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利用者:Mahopa/覚書

以下は下書き2を記述するための覚え書き。

参考文献[編集]

明治教授理論史研究[編集]

稲垣忠彦『明治教授理論史研究』評論社、1966年。 

  • "「開発主義」教授理論"を用いる。
  • 以下同書P51-P54から引用
第三章 「開発主義」教授理論の理論的系譜

教授内容の公的基準として、当時の政策的文脈のなかで制定された「小学校教則綱領」と近代の教育理論にもとづく「開発主義」との結合の過程の検討が本章の課題である。はじめに、(一)「開発主義」の源流であるペスタロッチーの直観教授の意義と、(二)「開発主義」教授理論の直接的原型であるジェームス・ジョホノットの教授理論の検討をおこない、「開発主義」の源流および原型としての理論が近代教授理論史においていかなる特質と意義を有するものであるかをたずね、ついで、(三)東京師範学校附属小学校の「教則」の変化を手掛りとして、ジョホノットの教授理論を原型とする「開発主義」が、「教則綱領」と結合することによって、その理論的性格を変える過程をたどる。「開発主義」の理論的系譜を明らかにすることによって、第四章における「開発主義」教授理論自体の分析の前提としたい。

ペスタロッチー主義にもとづく教授方法のわが国への導入は次の三つの時期に区分される[† 1]

第一は、明治五年九月からはじめられた東京師範学校での、スコット(Scott,M.M. 1843-1922)による一斉教授法の導入である。それは、従来の寺子屋における個別的教授形態とことなり、多数の生徒に対し、同時に一定の教材を与え教授をおこなうという形態であり、その具体的な様態は諸葛信澄「小学教師必携」(明治六年)、筑摩県師範学校編「上下小学教授法細記」(明治七年)等によってみることができる。「学制」によって成立した学校に、この授業形態は東京師範学校をセンターとして伝達されていった。急速な普及の要請にもとづく速成的伝習形式において、また教授法書の内容において、外形的な形式の伝達という性格を強く示している[† 2]。スコットによって導入された一斉教授法において、すでに実物教授法の考え方をみとめることができる。それは、東京師範学校制定の「小学教則」の「問答」科においてみとめられる。実物によって「人ノ常ニ用フル物品ノ名、或ハ其用ヰ方、或ハ其成リ立チタル性質等ヲ問答スル」[† 3]ものであり、文字の学習から事物に即しての学習への転換という意義を有している。しかし、この方法は、一般には、「『読物』で授けた教科書についての記憶をたしかめるための発問応答として解釈され、まったく暗記注入の一便法と化した」[† 4]とされている。

第二は、明治十年頃に刊行された翻訳書による「庶物指教」の紹介である。主要なものとしては、黒沢寿任の訳になるカルキンズ(Cakkins,N.A. 1822-1895)の「加爾均氏庶物指教」[† 5](明治十年)と永田健助・関藤成緒の訳になるシェルドン(Sheldon,E.A. 1823-1897)の「塞児敦氏庶物指教」[† 6](明治十一年)である。いずれも文部省から刊行されている。シェルドンはオスウィーゴー師範学校長であり、オスウィーゴー運動の指導者である。これらの著書によって、オスウィーゴーにおけるペスタロッチー主義の教授法が紹介されるのであるが、その全体への影響力は顕著ではない。むしろ「単語図」を用いておこなう授業の解説をなした教授方法書によって、庶物指教の考え方が普及したものとみられている[† 7]。ここでも、教授理論としてではなく、教授の技術としての普及、浸透が中心であった。

第三は、明治十一年四月、米国から帰国した高嶺秀夫を中心として東京師範学校において導入され、そこでの実践をへて発展した「開発主義」である。明治八年「師範学科取調ノ為」、伊沢修二、神津専三郎とともにアメリカに派遣された高嶺は、オスウィーゴー師範学校に学び[† 8]、そこでアメリカにおけるペスタロッチー主義の教育思想と方法を吸収する。その高嶺および伊沢により、東京師範学校の改革がすすめられる。「開発主義」は、そこで展開する。スコットにおける形式としての導入、「庶物指教」における翻訳としての紹介、および技術の解説としての導入とことなり、「開発主義」は、高嶺によって学びとられた理論にもとづき、高嶺という指導者をもち、しかも、東京師範学校、および付属小学校という実践検討の場を有するという理論性と組織性の二つの条件において、ペスタロッチー主義のはじめての本格的な導入であったとみることができる。

本章でとりあげるのは、第三の「開発主義」である。それが広く現実に普及したのは十年代後半以降、二十年代はじめにかけてであり、とくに、「改正教授術」等の教授法書によってであった。そして、この時期の教授実践は、「教則綱領」(明治十年からは『小学校ノ学科及其程度』)という公的な教授内容の規定をうけており、「開発主義」も、かかる規定を前提とする理論および方法であった。

高嶺によって導入された、ペスタロッチー主義に発する近代の教授理論としての「開発主義」が、いかなる理論的性格のものであり、「教則綱領」との関連において、いかなる理論的特質をもっているのかを追求したい。その目的から、本章では開発主義の理論的系譜として、ペスタロッチー、ジョホノットにおける教授理論の特質を検討し、東京師範学校付属小学校におけるその導入を「教則綱領」との関連に注目して検討する。

