利用者:La Bandera Blanca/清露国境紛争

清露国境紛争[1]

アルバジンを包囲する清軍
1652年–1689年
場所黒竜江省アムール州
発端アムール川の制御
結果

清の勝利

衝突した勢力
指揮官
戦力
  • 清:3,000人[2]
  • 李氏朝鮮: 260人
ロシア:2,000人[2]
被害者数
  • 清:約数百人
  • 李氏朝鮮:32人
ロシア:800人[3]
紛争から一世紀後に英国で描かれた地図。主戦場となり紛争後に清領となったチチハル(Tcitcisar)と吉林省(Kirin)を描いている。寧安(Nimguta)は紛争初期において清の水軍の基地となったが、後に吉林(Kiring Ula)に移された。地図上の"Saghalien R."、”Tchikiri R”はそれぞれアムール川とゼヤ川である。アイグン("Saghalien"または"Ula Hotum")は清軍のアルバシン攻略での前線基地であった(アルバシン自体は地図上に描かれていない)。また、"Aihom ruin(e)d"はアムール川左岸の元々のアイグンの場所である。 ネンジャン(Mergenkhotun)チチハル(Tcitcisar) は北満州の主要都市であった。 "Houmar River"はロシア側の記録でのコマール川中国語版であり、ネルチンスク(Nerczinsk)で終戦条約が結ばれた。

 清露国境紛争(1652-1689)は李氏朝鮮の助勢を受けたと、ロシア・ツァーリ国間の断続的な紛争である。ロシアはコサックを用いアムール川北部の係争地を得ようとしたものの、その試みは失敗に終わった。紛争は清軍によるコサックに築かれたアルバジンの包囲(1686)頃に最高潮を迎え、1689年のネルチンスク条約により、清が係争地を手に入れて終戦した。

背景[編集]

 シベリア東南部のスタノヴォイ山脈南部は二度、清露間で争われた。水文学では、北極圏へ流れ込む川と南のアムール川へ流れ込む川はスタノヴォイ山脈により分けられている。生態学的には、この地域はタイガの最東南に位置し、肥沃な地域をいくつか含んでいた。歴史的には、この地域は紀元7世紀頃から中華-満州文化圏の北端であった。数々の中華王朝が、その盛期に領有を主張し、砦を築き朝貢を集めてきた。の奴児干城都指揮使司[4] によりアムール北岸の黒河に砦が築かれ[5]、今日のトィル(ニコラエフスク・ナ・アムーレ上流に位置)である奴児干城に政庁が置かれた。[6]

 ロシアのシベリア征服は1582年のシビル・ハン国攻略により始まり、1643年までにはオホーツクで太平洋へ到達した。ただ、エニセイ川から東には農作に適する土地がほとんど存在せず、唯一の例外であるスタノヴォイ山脈からアムール川に広がるザバイカル地方は名目上清の統治下にあった。[7][8]

 1643年にロシア人探検家がスタノヴォイ山脈を渡ったが、1689年に至るまでに清により退けられた。当時、ザバイカルにはゼヤ川流域にダウール族が9,000人、下流にダッチャー族英語版14,000人、また河口付近にエヴェンキ族ニヴフ族数千が居住していた。また、イヴァン・モスクヴィチンマクシム・ペルフィレブが1640年にザバイカルを発見したとされている。[7][8][9]

1859/60年、この地域はロシア領となり、直ちにロシア人により入植された。

時系列[編集]

1639-1643年:清による征服[編集]

  • 1639年12月-1640年5月:先住民と清間の初の戦闘であるGualarの戦い(ロシア語:селение Гуалар)。清の2連隊に対しBombogor英語版(中国語: 博木博果爾もしくは博穆博果爾)率いるエヴェンキ族ダウール族連合軍の500人の分遣隊[10]が戦った。しかし、他の先住民の頭領であるBardači(中国語:巴爾達齊もしくは巴爾達奇)は中立を貫いた。
  • 1640年9月:二度目の戦闘。ヤクサの戦いで、先住民(ソロン族・エヴェンキ族オロチョン族)とが戦った。
  • 3度目の戦闘。先住民族が清に降伏する。

