利用者:Lmkjgmo/sandbox4
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ビザンティオンのアレクサンドロス(ギリシャ語: Ἀλέξανδρος; 238年 - 337年)は、ビザンティオン(1453年以後はイスタンブール)を管轄するキリスト教会の主教[1]。コンスタンティノポリスのアレクサンドロスとも呼ばれる。
略歴[編集]
1世紀後半から間歇的にキリスト教を迫害して来たローマ帝国がキリスト教を公認してから24年後に当たる337年に98歳で死去したビザンティオンのアレクサンドロスが正統派のキリスト教徒として生きたほぼ100年間は、ローマ帝国におけるキリスト教会をめぐる状況が大きく変わった時代だった。
313年のいわゆる「ミラノ勅令」によって、それまでの迫害者ローマ帝国が一転してキリスト教を公認する一方、異教徒であるコンスタンティヌス大帝がキリスト教会内の異端問題収束を意図して、いわゆる第1ニカイア公会議を招集し、アレイオスの破門を決議する。330年のローマ帝国の遷都を画期として、ビザンティオンの主教だったアレクサンドロスはローマ帝国首都教会の主教となり、遷都の前後を合わせると任期23年間に及んだ。在位中にビザンティオンがローマ帝国の新首都となり、5世紀か6世紀ごろから首都がコンスタンティノポリスとよばれるようになったため、ビザンティオンのアレクサンドロスは後世、コンスタンティノポリスの初代主教とされる。
人物[編集]
正統派キリスト教内で人望があった。異端者アレイオスの首都帰還の際、ビザンティオンのアレクサンドロスの神への祈りが、アレイオス首都路上における急死を招いたという伝説が知られる。
略年譜[編集]
- 238年、ビザンティオンのアレクサンドロス生まれる。
- 256年頃、後に異端とされるアレイオス(アリウス)生まれる。
- 272年頃、後の大帝コンスタンティヌス生まれる。
- 295年頃、後世、教会博士の一人とされる大アタナシオス生まれる。
- 313年、コンスタンティヌス大帝(当時は西方正帝)、ミラノ勅令。キリスト教を公認。
- 314年、ビザンティオンのアレクサンドロス、ビザンティオンの主教になる。
- 325年、コンスタンティヌス大帝の招集によってニカイア公会議開かれる。ビザンティオンのアレクサンドロスも主教として出席。アレクサンドリア主教アレクサンドロスの秘書アタナシオスも参加。議論の結果、アレイオス、破門・流罪となる。
- 328年、アレイオス、コンスタンティヌス大帝に赦されて流刑地から帰還。
- 330年、遷都。ビザンティオンのアレクサンドロス、首都の総主教となる。
- 336年、アレイオスが首都の路上で急死。
- 337年、アレイオスの死からほどなくして、ビザンティオンのアレクサンドロス死去。享年98歳[2]。
- 337年5月、コンスタンティヌス大帝、臨終の際にアレイオス派の司教から受洗して死去。
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ビザンティオンのアレクサンドロス(左)