  1. ^ 従来の研究のうち、参考とした主要なものをあげておく。吉田熊次「本邦教育史概説」(大正十一年)、同「教育方法論」(昭和十七年)、伏見猛弥「我国に於ける直観教授・郷土教育及合科教授」(昭和十年)、川合章「教育法史」(「教育文化史大系」第二巻所収 昭和二十九年)、開国百年記年文化事業会編「明治文化史」第三巻 教育・道徳篇(昭和三十年)、同会編「日米文化交流史」第三巻、宗教・教育篇(昭和三十一年)、五十嵐清止他「明治初期における教授法研究の発展」(東京学芸大学昭和二十九年度特別報告)、佐藤秀夫「明治前半期におけるペスタロッチ主義教育」(東京大学大学院、昭和三十五年度修士論文)、同「近代教育の発足」(岩波講座「現代教育学」第五巻、昭和三十七年)。
  2. ^ 第一部第四章、p.98-99 参照
  3. ^ 諸葛信澄「小学教師必携」十一丁。
  4. ^ 佐藤秀夫「近代教育の発足」p.53.
  5. ^ Calkins,N.A.:Primary Object Lessons,1861.
  6. ^ Sheldon,E.A.:Lessons on Objects,1863.
  7. ^ 開国百年記念文化事業会編「日本文化交渉史」第三巻 p.373.
  8. ^ 伊沢は、マサチューセッツ州のブリッジウォーター師範学校に、神津は、ニューヨーク州のオルバニー師範学校に入学した。いずれもペスタロッチー主義にもとづく理論、方法の研究を推進していた学校として著名である。

日本近代教育百年史[編集]

国立教育研究所編『日本近代教育百年史』国立教育研究所〈第3巻 学校教育1〉、1974年。 

  • 主に"開発教授"を用いる。
  • 以下同書P575-P591から引用

2 新教授法の実践-庶物指教と問答科の導入を中心として-

師範学校が定めた下等小学教則の中に、「問答」という名の新教科が導入されたことはすでにのべた。これはわが国教育課程史の上で画期的な事柄といわねばならない。「問答」とは一体何であろうか。一八七五年十二月出版の金子尚政訳・高橋啓十郎編『小学授業必携』の序によれば、「此書原本ハ千八百七十一年鏤板米人何爾京氏著ス所ノ『ニユー・プライメリー・ヲブジエクト・レススン』(物体教授ト訳ス)ト題セル泰西小学授業ノ方法ヲ戴スル書ニシテ東京師範学校ノ創業ニ際シ此書ヲ以テ授業ノ範則ト為セリ故ニ目今皇国小学普通ノ授業方ハ皆茲ニ基セリ」とある。東京師範学校は明治五年九月(旧暦)授業を開始するが、そのとき南校より迎えられて師範学校の教師となったのがスコットで、書籍器械その他いっさいを米国より取りよせたのはすでに述べた如くである。したがってスコットがカルキンのニュー・プライメリー・オブジェクト・レッスン(N.A. Calkins, New Primary Object Lessons, 1871)を師範学校に持ちこみ、坪井玄道を通訳としてこれを講じ、この本を「授業ノ範則」の一つとしたと考えられる。これは重大な事実であって、金子のいわゆる「物体教授」すなわち庶物指教がわが国教育界に初めて輸入されたことになる。もっとも『小学授業必携』はカルキンの庶物指教の全訳ではなく、「此書ノ順序ハ一ニ東京師範学校頒布ノ小学教則ニ基ク」もので、カルキンの原本を根拠としながら、その内容は人体部分、色図、通常物、地球儀などについて師範学校小学教則に示された「問答」の指導法を示したものであった。したがって師範学校小学教則の「問答」は、カルキンの庶物指教が「授業ノ範則」となって導かれたものであることは間違いない事実であろう。

庶物指教(Object Lessons)とはいうまでもなくペスタロッチの直観教授の理論に基づくもので、当時のアメリカの師範学校で流行を極めていた。アメリカにおけるペスタロッチ運動の中心は、前述のシエルドン校長に率いられたオスウイーゴー師範学校で、彼の名著『小学校授業書』(A Manual of Elementary Instruction, 1862)、詳しくは『子どもの感覚を練り能力を伸ばす学年別庶物指教を収めた公私立学校および師範学校のための小学校教授書』は、「開発教授」の名のもとに、

  • 以下同書P1029-P1051から引用
三 教授の実態

1 庶物指教から開発教授へ

一八七二年十月、東京師範学校の授業開始にあたり、米人スコットがカルキンの「ニュー・プライメリー・ヲブジェクト・レッスン」を「授業ノ範則」としたことはすでにのべた。金子尚政はこれを「物体教授」と訳しているが、object lessons すなわち庶物指教はこのとき初めてわが国教育界に導入されたと云ってよい。庶物指教はペスタロッチーの直観教授の理論に基づくもので、具体的事物によって授業をすすめ、万物についての真の理解を児童にもたらそうとする近代教授法であった。このような庶物指教はとくに「問答」という名の新教科において実施に移されたが、東京師範学校初代の校長諸葛信澄は一八七三(明治六年)十二月、『小学教師必携』を著わし、「問答」という名の新教科を含めたあらゆる教科について、このような新しい教授法の雛型を示したので、この書はその後長く小学教授書の範として全国に流布した。ここでの教授法は実際の教授にあたり、実物を用いて児童の理解を確実にしようとしたことはたしかであるが、同時に多くの掛図類-単語図、連語図、形体線度図、色図などを作成し、これを児童に示しながら、問答をくりかえしてゆくという授業方式がむしろ大部分を占めていたと云ってよい。この掛図類も米国のそれに模して作成したものであるが、東京師範学校を初め、これを範とした全国の小学校の授業方式は、実物というよりはむしろ掛図による間接経験に頼り、わかりきった紋切型の内容をくりかえし、かつそれを暗誦するという授業になってしまったきらいがあった。このような現象は庶物指教本来の目的から大きく逸脱したといわねばならない。文部大書記官西村茂樹などは、一八七七年の学区巡視功程の中でこの点を鋭く批判し、むしろこのような問答は廃止し、真の意味のオブジェクト・レッスンにたち返るべきであるとのべていた。

近代日本教員養成史研究[編集]