1643-1644:ヴァシーリー・ポヤルコフの探検[編集]

  • 1643年冬-1644年春:コサックのヴァシーリー・ポヤルコフに率いられたロシア探検隊の一分遣隊により、今日のゼヤ川であるジンキリ川とアムール川流域が探検された。分遣隊はその後、アムール川を下り、オホーツクを北に向かい3年をかけてヤクーツクに帰還した。[7][8][9]

1649-1653:エロフェイ・ハバロフの探検[編集]

  • 1650-1651:エロフェイ・ハバロフは1649年に上アムールへのより良い経路を発見し、直ちにヤクーツクへ戻った後に、当地域を征服するためのより大人数の勢力を要請した。同年に再び上アムールへ向かい、流域で最も北にあるアルバジンに冬営地を築いた。[7][8][9]その後Arbaši(中国語:阿尔巴西)を長とするダウール族の一団を従え、アルバジンに築かれていた砦を占領した。ロシアのシベリア征服では抵抗する先住民に対する虐殺が見られ、コサックにより彼らは厳しい弾圧を受けた。先住民はコサックをその残虐さから仏教の伝承から羅刹と呼んだ。[11]

  

その次の年の夏に、ハバロフはアムール川を下り、今日のハバロフスク近郊と見られているアチャンスクに要塞を築いた。再び先住民と衝突し、清の援軍も要請された。1652年3月24日、海色[12][13]に率いられた、寧安からの600人の満州人兵と1500人のダウール族・Duchers族兵から成る清軍がアチャンスク攻略を試みた。しかし、この試みは失敗に終わり、海色は処刑された。[14]そして解氷後すぐにハバロフは上流へ撤退し、フマルに冬営した。[15]1653年春にDmitry Zinoviev指揮下の増援が到着したものの、口論の結果ハバロフは拘束され、モスクワへ移送された。[7][8][9]

1654-1658:Onufriy Stepanov英語版による征服[編集]

  • 1655年3・4月:フマル包囲
  • 1655年:ツァーリにより”アムール軍指揮官”が設立される。
  • 1657年:第二次シャーホディーの戦い

Onufriy Stepanov英語版は400から500人の兵を率い、抵抗をものともせず略奪を行い、駐屯する清軍に勝利した。清は、これに対し2つの政策をとった。まず、清は先住民に避難を命じ、ロシア人の動機となっていた穀物生産をなくした。そして、松花江河口のNierbo村出身で、経験豊富なサルフダ英語版寧安駐屯兵の指揮官にした。1657年に、彼は吉林で40隻以上の船を建造した。1658年に、サルフダ指揮下の清艦隊がStepanovのもとにたどり着き、彼自身と220人ほどのコサックが殺害された。残りの少数が逃亡し、野盗となった。[7][8][9]

1654-1658:清-朝鮮連合軍による対ロシア遠征[編集]

この遠征では孝宗王率いる強力な朝鮮軍が清側に加わる。またこれは朝鮮史では"나선정벌"(ロシア征服)と呼ばれるようになる。

  • 1654年1月:朝鮮軍部隊が寧安で清軍に合流する。
  • 1654年6月:Hutongの戦い(松花江依蘭近く)ビョング(韓国語:변급、中国語:邊岌)率いる1500人の朝鮮-清連合軍とロシア軍400から500人の戦闘
  • 1658年:漢人造船者によりロシア軍の軍艦に対抗できうる軍艦が建造され、清水軍に利用される。[16]サルフダの艦隊はシン・リュ率いる多数の朝鮮軍を連れ、アムールへ向かい、アルバジンのOnufriy Stepanov英語版の少数の艦隊と戦闘した。この海戦は7月10日に、松花江河口から数キロ離れた場所で行われた。ロシア軍は11隻を失い、生存者は残りのただ一隻に集まった。ステファノブ自身は戦死した。[17]

