことはしたくないのですが、論難中傷して来る人が居る以上、新しく見に来た方に弁明する必要を残念ながら想定せざるを得ないようです。

復活 (キリスト教)地獄 (キリスト教)イエス・キリスト教理ノート:キリスト教キリストの地獄への降下聖霊などにおいて、(他の編集者を批判する意図はありません、あくまで単純な事実として)どの編集者よりも、私は正教、カトリック教会聖公会プロテスタント(しかもプロテスタントの内部の多様性も考慮したもの)の出典を確保し、プロジェクト:キリスト教への参加も編集者達に呼びかけて、超教派にかかる記事の中立的観点を達成する加筆修正に取り組んで来たつもりです。それは上に挙げた諸記事の脚注部分を御覧頂ければ、容易に御理解頂けるでしょう。

正教以外の各教派の記事についても、私なりに真面目に取り組んだつもりです。

カトリック教会終身助祭については、(新しい事象でもあり残念ながら出典がウェブサイトに偏ってしまってはいますが)中規模に加筆し、出典を細かくつけました。

プロテスタント内の自由主義神学については(福音派の観点に偏っていた状況を改善するために)大幅に加筆し、さらに聖公会、プロテスタント、アナバプテストの理解のために樹形図も作成しました。またルター派で重要な人物であるにも関わらず記事が貧弱だったフィリップ・メランヒトン加筆しています。18言語版が存在し、エキュメニズムにおいて重要な筈のポルヴォー・コミュニオンも、記事が存在しませんでしたので半分を翻訳として作成しました。

もちろん私の得意分野が正教ですし、正教関連の記事に注力しているのは事実ですが、少なくとも超教派にかかる記事において正教に偏向した記事作成は企図しておりません。

…そもそもプロジェクト:キリスト教の参加者を見れば判るのですが、jawpにおけるキリスト教系編集者は、殆どカトリック、プロテスタントばかりという環境下で、「正教への偏向記事作成が可能」と考えられるのがどうかしていると私は思いますが。

教派書き順[編集]

私が「正教非カルケドン派カトリック教会聖公会プロテスタント」の順に書く事に、個人的嗜好が反映されている事は、肯定しませんが、躍起になって否定するほどの事でも無いでしょう。内心の動機に関係無い、確固とした客観的根拠があるので、私の動機について云々する必要は無いと考えております。

八木谷涼子氏の著作やウェブサイトでも同様の並び順「正教、カトリック、聖公会、プロテスタント」になっているのですが、これは別に彼女が東方教会に殊更に好意的だからというわけではありません。ウェブサイトを見れば判るのですが、かなり合理的な並び順なのです。

  1. 正教とカトリックが隣り合わせ、カトリックと聖公会が隣り合わせ、聖公会とプロテスタントが隣り合わせ。つまり相対的に似ている者同士が隣同士になる
  2. 西方教会は西方で一括して表示出来る

以上二点のメリットがあります。

さらに今一つのメリットとしまして、インターコミュニオン関係をきちんと反映出来る、というものがあります。(参照

凡例
「=」…相互領聖・相互陪餐関係が全体的にある
「ー」…相互領聖・相互陪餐関係が部分的にある
「×」…相互領聖・相互陪餐関係が無い
インターコミュニオン関係図
非カルケドン派=カトリック教会
正教会ー非カルケドン派
正教会×カトリック教会
したがって
【非カルケドン派、正教会、カトリック教会】と並べようとすると、
非カルケドン派正教会×カトリック教会
となる。
正教会ー非カルケドン派=カトリック教会
とすれば、「×」が現れない。

規模順の「カトリック、正教、プロテスタント、聖公会」では、このようなメリットはありません。西方を東方の手前に持って来る「カトリック、聖公会、プロテスタント、正教」の順では、メリット2番は残りますが、やはりメリット1番は消えます。但し、西方教会でメインに使われる用語である聖母マリアについては、「カトリック、聖公会、プロテスタント、正教」の並び順でノートで賛成し、合意しました。

なお、八木谷涼子氏のウェブサイトでは聖公会をプロテスタントに分類し、「ルーテル、聖公会、改革派」の順に書いて居ますが、聖公会をプロテスタントに簡単に分類する事には異議がありますし、聖公会をプロテスタントと別枠で書く場合には、やはりカトリックとプロテスタントの間に持って来るのがメリット1を満たし易いとも考えます。

宗旨を明示しない理由[編集]

私の宗旨は(少なくとも現段階では)明らかにしていません。他人がなさるのは止めませんが、少なくとも私は自らの宗旨を明らかにする事の必要性を認めていません。

編集者にも個性があるのであり、得意分野や充実させる項目の選定などに編集者の専門領域・宗旨・嗜好が反映されるのは自然です。

しかしどんな教派のキリスト教徒も、あるいは非キリスト教徒も、守るべきルールは同じです。財団の方針および編集者達の合意により、WPJP参加者として求められる基本方針・ガイドラインに、宗旨の違いに由来する差異はありません。