水原克敏『近代日本教員養成史研究 -教育者精神主義の確立過程-』風間書房、1990年。ISBN 4-7599-0751-3 

  • 事項索引では"開発主義"とするが、本文中では"開発主義教育理論"が多い。以下同書から引用。
p185. 開発主義教育論を基盤にした教育学書を数冊も著作している和久正辰が、「怠惰ニ流ルル」生徒に対面した時、従来の教育方針に疑問を感じ、改革に至ったことは前述の通りであるが、伊沢・高嶺らの影響が全く無かったとみることはできないであろう。

p304. 第四は、長野県師範学校の事例で、宮城師範学校と同じようにジョホノットなどの開発主義教育理論に依ってはいるが唱歌教育による徳育の重視などの特徴が見られる。

p309. 当時の開発主義の教育理論をよく反映した科目であるが、宮城師範学校の場合、地学総論から本県地誌・日本地誌・万国地誌そして地文に至る教育内容で、教科書は『宮城県地誌提要』『日本地誌要略』『暗射地球全図』『日本暗射地図』『暗射宮城県全図』である。

p309. 地理は、小学校で教育すべき教科書・教材・教具等を使用して、その知識を習得せしめ、教材・教具等の使用方法までも教育されていたことが推察される。開発主義教育理論が最も力を入れていた学科のひとつであっただけに、その内容は、他学科に比して著しく小学校教育に接近したものとなっている。

p315. 第二に、教育内容の全体的性格として、政策の儒教主義的展開と教育学における開発主義教育理論の発達とを受けて、修身・歴史・地理・博物などにその影響の顕著であることが認められた。

p315. また、開発主義教授方法の研究が進んでいた科目、特に地理では、その内容から見て、「地理科教授法」教育の機能を担っていたことが認められた。

p323. 本節では、全国で最初に改正し、かつ大綱に沿って模範的改正をした(一)熊本師範学校について分析し、次いで「理学」(生物・博物・物理・化学・幾何・代数)など新知識重視の(二)福島師範学校と茨城師範学校について、そして開発主義教育理論を背景とした(三)宮城師範学校と(四)長野県師範学校について、その学科課程を分析する。

p338. (引用者注:1887年(明治20年)7月出版の和久正辰著『教育学講義』について、)諸能力の調和的発達と自然の順序の重視は、ペスタロッチーの教育思想を系譜を継承した論であり、当時の開発主義のそれと一致する。

p342. (引用者注:長野県師範学校の教則及び学科課程の特徴点について、)特徴の第二点は、「理学」を中心として、開発主義教授法による教育が、導入されていることである。

p347-p348.p353-354. (引用者注:長野県師範学校長能勢栄の教育理論について、)ところで、智育では、従来の注入主義と暗誦主義とが批判され、実物教授法による開発主義が説明されているが、興味深いのは、徳育の位置づけの仕方である。(中略)能勢が、長野県師範学校で自らバイオリンを奏して唱歌を教えていたことは良く知られているが、唱歌の教育は、知・徳・体の徳育として重視する論が展開されている。「徳育ノ要ハ人ノ身ヲ修メ行ヲ正フセシムルモノナレバ、先哲ノ嘉言善行ヨリ道徳ノ理ヲ教フルハ勿論ナレドモ、人ノ心情ハ聖賢ノ言ヲ誦シ心理ノ意ヲ悟リ、直チニ過ヲ改メ善ニ移ルモノニアラズ。人ノ過ヲ改メ行ヲ正フスルハ、真実其心中ニ感動シテ措クアタハザルヨリ之ヲ服膺実行スルニ至ルナリ、此心情ヲ感動スルノ目的ヲ達セントスルニハ、唱歌音楽ヲ舎キ他ニ求ムベキモノナシ」と論じ、当時の「教学大旨」等第二次教育令下の儒教主義的徳育のあり方に対して一定の批判的見解を展開しつつ、開発主義的観点からの徳育が主張されている。(中略)さらに「今学校ニ於テ唱歌ノ科ヲ設ケ、幼児ノ知慮好悪未ダ定マラザル時ニ、其心情ノ外物ニ誘ハレテ発動スルヲ防ギ、至善至良ノ歌曲ヲ教ヘ以テ心裏ヲ薫陶シ徳性ヲ涵養シ、温良方正ノ風儀ヲ惹起スレバ、他日真正ノ良民トナリ各自ノ義務ヲ尽シ、社会ノ平和ヲ維持スル事ヲ得ルニ至ルベシ」と論じ、善良の歌曲に接することによって、自然の結果として正しい風儀そして良民ひいては社会の平和がもたらされるという開発主義教育理論が主張されている[† 1]

p351. 「小学校教員心得」と大綱の文脈を忠実に実践していた熊本師範学校、開発主義教育理論を基礎にした宮城師範学校と長野県師範学校、そして啓蒙主義的性格がなお濃厚な茨城師範学校と福島師範学校など、その実態のありようは四類型に分けることができた。「師範学校教則大綱」が制定されながらも、校長の指導方針によっては、独自の教員養成の実践がなお可能な時代であった[† 2]

p381. 「時勢風潮ノ然ラシムル所」とは、自由民権運動が下火になり、全国的に保守思想への回帰がなされつつあったことを描写したものと解されるが、この時代背景の中で、教員たちは、学校教育における開発主義という新式の教授法の研究へと進んでいったのである。教員の中には、「自費ヲ以テ教育書類ヲ講読シ且其暇アル時ハ自ラ動植礦物ヲ採集シテ実物教授ノ便ヲ謀リ或ハ自ラ簡易ノ物理器械ヲ製スル」など、教育実践に熱意を持つ者が出始めたのであった[† 3]。(引用者改行略)前述しているように、この受け皿が、高嶺秀夫らが進めていた開発主義教授方法であり、政策的には、学事諮問会と師範学科取調員への教育、そして各府県での講習会と小学督業の設置などであった。全国的に新式の開発主義教授法の学習運動が展開され、小学校教員のみならず師範学校教員もこれに邁進し、高嶺秀夫はその中心的役割を担ったのであった。

