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利用者:Kizhiya/sandbox-g

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クチュム・ハーン (シベリア・タタール語 Köçöm, ロシア語: Кучум[要出典]死去) は、シビル・ハン国最後のハーンであり、1563年から1598年まで同国を支配した。 クチュム・ハーンはイスラムの教えを広めようと試み、ロシア・ツァーリ国にたびたび侵入した。ツァーリイヴァン4世(雷帝。ツァーリとしての在位1547年-1584年)の激しい抵抗に遭った。雷帝は1580年、(?)コサック(カザーク)軍をクチュム・ハーンの正面に相対するよう送り込んだ。クチュムは特に、ロシアの征服者に対し、精力的な抵抗を試みたと記されている。

出自と家系[編集]

クチュム・ハーンは、ブハラ・ハンムルトザの息子として生まれた[1]。シバン家の出で、トボル川に住んでいた[2]。 シバン家(あるいはシャイバニー朝)は、チンギス・ハーンの長子ジョチ[3]の五男シバンが興した。シバン家のアブールハイル・ハーン(在位は、サマルカンドを、同じジョチ家の子孫であるテムル家からシルダリア川流域を奪った。1500年には、ムハンマド・シャイバニー・ハーンがサマルカンドを支配した[4]

Kuchum was the son of prince Murtaza from the Shayban dynasty (Şäyban) and a descendant of Hadji Muhammad.

シビル・ハン国内とモスクワ[編集]

1552年、イヴァン4世治下のロシア軍がカザンを攻略した[5]。 ロシアの史料『シベリア年代史』[注釈 1]によると、1555年にカザン・ハン国の併合を祝うために、シビル・ハン国の支配者エディゲルがモスクワに使節を送り、外敵からの庇護を要請し、代わりにシベリア全土をツァーリ・イヴァン4世のものとし、毛皮を貢納するための徴税担当者の派遣を願ったという[7]。同書によると、イヴァン4世は1554年から、「全シベリアの命令者」と名乗るようになっていた[8]。 いっぽう、クチュム・ハーンは、1563年にエディゲルとその兄弟を殺害してシビルを奪い、「シベリア皇帝(シビルスキー・ツァーリ)」と称した。1569年にはユグラオスチャークウォグルを征服、さらに1572年、アファナシイ・ルィチェニツィンの指揮するロシア軍に勝利する[8]。あるいは、加藤九祚によると、クチュムはシビルを奪ってから、しばらくモスクワに臣従を誓っていたが、1572年以降にモスクワへの貢税をやめたという[1]

ストロガノフ家とモスクワ政府[編集]

イェルマークとの戦い[編集]

イェルマークによるカシリク落城とクチュムの逃亡(レメゾフ年代記)

In 1582, the Siberia Khanate was attacked by the Cossack ataman Yermak, who defeated Kuchum's forces and captured the capital Qashliq.

1582年に、コサックのアタマンイェルマークがシビル・ハン国を攻撃し、チュバシ岬の戦いでクチュム軍を倒して、首都カシリクを占拠した。

Kuchum retreated into the steppes, and over the next few years regrouped his forces.

クチュムはステップ地帯に退却し、その後数年のあいだ、軍を解散させた。1584年の8月6日真夜中、クチュムはイェルマークを急襲し、イェルマークおよび彼の軍のほとんどを殺害した。今は廃墟となったカシリクを統治するべく帰還した。


He suddenly attacked Yermak on August 6, 1584, in the dead of night, and killed Yermak and most of his army; regaining control of the now ruined Qashliq. Kuchum attempted to unite the rival factions within the khanate nobility but met with resistance. クチュムはハン国内の貴族の対抗する派閥を統合しようと試みたが、抵抗に遭った。


After an unsuccessful attempt on his life by Qarachi Sayet khan (Säyet), Kuchum was forced to move his horde to the steppe south of the Irtysh river. 失敗に終わった試みの後、カラチサイェート・ハーン(Säyet)によって、クチュムはオルド(天幕)をイルティシュ川の南のステップに移動させられた。


There he attempted to establish a new khanate, engaging in war against Russian governors. その地で彼は、ロシアの総督(支配者)たちと戦いながら、新たなハン国を打ち立てようと試みた。 In 1590 Kuchum raided the Tatars around Tobolsk who were paying yasak to the Russians.