顔の見えないネット上の議論の過程において、「何が事典として書かれるべきなのか」「方針・ガイドラインに則っているか」を練り上げるのに、自らの宗旨を明らかにするのはむしろ正常な合意形成への邪魔であると考えます。

協力すべき時には協力し、議論すべき時には議論する。ルール破りのもたらす悪影響の大きさが認識されていない事に抗議すべき時には抗議します。その事に私の宗旨、相手の宗旨が何なのかは、関係ありません。

ウクライナについての基本認識[編集]

私の知見が乏しいことは自覚しております[編集]

正直言って、私はルーシウクライナベラルーシロシアといった諸概念につき、定見を開陳できるほどの前提知識はありません。私の利用する文献にあるものを出典つきで纏めて行くだけです。「知識が無いという事を自覚して下さい」といった事を、精力的なウクライナ関連の執筆者約二名から言われましたのでここで明らかにしておきますが、「その事は自覚しております」。

私が極めて僅かな自信を示せますのは、あくまで正教会(しかも具体的事物・人物中心であり、その神学・思想は大弱点)のみであり、東スラヴについての前提知識などお寒いものです。

特定の見解のみで記事を構成するのは宜しくありません[編集]

私の主張はあくまで「『ルーシ=ウクライナ』といった、特定の見解のみで記事を構成するのは宜しくない」これだけです。至ってシンプルであり、特定の定見を主張するものでは全くありません(そもそも出来よう筈もありません)。

それでも議論はせざるを得ない場面が出ます。

私が利用する文献というのが(たとえ日本語文献・ロシア語文献固有の偏りがあったとしても)一定の主張・概念を前提としている以上、これを全否定するような近年のウクライナにおける特定の見解パターンのみを(たとえ支持者が少なからず居たとしても)記事に書かれるというのは、東欧に係る編集に関わる以上、残念ながら看過出来ません。中立的観点が損なわれます。

なお、少なくとも当方には、別にウクライナを低く扱っていたり、殊更にロシアの肩を持っていたりする意図・意識はありません。どうも論争になっている記事ばかりが注目されるので誤解されがちなので、当方のウクライナに対する姿勢が別の形で表れている記事を二つ挙げておきます。→キーウ・ポスト、およびキリスト復活総大司教座大聖堂

相対化[編集]

最近では「ウクライナとロシアは全く違う」という見解も相対化する必要を感じています。これは別にロシアの肩を持つとかそういう問題とも限りません。そもそも東スラヴの諸民族・諸地域は簡単に区切れるようなものではないというのが大前提なのです[1]

…というより民族主義が相対化されるのは今に始まったことではありません。ウクライナ人とロシア人を完全に切り離す観点によるもののみを正しいとし、そうでない主張は全てロシアPOVなどと分類する言説が最近またJAWPで散見されるようになっていますが、JAWPに記述するには乱暴な一方的言説と言わざるを得ませんし、様々な局面で良質な既存執筆者達による既存の記述に対して「ロシアPOV」などと批判して回っている人が最近また出て来ていますが、的外れなレッテル貼りと言わざるを得ません[2]

他の国々・地域における民族主義がJAWP上では相対化されるのと同様に、こうした主張も相対化されるべきです。

私の主張は以上のように、「相対化」この一点に絞られます。

「孫引き」についての考え方[編集]

一般的に「孫引き」というものは良くないことです。しかしウィキペディアの宗教系記事においては若干、事情が異なります。

たとえばシリアのイサアク金口イオアンの著作を直接引用しこれを脚注の出典として文章を構成することは、キリスト教系記事において中立性を確保するのには、むしろ困難が増す原因となります。シリアのイサアクや金口イオアンに対する評価そのものがキリスト教内で割れている以上、原典に直接拠ることは、「何を出典とするか」のプロセスにKinno Angelの観点が間違いなく反映されてしまうのです。

従いまして、敢えて「ウラジーミル・ロースキイの著作からの孫引き引用」「カトリック百科事典からの孫引き引用」といった体裁を、わざととっております。こうすることで「どこの教派のいつの時代の文献で、当該教派において代表的見解の出典・典拠とされていたのか」を明示し、教派ごとのバランスをとるのに資することを狙っております。

脚注[編集]

  1. ^ ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人などと簡単に書かれる事が多いですが、実はそう簡単に民族の境界が定められるものではないという基本的知識を得ることが出来る廉価な本として右を挙げます。→服部倫卓『歴史の狭間のベラルーシ』(ユーラシア・ブックレット) ISBN 9784885955235
  2. ^ むしろ日本で「民族主義を相対化」と頻繁にいう人がいたら、どちらかと言えば左翼とかグローバリゼーション肯定派を連想する筈なんですけれどね…直ぐに「ロシアPOV」を連想するのは、ちょっと発想が偏っているのではないかと…