p382-383. このような行政的施策の結果と、長野県師範学校長能勢栄の努力もあって、一八八五(明治一八)年の「長野県教育の実況」は、「政治と教育とを混教し幼稚の児童に法律経済の奥義を話すが如き弊風も行はれず、只ペスタロジー、フレーベル、ノルゼント、ページ、ぺヰン、カーレー、ジョホノット、等の説を尊ひ着実熱心を主旨とし早く欧米真正の智識を輸入し亜細亜の臭気を脱去し西洋新鮮の空気を吸飲せんと切に企望するの徒大に勢力あり」と、開発主義教育学の修得に専心する教員[† 4]が、増加しつつあったことが報告されている。(引用者改行略)福岡県では、「教育学会ナルモノヲ各郡区ニ開設シ苟クモ教員タルモノハ総テ毎月二回以上集会シ教科書及ヒ授業法等ヲ研究セシム」という動向があり[† 5]、三重県でも、「模倣的ナル教授法ヲ避ケ努テ生徒身心ノ暢弊情意ノ発動ニ注意シ専ラ開発的教授法ニ拠ラントスルノ傾向ヲ生シ器械標本等ノ需要頓ニ増加シ其小学物理及化学器械ノ如キハ管内ニ於テ各数十組ヲ備フルニ至レリ又部内教員研究会若クハ助手養成法ヲ設ケ教科書并ニ教科書ノ研究及教授法ノ練習ヲナスカ如キ各郡処トシテ其設ケアラサルナク就中二三郡役所部内ニ於テハ動植物標本採集ノ規約ヲ結ヒ乾蔵ニ剥製ニ頗ル其力ヲ致スカ如キ又以テ教授法ノ一変シタルヲ見ルニ足ルヘキナリ」という状況であり[† 6]、開発主義の教授法改良運動が急速に進展し始め、その中で、師範学校教員は中心的役割を果たしていたのであった[† 7]

p394-395. (引用者注:長野県師範学校で1884年(明治17年)に行われた全面的な規則改正について、)前述しているように、同校の校長能勢栄は、米国帰りの開発主義教育論者ではあるが、必ずしも教育政策の儒教主義路線とは一致せず、後の森文相に近い発想をしていることを考え合わせるなら、むしろ、三条件を備えた「完全の人」の養成とは、彼独特の考え方との関係が注目される(第Ⅱ部第三章第二節(四)参照)。しかし、ほとんどの師範学校は、学事諮問会による指導をふまえ、儒教主義と開発主義という二軸によって、教育を進めつつあったことがわかる。国民教育のイデオロギーとしての儒教主義と、近代的教授方法としての開発主義、この両者が、矛盾を自覚的に捉えられることなく、当面の実際的な必要性において、師範教育は進められていた。そして、儒教主義と開発主義のいずれかへの傾斜の度合いによって、各府県師範学校の性格に若干の相違が生じていたと捉えられる。

p418-419. そして、福岡孝弟文部卿のもとで、西村は、再び、編集局長に就任したのであった[† 8]。従って、この後の文部省の路線は、福岡孝弟・西村茂樹・江木千之そして元田永孚らの推進していた儒教主義的・ドイツ学的性格が濃厚になり、高嶺秀夫らの開発主義教育理論及びその背景となる近代市民社会成立期の思想は、政策に合致しないことが明らかになりつつあった。それにしても小学校教員の改良、特に教授方法の改良を図らない限り、学校の近代化は速やかには達成されない状況にあった。どんなに儒教主義的観点から批判しようとも、国家の基本課題として、世界の列強に伍する富国強兵の政策を遂行しようとするなら、当面、学校の近代化は緊急の課題であった。とすれば、当時は、開発主義教授理論以外に、有効な教授方法・技術は導入されていない時期であり、教育政策としては、開発主義教授理論を矮小化し、単に「『新主義』として技術的次元において普及」せしめるしか、有効な方策はなかったであろう[† 9]。一方、高嶺の側は、「明治十四年の政変」後の体制に違和感はあるにしても、未発達な学校の状況の中で、とにかく教授法の近代化に貢献することに自分の存在理由を見出していたように思われる。

p422-423.(引用者注:1882年(明治15年)12月8日、学事諮問会会員の東京師範学校の参観に対して高嶺秀夫が行った演説について、)「道ヲ重ンスルノ良民」とは、真理探究の道の意味であって、儒教主義の意味は一切排除されている。彼は、実際の授業の仕方として、物理学・化学・博物学等の実例をあげつつ、人文・社会に関する学も同様であることを示唆している。彼は、国民のイデオロギー形成に関する学科には、直接の言及を注意深く避けているが、その学科といえども科学的真理探究の方法において学習されるべきことを、学事諮問会会員に対して結果的に教えようとしていたことが読み取れる。(引用者改行略)しかし、彼の各科教授方法への説明は、実際的な教員養成のあり方としてどれほど正確に学事諮問会会員に理解されたであろうか。例えば「師範学校ニ於テ諸学科ヲ教授スルノ順序方法ハ皆小学校ニ於テ之ヲ教授スヘキノ模範タルへキ」ことという主張は、具体的にはどのような内容・方法を意味していたのであろうか。師範教育では、小学校教育と同一の内容・方法で教育されることを期待したのであろうか。師範学校の教科書は、中学校に準じる内容であり、決して小学校のそれではない。前述の「師範学校教則大綱」にせよ、その各府県の教則にせよ、各科に相当する教科書は、中学校のそれとほとんど差のないものである。これを前提に高嶺の話を聞くなら、学事諮問会会員は、せいぜい開発主義の教授方法で各科の教育がなされるべきこととしか、理解できなかったはずである。つまり、師範生は、中学校に準じる教育を開発主義教授方法によって受け、この実際の体験によって、開発主義を理解し、小学校に赴任してからは、小学校教材を開発主義的に教育することが可能となる、ということである。