1590年、クチュムはトボリスク周辺でロシア人にヤサク(貢税)を納めているタタール人を襲った。

In 1591 Koltsov caught Kuchum on the Ishym River and captured two of his wives and his son Abdul-Khair who was later given estates in Russia.

1591年には、コルツォフがイルティシュ川のクチュム・ハーンを捕らえ、クチュムの2人の妻と息子を拉致した。息子のアブドル=ハイールは、のちにロシアに領地を与えられる。 In 1594 the fort at Tara was built in part to control Kuchum who was in the area. 1594年に、タラに、この地域にいるクチュムを統制する目的もあり、要塞が建てられた。

In 1595 Kuchum's followers were raided on the upper Irtysh.

1595年に、クチュムの残党たちがイルティシュ川上流を襲撃した。

クチュム・ハーンの死[編集]

クチュムは1588年にシビルの町から草原へと逃亡し、1598年にノガイの遊牧民に殺害された[9]

クチュムの子孫たち[編集]

In 1597 Kuchum asked for negotiations and the Tsar and Abdul-Khair wrote from Russia offering estates in Russia in return for surrender. 

1597年に、クチュムは交渉を要求した。ツァーリとアブドゥル-ハイールはロシアから書簡を送った。降伏を申し出れば見返りにロシアに領地を与えるという内容であった。 Before September 1598 Andrey Voyeykov caught a large group of his followers at a place called Ub Lake and later caught Kuchum on the Ob River. 1598年9月、アンドレイ・ヴォイェイコフが、ウブ湖と呼ばれる場所でクチュムの信奉者たちの巨大な集団を捕らえた。その後、オビ川でクチュムを捕らえた。

Kuchum fled, but the Russians killed two of his sons and captured five other sons, eight wives and eight daughters. A Muslim cleric was sent to negotiate. クチュムは逃亡したが、ロシア人たちは子息2人を殺害し、そのほか5人の息子、8人の妻と8人の娘を捕らえた。(なんか怪しい)ムスリムの聖職者が交渉のために送られた。

Kuchum replied, describing himself as deaf and blind and without subsistence and said that he had not submitted before and would not submit now. クチュムの回答は、自身を最低限の必需品もなく、盲人かつ聾唖の状態だとしながら、一度も降伏したことはないし、今も降伏するつもりはないというものであった。

This was his last contact with the Russians.  これがロシア人への最後の連絡であった。

He is believed to have died c. 1605 in Bukhara.彼は1605年にブハラで死んだと信じられている。


In 1620 his son Ishim-khan married a daughter of Kho Orluk who was then leading his people from Dzugharia to the Volga.1620年には、彼の息子のイシム・ハーンが、当時Dzughariaからヴォルガまで、臣民を率いていたKho Orlukの娘と結婚した。

Kuchum is portrayed in numerous Tatar and Russian songs and legends. His descendants remained in Muscovy, eventually assuming the title of Sibirsky. クチュムは、タタールおよびロシアの、多数の歌や伝説に登場している。彼の子孫はロシア・ツァーリ国に残り、ついにはシビルスキーの名を冠されたと推定されている。

In 1591, Kuchum's son, Abul Khayir was the first of his dynasty to convert to Christianity. 1591年には、クチュムの息子アブール・ハイールが、王朝をキリスト教(ロシア正教会?)に改宗した先駆けとなった。