1658年までには、ネルチンスク以南のロシア人は清により北へ追いやられ、そこには無法者と逃亡コサックが集まった。1660年には、ロシア人入植地の多くは破壊されていた。ただ、清軍は以前の政策で現地農民を退去させていたため、コサックを探し出すことに困難が生じた。1670年代には、清軍はオホーツク沿岸からロシアの影響力を除去しようと、北はマヤ川にまで到達した。[7][8][9]

今日のアムール川流域の地図.ネルチンスクはシルカ川下流に、 アルバジンはアムール北岸に位置する。またクマンスクはやや下流に位置し、ゼヤ川河口にはアイグン、今日のハバロフスクにアチェンスクが位置する。

1665-1689年:アルバジン[編集]

 1665年、リムスクのヴォイヴォダNikifor Chernigovsky英語版により殺害された。[18]彼はアムール川流域へと逃亡し、アルバジン砦を再占領した。そしてアルバジンを中心としてJaxa王国英語版を設けた。1670年の清の攻撃を耐え、1672年に王国はツァーリの恩赦と公的な承認を受けた。また、1673年から1683年にかけて、清は南方での三藩の乱の鎮圧に掛かり切りであった。1682年もしくは1684年に、彼はヴォイヴォダに任命された。[7][8][9]

1685-1687年:アルバジン戦役[編集]

 康熙帝は、トウの盾と剣(藤牌营)で知られ、の後裔・鄭成功の下にいた兵士たちをアルバジンへ送る献策を受けた。康熙帝は彼らの技巧に感銘を受け、林兴珠と何佑の指揮下で500人をアルバジン防衛の任に就かせた。彼らは敗北した際も一人も戦死者を出さず、筏で川を移動しロシア軍を分断した。彼らは戦いにおいて藤牌营しか用いず、裸で戦った。[19][20][21]

  • 1685年5月-7月:アルバジン包囲

 鄭氏政権に仕えていた漢人航海者が清に用いられる。[22]また台湾の元鄭成功の兵士が戦闘に参加した。[23] 彼らの深い海戦経験を買われてのことであった。[24]

  • 1686年7月-11月:第二次アルバジン包囲
Marquis Linに従い、従軍したYang Hai-Chaiはこう記した。 "ロシア軍の増援が川で砦へと向かって来ていたため、Marquis Linは水兵皆に服を脱ぎ川に飛び込むよう命じた。皆は頭にトウの盾をかぶり、大剣を握って敵に向かって泳いだ。ロシア人は慄き、口々に「ああ、大帽のタタール人どもよ!」と叫んだ。我らが水兵は水に潜っていたから、奴らは銃を使えなかったし、盾を被っていたから弾や矢も防げた。水兵は長剣で敵の足首を切り付け、川に落ちたロシア人は死ぬか、さもなければ重症を負った。残りは敗走した。そしてLin Hsing-chuは水兵を失わず、包囲を始めた。"

[25]

 ロシア兵のほとんどはネルチンスクへ敗走したものの、少数は清に寝返り、北京駐屯の"阿爾巴津人"と呼ばれる部隊が発足した。その後、清の撤退後に、Aleksei Tolbuzin指揮下のロシア軍800人が再び訪れ、砦を占領した。(ただ彼らの当初の目的は、穀物ーシベリアのこの地域での希少品ーをこの地域で栽培することであった。)

 同年6月に砦は再び包囲された。同年12月に和平条約の知らせが届き包囲が解かれたとも[26]、18か月後砦は破られTolbuzinは殺害されたとも[27]されているが、包囲が終わった時、砦には兵士は100人も残っていなかった。

講和条約[編集]

1860年代のアムール川流域
17~19世紀での清露国境の変化

1689年にネルチンスク条約が結ばれ、ロシアはアルバジンを含むアムール川流域全体を放棄し、国境はアルグン川スタノヴォイ山脈とされた。1727年のキャフタ条約により、この国境が確定し、清露貿易についての取り決めがなされた。

アルバジン陥落からほぼ2世紀後の1858年に、アイグン条約によりスタノヴォイ山脈からアムール川まで(プリアムール)がロシア領となった。また、1860年、北京条約によりロシアは17世紀には争われていなかった沿海地方までもを得た。

関連項目[編集]