p424-425. 各科教授法への指導がこのように限界の含んだものであるとするなら、当然に、師範学校の教育は、中学校的にならざるをえなかったことになる。開発主義を採り入れた中等学校レベルの教育方法を施すという意味以上には、学事諮問会会員は理解しようがなかったであろうし、高嶺自身も、当面、その程度において教授方法の改良を図るしか、手立てがなかったものと考えられる。時代は、あまりに教育学が未熟であった。(引用者改行略)それにしても、高嶺秀夫は、開発主義による教授方法が、全国に正しく普及することに自分の役割を見出していたことは間違いない。そのための師範学校の改良であった。師範学校で、正しい開発主義教授方法が教育されるなら、「天下ノ児童ヲシテ学ヲ好ミ道ヲ重ンスルノ良民タラシム」ことが可能となる、と彼は考えていたのであろう。一方、西周は、各科の知識の教育以上に、「道徳ノ科」こそ「人道ノ大本」と捉えていた。「学フ者ハ其師ノ言論弁舌ニ於テ其道理ニ服スルヨリモ、却リテ其師、自己ノ品質、行儀ノ観化ニ服スルモノニシテ、苟モ品質劣リ行儀汗穢ナレハ、説ク所明晰弁論人ヲ圧倒スルニ足ルモ、学フ者ノ心裏暗ニ軽蔑ノ意ヲ生ス」という認識によって、東京師範学校に修身科設置の推進役を果たすことになったのであった[† 10]。(引用者改行略)以上、二人の相違は明らかであるが、また同時に、当時のマクロな状況で、果たした役割は相互補完的で、結果的には、東京師範学校は、政策の期待する教師像を造出することになるのである。次節では、それを具体化した一八八三(明治十六)年の教則改正を分析する。

p451-452. 師範学校が整備され、附属小学校の設置と訓導の常置、そして小学督業の設置と講習会の開催等によって、明治一〇年代末にしてようやく小学校教員の教育実践が開始された。それを内的に支えたものは、高嶺らが推進していた開発主義的な教育学・教授法であった。多くの教員たちは、その学習と実践に邁進することによって、しだいに力量を形成し、師範学校はその実践を支えていた。そのために附属小学校が整備され、管内小学校の模範としての役割が期待された。多くの教員が附属小学校を参観し、教育学の講義を聴講した。この限りでは、教育における近代化は、ようやく軌道に乗り始めていたことが確認できる。(引用者改行略)しかし、教員と教育実践そして教育学という関係づけられ方が、「小学校教員心得」と「学校教員品行検定規則」という枠組みの中であったことを想起するなら、「教員等モ亦頗ル警戒スル所アリテ心ヲ教育範囲外ニ馳スル者漸次蹤ヲ絶チ以テ操行ヲ砥礪スルニ至レリ」という府県からの報告は、教員政策が成功していたと捉えるよりは、処分を「警戒」せしめることによって、教員から「教育範囲外」の視野を奪い、上記規則の枠内でしか「操行」しない思想性を造出しつつあったことを読み取る必要がある。府県当局からは、「操行ヲ砥礪スルニ至レリ」(群馬県)、あるいは「勤勉沈着事ヲ慎ムノ風趣アリ」(富山県)、「温良恭敬ノ美徳ヲ恢復シ」(高知県)、「言行自ラ端正ニ趣テ大ニ前日ノ面目ヲ改メタリ」(宮城県)等々の真面目な教師像が礼賛されているが、この意味は、上記処分が「大ニ一般教員ヲシテ警戒ヲ加ヘシメタ」(岩手県)結果、あるいは処分の「為ニ一般ノ教員一層戒慎ノ思想ヲ発シ其操行面目ヲ改メ」(愛知県)という文脈であるとすれば、教育学と教育実践への興味も、彼等自身の教養も、生半可なものにしかなりようがなかったであろう[† 11]。また、それを究めるだけの客観的条件もあまりに貧困であっただけに、開発主義の教授方法は、皮相的なものに終わらざるをえなかった。そして、これを裏付けるだけの教員養成の教育内容であった。

p529.(引用者注:1885年(明治18年)7月11日に任命された師範学校条例取調委員の一人、東京女子師範学校長那珂通世の教員養成論について、)読書と習字については省略するが、「文学の授業法」には、開発主義教授法に繋げられる考え方を読み取ることができる。当時の教授理論が、博物学・化学・物理学などいわゆる理学を中心として展開されていた中で、文学の授業法の主張は、彼の言うようにほとんどなされてこなかった。それは、文学が伝統的な学問を背景としていただけに、その授業法の近代化についても、理学の学科以上に、多くの阻害条件に包囲されていたことによるのであろう。後年、「小学校令施行規則」(一九〇〇年)によって、沢柳政太郎が、国語教育の近代化として、字体の統一・漢字の制限・発音・仮名遣いなどを政策化した際にも、結局は、伝統的な文学観によって履されてしまった事情からも推察できる。彼の「文学の授業法」は先駆的であったと言うことができる。

p539.(引用者注:師範学校条例取調委員の一人、山田行元の教員養成論について、)教育学教養の重視の教員養成論は、高嶺らの東京師範学校改革のそれと同意できるものであったと判断される。山田の他の主張、例えば、大日本教育会での演説「小学教科ノ撰択」を検討しても、一八八一(明治一四)年の「小学校教則綱領」にのっとりながら、「小学教科ノ簡易着実ヲ計」り、「児童ノ心ヲ開誘シ明瞭ノ理会ヲ与」える方法を模索すべきことが力説されており、高嶺らが推進していた開発主義教授方法を基調とするものであった[† 12]

p595-596.(引用者注:森有礼が文相就任直前に進めた高等師範学校及び尋常師範学校の改革の要点を示すものとして、「森の起草」とされる1885年(明治18年)10月の地方官会議での大木文部卿の演説を検討する[† 13]) 第一に、「資格ヲ完ク」するとは、何を求めているのか。「各地方ノ小学教員ノ景況ヲ観ルニ概ネ教育ノ主旨ヲ弁識セス唯授業ノ伎芸ノミヲ事トシ復タ気質精神ヲ養練スルノ要ヲ感スルモノナキカ如シ、是レ豈資格ノ完キモノト云フヘケンヤ」と、気質と精神養成の必要性を説いていた。高嶺秀夫は、授業の改善を図るべく、開発主義教授法についてその普及に尽力してきており、今なお、教育学と心理学教育の不十分さを認識していたが、文部卿はそれを「授業ノ伎芸ノミヲ」教授していると捉え、「気質精神ヲ養練」するあり方を要請していた。

