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利用者:Ks aka 98/wptn/半白胡瓜

馬込半白胡瓜(まごめはんじろきゅうり)は、東京都大田区で栽培される胡瓜の品種である[1]

東京都大田区にある「馬込半白節成胡瓜・馬込大太三寸人参 発祥之地」記念碑

歴史[編集]

誕生[編集]

江戸期にはすでに砂村(現在の江東区)において砂村青節成という品種が作られていた[2]。それが明治期にはいり、品川区大田区方面へとひろがり、馬込村では大井節成栽培された。

大井節成をと掛け合わせて改良したもの[3]として、1900年(明治33年)頃には早出胡瓜の馬込半白胡瓜が生産されるようになった。白い部分の多い品種として、また、馬込の特産品として人気を博した[4]1920年大正9年)には、篤農家の河原梅次郎を中心として採種組合「大農園」が設立され[3][5]、優れた原種を保存し組合員に種を配布するようになった[6]。なお、都営地下鉄浅草線西馬込駅前の近くに「馬込半白節成胡瓜・馬込大太三寸人参 発祥之地」の記念碑が建てられている[7]

衰退から現在まで[編集]

昭和10年代には、馬込から出荷された種子をもとに、温暖地での促成栽培が盛んとなり、それらの東京への出荷が増えていた[8]。5月から始まる温暖地産のものの質が落ち始める、6月中ごろから馬込の良質のものが出ることや[9]第二次世界大戦中に輸送遅延により遠方からの出荷が見合わされることで、近郊農村の産物として優位を保てた。しかし戦後に出荷統制が解除され、再び遠方から東京への出荷が盛んになると、流通の間に変質せず、店持ちのする「相模半白」(馬込半白と青胡瓜の交配改良種)へ取って替わられていった。また、同時期に元の種に別種が混ざるということもあった[5]。 その後、これら半白系の胡瓜は、消費者の好みの変化、品種の保持の難しさ等の理由により、次第に品種そのものが消滅していってしまった。大田区の農家により復元を試みられ、半白胡瓜の栽培が続けられている[5]

特徴[編集]

つるの10節めほどから連続的に雌花のつく節成胡瓜で、栽培法である「支柱栽培」とともに各地に広まった。地面に麦わらを敷いてつるを伸ばす「地ばい栽培」に比べ、節成でつるの伸びが強くない品種の支柱栽培が馬込周辺で開発された。明治末、開発当時の栽培支柱は、枝をつけた篠竹が使われ、その枝にきゅうりがひげを巻きつけて生育していった。[10]

根元の部分がわずかに緑色で、そのほかの大部分が白色。青胡瓜と比較して柔らかく、特に色白のものが好まれた[11]。   

出典[編集]

  1. ^ 「博物館ノートNo.32 馬込半白節成胡瓜」,『博物館ノートNo1~No50 復刻版』,大田区立郷土博物館編,大田区立郷土博物館,1992
  2. ^ 『江戸の野菜』 野村圭佑,荒川クリーンエイドフォーラム,2005,p74
  3. ^ a b 馬込半白キュウリ江戸東京野菜,JA東京中央会,2017年4月29日閲覧
  4. ^ 『江戸・東京 農業名所めぐり』,JA東京中央会,2002,p142
  5. ^ a b c 「どっこい残っていた馬込の農業~半白きゅうりの波田野さん~」大田区報,1991年8月1日号7ページ
  6. ^ 『江戸・東京 農業名所めぐり』,JA東京中央会,2002,p142
  7. ^ てるーん・ふーらの散歩道JA東京中央,2012年1月,2017年4月29日閲覧
  8. ^ 「博物館ノートNo.32 馬込半白節成胡瓜」,『博物館ノートNo1~No50 復刻版』,大田区立郷土博物館編,大田区立郷土博物館,1992
  9. ^ 『大田区史(資料編)民俗』東京都大田区,1983,p23
  10. ^ 『江戸・東京ゆかりの野菜と花』,JA東京中央会,1992,pp46-47
  11. ^ 『大田区史(資料編)民俗』東京都大田区,1983,p21