His conversion was followed by the conversion of his entire family who eventually assimilated into the Russian nobility. 彼の改宗に続いて、結果としてロシア貴族に同化した家族全体の改宗が続いた。 For instance, although Abul Khayir's son was known as Vasily Abulgairovich, his grandson's name, Roman Vasilyevich, could no longer be distinguished from a native Russian name. たとえば、アブール・ハイールの息子はヴァシリー・アブルガイロヴィチとして知られているが、孫の名はローマン・ヴァシリエヴィチであり、生粋のロシア人の名前ともはや区別がつかなかった。

In 1686, the tsar decreed that the dynasties of the ruler of Imeretia in the Caucasus along with the Tatar princes of Siberia and Kasimov were to be into the Genealogical Book of the Russian nobility. 1686年には、ツァーリの布告により、コーカサスイメレティ王国の支配者の王朝とシベリアのタタール公およびカシモフが、ロシア貴族の系図書に入ることになった。

[10]

1661年には、クチュムの子孫だと言われる男性がバシキリアでロシア軍と戦った。

In 1661 a man who was said to be a descendant of Kuchum fought the Russians in Bashkiria.

In 1739, during the Bashkir War, Karasakal was said by some to be a Kuchumid.[11]

1739年に、バシキール戦争のあいだのカラサカルはクチュムの子孫だと言われている。

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存命中

先代
Murtaza
Khan of Sibir
1563-1598
次代
none

脚注[編集]

  1. ^ シチェグロフ編著。1883年出版。邦訳あり[6]。ロシア史研究者の森永貴子によるとロシア側の政治的見解を反映しているという[7]

出典[編集]

  1. ^ a b 加藤 2018, p. 71.
  2. ^ 岡田 2001, p. 133.
  3. ^ 宮脇 2002.
  4. ^ 岡田 2001, p. 124.
  5. ^ 栗生沢 et al. 1995, p. 234.
  6. ^ シチエグロフ 1943.
  7. ^ a b 森永 2008, p. 43.
  8. ^ a b 森永 2008, p. 44.
  9. ^ 宮脇 1996, p. 23.
  10. ^ Michael Khodarkovsky, Russia's Steppe Frontier, Indiana University Press, 2002, ISBN 0-253-21770-9, M1 Google Print, p. 265.
  11. ^ Alton S Donnelly, 'The Russian Conquest of Bashkiria', 1968, pages 23 and 127

参考文献[編集]

  • 川口, 琢司、長峰, 博之(著)、内陸アジア史学会(編)「ジョチ・ウルス史再考」『内陸アジア史研究』第28巻、株式会社杏林舎、2013年、27-51頁、doi:10.20708/innerasianstudies.28.0_27 
  • 宮脇, 淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』 59巻、刀水書房〈刀水歴史全書〉、2002年。ISBN 978-4-88708-244-1 
  • 宮脇, 淳子「ロシアにおけるチンギス統原理」『ロシア史研究』第58巻、ロシア史研究会、1996年、16-21頁、doi:10.18985/roshiashikenkyu.58.0_16 
  • 護, 雅夫、岡田, 英弘『中央ユーラシアの世界』 4巻、山川出版社〈民族の世界史〉、1990年。 
  • 岡田, 英弘『モンゴル帝国の興亡』筑摩書房、2001年。ISBN 4-480-05914-8 
  • 加藤, 九祚『シベリアの歴史(新装版)』紀伊國屋書店、2018年(原著1963年)。ISBN 978-4-314-01158-7 
  • スクルィンニコフ, ルスラン 著、栗生沢猛夫 訳『イヴァン雷帝』成文社、1994年。ISBN 4-915730-07-7 
  • 栗生沢, 猛夫、田中, 陽兒、倉持, 俊一、和田, 春樹『ロシア史〈1〉9世紀-17世紀』山川出版社、1995年。ISBN 4-634-46060-2 
  • 森永, 貴子『ロシアの拡大と毛皮交易――16~19世紀シベリア・北太平洋の商人世界』彩流社、2008年。ISBN 978-4-7791-1393-2 
  • シチエグロフ, イ・ウェ 著、吉村柳里 訳『シベリヤ年代史』日本公論社、1943年(原著1883年)。 

関連文献[編集]



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