p602. 森文相期の師範学校改革は、兵式体操など教室外の教育を中心として理解されているが、このように授業改善への改革もかなり推進されていたことを注目しておきたい。授業草稿への附属小学校教員及び師範学校教員(教育学)による指導監督そして毎週批評会というあり方は、森が、師範学校を「教育学校」たらしめることを表明したことと関係して興味深いものがある[† 14]。全国的にも、「明治一〇年代の講習は、主として開発主義教授理論の伝授と実技講習など伝達講習であったが、二〇年代には、公開授業を通して講習会がおこなわれる」という傾向が認められる[† 15]。それは、森文相が授業草案の指導と授業批評会の開催そして教育会による研究会などを推進していたことが背景にあったからである。

p642-643.(引用者注:一八八六年(明治一九)年五月二六日に定められた文部省令第九号「尋常師範学校ノ学科及其程度」の分析)以上が、「尋常師範学校ノ学科及其程度」であるが、第一に、儒教主義的学科の排除が特徴である。修身科から倫理への変化と、漢文と習字の時間数の大幅減がもたらされた。第二は、ようやく本格化してきた日本の資本主義の要請を受け、産業上の必要から、英語・物理化学・農業手工・図画などで、学科の新設おるいは時間数の増加などがなされた。第三は、新しい教師像の養成として、倫理と兵式体操が導入されたことである。(引用者改行略)全体的に、近代的な性格への変化を特質としていると捉えられる。教職教養では、前述しているように、教育の原理論、学校管理運営論、内外教育史、教授論、各科教授法そして実地授業が内容とされ、時間数が増加するなど、学科課程における位置が確立してきたことを示している。心理に関する内容は、その項目が排除されても、原理論において、いくらかは教授されることが期待されていたと捉えられるが、高嶺秀夫の開発主義では、最も重視されていた学科であっただけに、その変化の意味は重視する必要がある。彼は、心理学による原理的認識を欠いては、教員の教授法が形式的なものに堕してしまい、決して優れた技術にはならないことを力説していたが、「教育学」から「教育」へと名称が変更されるに伴い、その原理を支える心理学的教養が、教職教養から排除されたのであった。各科教授法については、東京師範学校の一八七九(明治一二)年改革のように、各学科に即した教授法教育を施すのではなく、教育学の一般論のそれとして教育される仕方が、一八八一(明治一四)年大綱に引き続いて踏襲されたことを注目しておきたい。

p646-647.(引用者注:一八八六(明治一九)年九月の文部省訓令第九号で指定された師範学校教科書について、)特に、高嶺秀夫及び有賀長雄訳のジョホノットの教育学そして若林虎三郎・白井毅『改正教授術』は、当時の教育学教科書としてかなり普及したもので、東京師範学校における開発主義教授法の実践が、ようやくその教科書の出版と合わせて、当時の教育学教育の中心に据えられたことが分かる。埼玉県尋常師範学校の教育学教育を見ると、「教育学ハ学級改革前迄ハ高等二級ニ伊沢氏ノ学校管理法ヲ用書トシテ編成分級管理賞罰等ノ概略ヲ授ケタリ(一週二時)学級改革後ハ二年級甲(一週二時)三年級(一週四時)ニ『ジョホノット』氏ノ教育書ニ基キ『ベイン』『スペンセル』『カーレー』諸氏ノ著書ニ参考シテ教育ノ大旨、知育ノ理論及其応用ヲ口受セリ」と報告されており、開発主義の教育理論を主体にした教育であったことが分かる[† 16]。(引用者改行略)また広島県尋常師範学校卒業生の回想でも、「当時の教育学は伊沢修二先生の編著で亜米利加合衆国に於て学ばれた最新の学説で、ジョホノット氏教育説を祖述したるもので教授法は、若林虎三郎氏の同じく米国にて学び得たる開発主義を主唱せる最新のものであった」。「米国伝来の教育学説と教授法に対しては、非常の興味を感じ之れが研究によりて、教育者たる自覚と使命につきて正しき理解に到達したと思って居る」と報告されている[† 17]。この他、長野県尋常師範学校及び秋田県尋常師範学校でも同様の回想が確認でき、一八九二(明治二五)年頃までは全国的な傾向であることが窺われる。(引用者改行略)埼玉大学教育学部『百年史』では、埼玉県尋常師範学校の教育学教育について次のようにまとめられている。「ペスタロッチ教育学を伝えた『如氏教育学』が明治十九年から二十五年まで教科書として用いられている。開発教授を普及した若林虎三郎・白井毅共著の『改正教授術』も読まれ、当時ペスタロッチ教育学の影響が強かった。この外スペンサー、カーレー、ベインなどの教育学も述べられた。しかし二十六年にはヘルバルト派の教育学を講じた大瀬甚太郎著『教育学』が教科書となり、二十七年よりは同じくヘルバルト教育学の『リンドネル教育学』が用いられ、ペスタロッチからヘルバルトへの推移を示している」と把握されている。全国の尋常師範学校も同様の推移であった[† 18]