出典[編集]

  1. ^ Wurm 1996, p. 828.
  2. ^ a b CJ. Peers, Late Imperial Chinese Armies 1520-1840, 33
  3. ^ China Marches West: The Qing Conquest of Central Eurasia By Peter C. Perdue Published by Harvard University Press, 2005
  4. ^ L. Carrington Godrich, Chaoying Fang (editors), "Dictionary of Ming Biography, 1368–1644". Volume I (A-L). Columbia University Press, 1976. ISBN 0-231-03801-1
  5. ^ Du Halde, Jean-Baptiste (1735). Description géographique, historique, chronologique, politique et physique de l'empire de la Chine et de la Tartarie chinoise. Volume IV. Paris: P.G. Lemercier. pp. 15–16. http://web2.bium.univ-paris5.fr/livanc/?cote=00992x04&do=chapitre 
  6. ^ Li, Gertraude Roth (2002). “State Building before 1644”. In Peterson, Willard J.. The Ch'ing Empire to 1800. Cambridge History of China. 9. Cambridge University Press. p. 14. ISBN 978-0-521-24334-6 
  7. ^ a b c d e f g h Forsyth, James (1994). A History of the Peoples of Siberia: Russia's North Asian Colony 1581-1990. Cambridge University Press. ISBN 0-521-47771-9. https://books.google.com/books?id=nzhq85nPrdsC  引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "Forsyth2"が異なる内容で複数回定義されています
  8. ^ a b c d e f g h Lincoln, W. Bruce (2007 (earlier edition, 1994)). The Conquest of a Continent: Siberia and the Russians. Cornell University Press. ISBN 0-8014-8922-9. https://books.google.com/books?id=a7JrTvgU4yMC  引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "lincoln"が異なる内容で複数回定義されています
  9. ^ a b c d e f g G. Patrick March, Eastern Destiny: the Russians in Asia and the North Pacific, 1996.
  10. ^ А.М.Пастухов (A.M. Pastukhov) К вопросу о характере укреплений поселков приамурских племен середины XVII века и значении нанайского термина «гасян»
  11. ^ Kang 2013 Archived 2014-05-23 at the Wayback Machine., p. 1.
  12. ^ Gong, Shuduo; Liu, Delin (2007). 图说清. 知書房出版集團. p. 66. ISBN 986-7151-64-X. https://books.google.com/books?id=5XzTXqTwECcC 
  13. ^ Август 1652 г. Из отписки приказного человека Е.П. Хабарова якутскому воеводе Д.А. Францбекову о походе по р. Амуру. Archived 2011-10-04 at the Wayback Machine.
  14. ^ Hummel, Arthur William (1970). Eminent Chinese of the Ch'ing period (1644-1912), vol. 2. Ch'eng Wen Publishing Co.. p. 632. https://books.google.com/books?id=Hs8LhXwRqPgC. "Haise was executed for this disgrace"  "SARHUDA" article.
  15. ^ Оксана ГАЙНУТДИНОВА (Oksana Gainutdinova) Загадка Ачанского городка Archived 2007-08-13 at the Wayback Machine.
  16. ^ Kang 2013 Archived 2014-05-23 at the Wayback Machine., p. 17.
  17. ^ A.M. Pastukhov, "Корейская пехотная тактика самсу в XVII веке и проблема участия корейских войск в Амурских походах маньчжурской армии
  18. ^ Ravenstein, The Russians on the Amur, 1860(sic), Google Books
