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有島暁子(ありしまあきこ、1901年明治44年)8月22日 - 1982年昭和57年)7月5日)は著述家、教育従事者。

生涯

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生い立ち

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有島暁子は1901年明治44年)8月22日、父有島生馬と母信子の長女として東京都千代田区麹町六番町で生まれた[1]

1918年(大正7年)、雙葉小学校に入学。1920年(大正9年)、鎌倉市稲村ヶ崎に転居、休学。1921年(大正10年)12月、同町内の「松の屋敷」に転居[2]。1923年(大正12年)、関東大震災を機に番町の屋敷に戻り、復学するまでの期間は父生馬からフランス語、母信子から国語と地理、歴史を学び、数学は家庭教師についた[3]。1928年(昭和3年)、雙葉高等女学校(現・雙葉高等学校)を卒業した。

結婚

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一時期結婚していたことがあり、相手は某男爵令息と推測されることや、川崎守之助と推測されることもある[4][5]

洗礼

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1944年(昭和19年)に洗礼を受ける。洗礼名はマリア・シャンタル・ヨハンナ有島暁子。[6]

通訳者・教育者として

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1947年(昭和22年)、ベルギー大使館に勤務する。

1957年(昭和32年)に文化使節として来日したフランスの哲学者ガブリエル・マルセルの秘書を務める。

1957年(昭和32年)より上智大学が女子学生の入学を許可して男女共学となり、暁子は1958年(昭和33年)に女子学生指導官として着任する。

1967年(昭和42年)に上智大学を退職する。

永眠

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1982年(昭和57年)1月に順天堂大学医学部附属順天堂医院に入院し、3月に退院するが、6月に容体が急変し、鎌倉道躰病院に入院した。7月5日に永眠し、材木座霊園に埋葬された。

著作・評伝

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単著

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『有島暁子著作集』中央出版社、1971年10月

『松の屋敷 有島暁子著作集』かまくら春秋社、1983年7月、没後に出版

翻訳

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『母にきく天主様のお話』ドン・ボスコ社、1953年11月

評伝

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有島暁子記念出版会編『愛の道 ――有島暁子の生涯』みくに書房、1986年7月

  1. ^ 宇野恭子「太陽のごとく――有島暁子さんの生涯――」『愛の道――有島暁子の生涯』みくに書房、7月5日 1986、12頁。 
  2. ^ 有島暁子『松の屋敷 有島暁子遺稿集』かまくら春秋社、1983年7月2日、22頁。 
  3. ^ 有島暁子『松の屋敷 有島暁子遺稿集』かまくら春秋社、1983年7月2日、12-13頁。 
  4. ^ 有島暁子記念出版会 編『愛の道――有島暁子の生涯――』みくに書房、7月5日 1986、192頁。 
  5. ^ 人事興信所 編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年、カ171頁。 
  6. ^ 有島暁子記念出版会 編『愛の道――有島暁子の生涯――』みくに書房、7月5日 1986、193頁。