p654-658.(引用者注:教生が受けた実習について、)実習での授業は、前述の教科書がジョホノットのそれであることにより、開発主義であったことが推察されるが、山梨県尋常師範学校では、次のように回想されている。(引用者改行略:以下改行略)教生指導の方面に於ては、多く指導の根本原理を説明して、それを実地教授に応用して示すこと約一週間、後は大体教生等の工夫に委して置いた。教生期間半年といふ非常に長い間なので、訓導は教授按の指導をして一日一回位各教室を巡視して指導を与へた位であった故、教生は本校で教えられた教育や心理学と訓導に習った教授法の原理とを思ひ浮べながら自ら創造し発見して行ったものであった。(改行略)当時の教授按は、(改行略)一、復習 前に授けた事項の記憶を試す為に必要な教師の問と、児童の答の予想とを記した。(改行略)二、教授 ここに其の日の授くべき事項の観念を開発し、且つ教ふるに肝要なる教授者の問と児童の答の予想とを詳記した。(改行略)三、演習 授けたる観念と、それを表出するに必要なる言語文字格言等を記した。又言語文字格言等に誘導するに要する問答予定。(改行略)四、約習 演習に続いて、要約点を語り、又は筆記せしむるに必要なる問答予定を記した。(改行略)この一、二、三、四の授業方式は、まさに若林虎三郎と白井毅が『改正教授術』で示していたものであり、附属小学校では、その練習を中心としていたことが分かる。「授業の実際から見ると、徒に開発の為の開発、問答の為の問答に終始してしまった」ようであるが、それでも、「注入に注入を重ねて来た従来の教授法に比すれば正に雲泥の隔りであった」と回想されている。(改行略)こうして、教生への指導体制が整い、かつ附属小学校の施設設備の充実、指導理念としての教育理論が導入されることによって、「新教育法の原流(ママ)」として「附属小学校第一期の黄金時代」が到来したと言われる。一八八三(明治一六)年の「府県立師範学校通則」によって附属小学校の設置が義務づけられ、かつ森文相の師範学校改革は一環として人員・施設設備が充実され、そしてようやく開発主義の教育理論が浸透してくることによって、附属小学校は県下に対する指導性を確保しえたのであった。その結果、「県下小学校長は一年に一回以上、附属小学校参観をなし、教授に管理に、詳細に施設を調査研究[† 19]し以て自校の進展に資して」いったという時代が到来したのである。(改行略)以上、学科教育及び実地練習について、そのありようを分析してきたが、師範教育と教職意識の形成について、若干の考察を加えておきたい。各府県尋常師範学校卒業生の回想を収集し分析する過程で、最も興味深く感じさせられたことは開発主義の教育学教育によって、多くの師範生が、その専門性に目覚め、教職意識を持つに至った事実についてである。小学校教員の在籍年限は、三~五年が圧倒的に多く、かつ三〇代以下の教員が支配的であった当時において、およそ自分自身を小学校教員と規定しその職業意識を有する人は稀であった。少なくとも小学校教員の職業を積極的乃至肯定的には観念していなかった。

p664-665.(引用者注:1886年(明治19年)『教育報知』に連載された日下部三之介「師範学校真正ノ職掌ハ如何」(米国ロード・アイランド師範学校長ドーマスジェ・モルガンの論文を教育報知社が訳したもの)で論じられている教育学の方法について、)方法は、各学科に即した具体的な教授方法で、所謂、各科教授法である。「方法論ヲ了リタル后チ若クハ之レト同時ニ形体、彩色、大小、重量、数、位置、時間、言語、等ノ諸科ヲ児童ニ授クルノ方法如何ヲ説示ス可シ読書、習字、綴字、画図、植物、動物ノ如キハ稍長シタルモノニ授クルナリ算術修辞地理文学歴史博物学等ハ上等級ニ授クルナリ」と各科の教授方法の必要性が、三段階に分けて説かれている。それは必ずしも固定的な「一定ノ方法」ではないが、ある種の「方法アリテ之ヲ教授スルノ勝レルヲ知」らしめることを目的にするという。この「方法」の説明の仕方は、歴史的に見れば、開発主義的な心力開発・実物教授方法が前提とされている。

p732.(引用者注:森文相期の学科教育に対する批判のうち、人身生理学と心理学の排除について、)一八八一(明治一四)年の「師範学校教則大綱」では、生理学は設置されていたが、一八八六(明治一九)年では廃止されており、身体に関する科学的教養は軽視されたことになるので、それへの批判もこめられていたと解釈される。同様に心理学も、一八八一(明治一四)年で設置されていたのが一八八六(明治一九)年で廃止されており、「教授ノ原理」で部分的に教育されるだけになっていた。(改行略)心理学の不可欠なことは、高嶺秀夫の開発主義以来主張されていたことであるが、一八八六(明治一九)年に削除されたことで、心理学必要の論が喚起されたのであろう。今外三郎も、『大日本教育会雑誌』に、「心理学原理ヲ教授上ニ応用スルコトヲ論ズ」を二度にわたって掲載している。心理学必要の論は省略するが、興味深いのは、なぜ教員が心理学を敬遠してしまうかについて説明していることである[† 20]。(改行略)要するに、(1)心理学の書籍が難解な言語を弄して、教員をして嫌悪せしめること、(2)心理学が未発達の段階にあるために、教員が、児童生徒に心理学的原理を適応することが困難であること、(3)その結果、教員が心理学を適用するよりも自分の観察と経験によって処理してしまいがちであることなどが理由として挙げられている。歴史的に見れば、心理学の未発達の問題が根底にあったことは言うまでもあるまい。