  19. ^ Robert H. Felsing (1979). The Heritage of Han: The Gelaohui and the 1911 Revolution in Sichuan. University of Iowa.. p. 18. https://books.google.com/books?ei=XC-KU--0JKPKsQTR5IDgBg&id=EsO3AAAAIAAJ&dq=The+most+implausible+component+of+the+account%2C+the+episode+in+which+the+emperor+calls+upon+Ming+loyalists+to+defend+the+Qing+dynasty+and+they+handily+defeat+barbarian+interlopers%2C+actually+happened.+In+l684%2C+a+Chinese+special+troop+unit+composed+of+men+who+had+once+served+under+Zheng+Chenggong+defeated+a+Russian+force+that+had+encroached+upon+Chinese+soil+at+Albazin.+The+Kangxi+emperor+himself+had+ordered+the+recruitment+of+Zheng+Chenggong%27+s+men+after+witnessing+a+demonstration+of+their+skills+with+the+long+sword+and+impenetrable+l2+rattan+shields.+The+force+of+approximately+500+former+Ming+troops+beat+the+Russians+in+a+river+battle+without+suffering+a+single+l3+casualty.+The+inclusion+of+this+historically+verifiable+event+in+the+founding+tradition+of+the+Hongmen+strongly+suggests+that+the&focus=searchwithinvolume&q=Chenggong+Albazin 
  20. ^ Louise Lux (1998). The Unsullied Dynasty & the Kʻang-hsi Emperor. Mark One Printing. p. 270. https://books.google.com/books?ei=Iy-KU6CNIc_lsASGpIHIDA&id=IfxVAAAAYAAJ&dq=On+the+river+side%2C+Russian+reinforcements+—+as+few+as+40+or+as+many+as+500+—+attempted+to+reach+the+fort+on+rafts%2C+but+the+rattan+marines%2C+stripped+naked+except+for+head+shields+and+armed+with+swords%2C+cut+them+1.+According+to+the+Chinese%2C+they+were+3500+strong%2C+500+of+these+the+rattan-shield+experts+who+had+surrendered+at+Formosa+and+were+led+by+the+former+Wu+general%2C+Lin+Hsing-chu%2C+and+the+former+Koxinga+loyalist%2C+Ho+Yu.&focus=searchwithinvolume&q=rattan+marines+stripped 
  21. ^ Mark Mancall (1971). Russia and China: their diplomatic relations to 1728. Harvard University Press. p. 338. https://books.google.com/books?ei=6gG5UpnkD9LJsQTcyYBA&id=UEduAAAAMAAJ&dq=He+recommended+sending%2C+instead%2C+surrendered+officers+and+soldiers+from+Fukien%2C+who+were+skilled+in+the+use+of+rattan+shields+and+were+now+settled+in+the+eight+banners+in+such+places+as+Shantung%2C+Shansi%2C+and+Honan.+Five+hundred+of+these+...&focus=searchwithinvolume&q=rattan+shields 
  22. ^ R. G. Grant (2005). Battle: A Visual Journey Through 5,000 Years of Combat. DK Pub.. p. 179. ISBN 978-0-7566-1360-0. https://books.google.com/books?id=Gb8qAQAAMAAJ&focus=searchwithinvolume&q=Albazin+Kangxi+had+a+substantial+force+sent+to+attack+the+outpost.+This+included+some+of+the+Zhengs%27+followers+recently+defeated+in+Taiwan%2C+who+supplied+valuable+naval+expertise+for+navigating+the+northern+rivers 
  23. ^ Jonathan D. Spence (1991). The Search for Modern China. Norton. pp. 56–. ISBN 978-0-393-30780-1. https://books.google.com/books?id=vI1RRslLNSwC&pg=PA56#v=onepage&q&f=false 
  24. ^ Settling Siberia: Nerchinsk, 1689”. The World of Chinese (2016年9月6日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  25. ^ Lo-shu Fu (1966). A Documentary Chronicle of Sino-Western Relations, 1644-1820: Translated texts. the Association for Asian Studies by the University of Arizona Press. p. 80. https://books.google.com/books?id=VuXoAAAAIAAJ&q=Lo-Shu+Fu,+A+Documentary+Chronicle+of+Sino-western+Relations&dq=Lo-Shu+Fu,+A+Documentary+Chronicle+of+Sino-western+Relations&hl=en&sa=X&ei=ugSKVYGKLYvj-QG-moGYCQ&ved=0CB4Q6AEwAA 
  26. ^ March, chapter 5
  27. ^ John J. Stephen, The Russian Far East, 1994,page 31

出典本

1. Page 133 -152 China Marches West: The Qing Conquest of Central Eurasia By Peter C. Perdue Published by Harvard University Press, 2005

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