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利用者:Komatta1

== 自己紹介 ==  小松優 と言います。  昔登山をやっていました。といっても、はじめたのは五十歳半ばからでして、登山の知識は本で読めますが、技術的なものは、若い人達から現場で学ばざるを得ません。特にロッククライミングは体力もなくなった中年には、応えましたが、それでも、岩壁をよじ登って、遥か下方に大地を望み、自分が今下から見上げる高所に居るんだと言う、興奮は心の高揚するものを覚え、何とも言えず楽しいものでした。その成果を以て、南アルプスの北岳ピラミッドフェイスを登り切ったときの感動は、今も忘れることが出来ません。  また、夏場には、沢登りを楽しみましたが、轟々と落ちる滝に逆らって、滝の水をかぶりながら遡行する楽しさも忘れられざる思い出です。  雪の徳沢園にキャンプを張り、早朝に仰いだモルゲンロウトの荘重な前穂は印象に残っています。また、屋久島遠征では隊員の滝壺転落事故が発生し、急造担架で搬出し、救難ヘリを呼んで救出した思い出や、白馬、五竜、唐松縦走の他、槍・穂高縦走等、思い出は次々に尽きることを知りません。夏、薬師沢で雨後の増水で、危うく流されそうになったこともあります。  然し、その後、当時勤めて居た会社の定期検診で図らずも、悪性リンパ腫が発見され、精密検査の結果、即刻入院、胃の四分の三を切除、抗ガン剤との戦いで、食事は摂れず、頭髪は抜け、65kgの体重が43kgになり、骨と皮で退院し、自宅療養と時折の通院で、様態を確認しつつ、現在に至っています。かくして、最早、山にも登れなくなりました。若干の体力を取り戻し、ジョギングやヲーキングで56kgまで回復し、今は、ゲートボールを叩いたり、男女共同参画推進センターでボランティア活動をしたりしています。  万葉時代の筑紫について、また、南北朝時代の九州について勉強して見たい  と思っています。  戦場には行きませんでした。とは言っても、戦時下の少年です。「お国の役に立ちたい」と思い、飛行予科練習生を志願して、(当時は既に乗るべき飛行機もなかったのです。)3cm程背が足りず、試験官から「暗号兵」を進められましたが、「船舶兵」に決め、海兵団入団の通知を受けました。通知を受けて一週間後に入団の予定でしたが、その3日後に終戦を迎えました。正直言って、何か、ホットしたような虚ろな気分になった覚えがあります。  勿論、空襲の惨禍をも見ました。勤労動員先の会社が空襲で爆撃され、女子挺身隊員が一挙に12名ほど亡くなった事もありました。  戦後の教育では、教科書を墨で塗り消しながら、教科書を通じて、倒壊した軍閥政治への不信感を覚えました。  安保闘争の一端を、ノンポリ(政治無関心)といわれるのが嫌さに、ほんの端っこで気勢を上げました。戦後の日本経済復興にいささかの貢献を担ったと思ってる、古色蒼然とした世代です。小学校の同窓生が櫛の歯の欠けるように永久の旅立ちをしています。もう先の短い人性をあっぷあっぷあがきながら生きています。とにかく、宜しくお願い致します。発信地は、九州福岡からです。