p967.(引用者注:1894年(明治27年)2月9日に、井上毅文相が各府県

  1. ^ 長野県教育史刊行会『長野県教育史 第一巻 総説編』の「第一編、第四章、教員養成」長野県教育史刊行会 1978年3月 802頁、能勢栄への評価として、『長野県教育史 第一巻』796頁の著者は「『当時流行ノ民権トカ国権トカ』利口ラシク騒ギ立テ』と民権運動に否定的な発言をするなど、いわば国の文教政策と同一線上に立つ一面をうかがわせる」と論じているが、他面、儒教主義的な教育に明確な一線を画していることも指摘すべきであろう。
  2. ^ 一八八五(明治一八)年教育令改正の「理由」説明では、「小学校ニアラサル学校ノ教則ノ如キハ尽ク小学校ノ如ク帰ヲ要スヘキモノニアラサレトモ其中学校師範学校ヲ始トシ医学校薬学校及農商業等ノ学校ノ如キハ其綱領ヲ定ムルノ施設上ニ利便アルヲ以テ文部卿ハ夙ニ之ヲ府県ニ訓示スル所アリ今後モ此類尚多カルベシ」とあり、文部省は大綱の枠内において、各府県師範学校が独自の教則を編成することを認めていたものと思われる。
  3. ^ 『文部省第十二年報 明治十七年・二冊』(山梨県年報)一七八頁
  4. ^ 「長野県教育の実況」(『大日本教育会雑誌』二二号 明治一八年八月三一日)
  5. ^ 『文部省第十二年報 明治十七年・二冊』(福岡県年報)四二九頁
  6. ^ 『文部省第十二年報 明治十七年・二冊』(三重県年報)一四四頁
  7. ^ 『文部省第十三年報 明治十八年・二冊』(栃木県年報)一六七、栃木県では、小学督業三名は、師範学校教諭が兼務し、「心性開発ノ授業術」を普及させていた。
  8. ^ 西村茂樹「往時録」(日本弘道会『西村茂樹全集』第三巻 思文閣 一九七六年八月)六三八~六三九頁
  9. ^ 金子照基『明治前期教育行政史研究』風間書房 一九六七年八月 二九七頁
  10. ^ 西周「東京師範学校ニテ道徳学ノ一科ヲ置ク大意ヲ論ス」『西周全集 第二巻』一八八一年一一月 五一六~五二〇頁
  11. ^ 『文部省第一三年報 明治十八年・二冊』(群馬県年報)二三八頁、『文部省第一二年報 明治十七年・二冊』(富山県年報)三一五頁、同書(高知県年報)四一九頁、『文部省第十一年報 明治十六年・二冊』(宮城県年報)三八三頁、同書(岩手県年報)四一八頁、同書(愛知県年報)二九八頁
  12. ^ 山田行元「小学教科ノ撰択」(『大日本教育会雑誌』第一三号 明治一七年一一月三〇日)五三頁
  13. ^ 引用者付注「小学校令等発布に付文部省より第一地方部の府県へ通達」(『大日本教育会雑誌』第三〇号 明治一九年四月三〇日)六三頁
  14. ^ 森有礼「師範学校合併に関する示論」(『森有礼全集 第一巻』四七六~四八〇頁
  15. ^ 長野県教育史刊行会『長野県教育史 第四巻』昭和五四年三月三一日 二一六頁、長野県の事例ではあるが、管見では、全国的には同様の状況であった。言うまでもないが、森の政策だけに負っているわけではなく、明治一〇年代から、授業批評会は、教育会あるいは附属小学校などで実施されており、その成果が森の督励によって一層結実したということであろう。東京府師範学校の明治一八年「附属小学校概況」によれば、「授業批評会ハ師範生徒ノ実地授業ニ従事スルモノヲ互ニ其授業方法ノ利害得失ヲ研究セシムルタメ設クルモノニシテ従来毎日始業前三十分間ヲ以テ訓導四名之ニ加ハリ主監ヲシテ之ヲ主理セシメタリ然レドモ本校ノ教授法ト聨絡ナキトキハ師範学校ノ本旨ニ悖ルナシトセス因テ来ル十九年一月ヨリハ本校教諭ヲシテ該会ニ臨ミ各々其専門ノ学科ニ就キ授業ノ批評ヲ行ハシメントス」とある。(青山師範学校『創立六十年 青山師範学校沿革史』一四二頁)
  16. ^ 埼玉大学教育学部『百年史』九九~一〇二、一四一頁
  17. ^ 広島県師範学校内数田猛雄『六十年回顧録』「第三編 卒業生の六十年回顧」四八~四九頁
  18. ^ 埼玉大学教育学部『百年史』一五六頁
  19. ^ 山梨県師範学校『創立六十周年記念誌』三五三~三五四頁
  20. ^ 今外三郎「心理学原理ヲ教授上ニ応用スルコトヲ論ズ」(米人グリーンウード氏著『教育学原理ノ実地応用』の一章を翻譯とある)(『大日本教育会雑誌』第八〇号 明治二一年一一月一日」七九九~八〇一頁、同誌 第八一号 同年一二月一日。心理学についての趣旨は、「教師ハ十分ニ児童ノ心意ヲ研究スルコトナシ」、「教師等ガ通暁セル所ノ心理学ハ、書籍ヨリ学ヒタルモノニシテ、大抵ノ教師ニ取リテハ精精単ニ混沌タル地塊ノ如キモノノミ」、「実ニ大概ノ教師ガ解スルニ難ク、守ルニ一層難キ、乱雑ナル事件ト心意学、心理学及ビ形而上学ナル諸学語トヲ連結シタルハ、之ニ職由スルコト又疑フベカラズ」、「斯ク了解シ難キ論題ヲ嫌悪シテ、之ヲ遠ザケ更ラニ経験ト観察トニ退キ、玆ニ於テカ訓育上ニ横ハル散乱シタル事実ハ、之ヲ分類スルニ難ク、又之レヨリシテ或ル一般ノ原理ガ由テ以テ推理セラルベキコトヲ、全ク非トスルニ至ルモノナリ。夫レ然リ以上ノ如キ前提ニ由テ之ヲ観ルニ、教師ガ心理的原理ト現存ノ児童等ニ向テ為セル応用トノ間ニ、一ノ関係ノ存スルヲ発見シ能ハザルハ、決シテ怪シムベキニアラザルナリ、且ツヤ彼レ教師ハ如斯関係ノ存在シ、及ビ之ヲ発見スルコトヲ得ベク、之ヲ教授上ニ応用スルヲ得ベシトノ定説ヲ信ゼザルコト往々ニシテ見ル所ナリ」ということである。