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利用者:Lequios-star/読谷補助飛行場

'読谷補助飛行場は、沖縄県読谷村にあった米軍基地。1943(昭和18)年に建設が始まった陸軍沖縄北飛行場に由来する。1996(平成4)年に始まった日本政府との交渉の結果、2006(平成18)年に全面返還された。今日では、読谷村役場や運動施設、中学校、農業用地として跡地利用が進んでいる。[1]

歴史[編集]

第二次世界大戦中に米軍が建設した飛行場

読谷飛行場はもともと1943(昭和18)年、日本帝国陸軍沖縄北飛行場として建設が始まった。滑走路3本を持ち、日本軍によって建設された県内の飛行場でも伊江島飛行場に並んで大規模なものであった。1945(昭和20)年4月1日、飛行場の西にある海岸から米軍が上陸を開始、その日のうちに米軍によって占領された(沖縄戦の項を参照)。米軍は飛行場を修理、読谷飛行場として運用を開始した。
米軍は読谷飛行場を日本本土の爆撃の拠点の一つとして整備を進め、実際に南西諸島や九州への航空作戦のために使われた。

読谷飛行場では、米軍によって日本軍のロケット推進航空機横須賀MXY-7"桜花"が発見されている。桜花は自力では離陸せず、三菱G4M "ベティ"や横須賀P1Y "銀河"Frances"、中島G8N連山(計画のみ)爆撃機によって運ばれ、目標に接近すると自身のロケットエンジンで飛行する。

読谷飛行場に展開した航空部隊[編集]

アメリカ陸軍航空軍(USAAF)[編集]

アメリカ海軍(USN)、アメリカ海兵隊(USMC)[編集]

沖縄戦中、読谷飛行場で撮影された米海兵隊VMF-311のF4Uコルセア戦闘機。

また、アメリカ陸軍航空軍の他に、海軍と海兵隊の飛行隊も読谷飛行場を使用しており、F4UコルセアPBYカリタナF6Fヘルキャットなどが拠点としていた。

読谷補助飛行場として[編集]

第二次世界大戦が終わった1947(昭和22)年の時点では、読谷飛行場を拠点とする部隊は無く、1950年代中ごろまでは嘉手納飛行場の補助飛行場として位置づけられた。

1948(昭和23)年6月には、航空管制通信部隊(170th Airway and Air Communications Service, AACS)が読谷に移駐、沖縄のアメリカ空軍に対して航空管制通信の支援任務を開始した。(部隊は後に1962AACSに改称、1955年2月18日に嘉手納に移動)

1950年代の時点では、大型化・ジェット化が進んだ空軍航空機の運用には読谷飛行場は適さないとして、代わりにパラシュート降下訓練施設として使われるようになった。その頃は、一部の管理エリアを除いて民間地と飛行場を隔てるフェンスなどは設置されておらず、周辺の地域住民が飛行場内で耕作をすることも、アメリカ空軍は黙認していた(もっとも、村の大部分が米軍基地に接収され、農耕地を失った住民が困窮する状態に陥っていたのが背景にある)。以降、飛行場ではパラシュート訓練が行われるようになったが、降下した物資が周辺の集落や農耕地に誤って落下するという事故も相次ぐようになった[2][3] 。特に1965(昭和40)年6月11日には、投下した車両が風に流されて集落に落下、10歳の少女が下敷きになって死亡する事故が発生している。[4][5]

1972(昭和47)に沖縄が日本に復帰すると、日本政府は在日米軍の要求に基づき、読谷補助飛行場(FAC6027)として米軍への提供を継続した[6][どうやって?]

1976(昭和51)年の第16回日米安全保障協議委員会では飛行場の東側250.78エーカーの返還が決定、1977(昭和52)年5月14日に0.48エーカー、5月31日に0.19エーカー、1978(昭和53)年4月30日に250.11エーカーが返還された。残り約191エーカーは1978年7月27日にアメリカ空軍第5空軍から在沖米国艦隊活動司令部(COMFLEACTS Okinawa)に移管された。さらに、1980(昭和55)年9月には読谷補助飛行場の管理が在沖米国艦隊活動司令部から米海兵隊のキャンプ・バトラーに移管された。

読谷補助飛行場での最後のパラシュート訓練は1996(平成4)年7月19日である。SACO最終報告書では、訓練を伊江島補助飛行場(FAC6005)に移転し、読谷補助飛行場は同村にある楚辺通信施設(通称「像の檻」)の通信活動の緩衝地帯として使われることになった。楚辺通信施設がキャンプ・ハンセンに移設後、読谷補助飛行場は2006(平成14)年に完全返還された。

参考文献[編集]

  1. ^ http://www.vill.yomitan.okinawa.jp/
  2. ^ Productions, Buddhahead. “List of Crimes Against Okinawans Committed by the United States Military”. www.uchinanchu.org. 2018年8月26日閲覧。
  3. ^ Hook, Glenn D.; Mason, Ra; O'Shea, Paul (2015-05-20) (英語). Regional Risk and Security in Japan: Whither the everyday. Routledge. ISBN 9781317584865. https://books.google.pt/books?id=wewjCQAAQBAJ&pg=PA170&lpg=PA170&dq=okinawa+yomitan+august+1950&source=bl&ots=AiOeRL4Jnh&sig=a9wCNAhOX9a2OSMY1LnevUD_65I&hl=fr&sa=X&ved=2ahUKEwjKlKas6IvdAhVQXRoKHcdfANcQ6AEwAnoECAgQAQ#v=onepage&q=okinawa%20yomitan%20august%201950&f=false 
  4. ^ “Yomitan airfield to be returned to families of original owners”. Stars and Stripes. https://www.stripes.com/news/yomitan-airfield-to-be-returned-to-families-of-original-owners-1.50986 2018年8月26日閲覧。 
  5. ^ Kawato, Yuko (2015-04-08) (英語). Protests Against U.S. Military Base Policy in Asia: Persuasion and Its Limits. Stanford University Press. ISBN 9780804795388. https://books.google.pt/books?id=bnbeBgAAQBAJ&pg=PA55&lpg=PA55&dq=yomitan+june+1965&source=bl&ots=TTMRIYssm3&sig=m8To-31y_RQGB7n482ca__NfmP0&hl=fr&sa=X&ved=2ahUKEwjk6JXK6IvdAhWJyoUKHVaIBkIQ6AEwDXoECAEQAQ#v=onepage&q=yomitan%20june%201965&f=false 
  6. ^ Minutes of the 251st Meeting, Joint Committee established by Article XXV of the Status of Forces Agreement (PDF). Ministry of Foreign Affairs, Government of Japan, 15 May 1972, pp. 82-84.

関連項目[編集]

外部リンク[編集]