利用者:McYata/カウボーイ作戦
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カウボーイ作戦 | ||||||||
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第二次世界大戦西部戦線中 | ||||||||
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衝突した勢力 | ||||||||
| ソビエト連邦 (作戦・戦闘には参加せず) | |||||||
指揮官 | ||||||||
不明 | なし | |||||||
部隊 | ||||||||
武装親衛隊歩兵部隊 | なし |
カウボーイ作戦 (カウボーイさくせん、英語: Operation Cowboy) は、ヨーロッパ戦域における第二次世界大戦最終盤の1945年4月28日、旧チェコスロヴァキアのホスタウ村(現チェコ共和国ホストウン)で実施された、リピッツァナー馬の救出作戦である。イッター城の戦いと並び、本来敵同士であったアメリカ軍とドイツ国防軍の部隊が、共同でナチ・ドイツの武装親衛隊と戦った稀有な事件として知られている。
オーストリア産の名馬であるリピッツァナー馬を管理していたドイツ国防軍部隊は、ソビエト連邦軍に占領されることを危惧し、アメリカ軍に接触してリピッツァナー馬救出を依頼した。そこで彼らの協力を受けたジョージ・パットン元帥麾下のアメリカ軍任務部隊が、ソビエト連邦軍に先んじてホスタウに入り、抵抗する武装親衛隊と戦いながらリピッツァナー馬をアメリカ軍の管轄領域へ移送した。
背景
[編集]1938年にオーストリアがナチ・ドイツに併合(アンシュルス)されると、ウィーンのスペイン乗馬学校にいたオーストリア原産の馬リピッツァナーの繁殖牝馬が、ドイツ支配下のチェコスロヴァキアのホスタウ村にあった実験農場へ移送された。ドイツの狙いは「アーリア馬」品種を創り出すことであった[1]。スペイン乗馬学校校長アロイス・ポダイスキーは優れた馬場馬術家として名が知られており、1936年ベルリンオリンピックの馬術競技銅メダリストだった。また彼はオーストリア軍の軍人でもあり、ドイツ国防軍へ統合された際には少佐の地位に就いた[2]。第二次世界大戦終盤、ホスタウ村は当方から進撃してくるソビエト連邦軍の進路上に位置していた。しかし農場に駐留するドイツ兵たちにとって、ソ連に降伏するのは気が進まないことであった。一方で西方からは、ジョージ・パットン元帥率いるアメリカ合衆国第3軍の第12軍団が、プラハ解放をソ連軍と争うように迫ってきていた[1]。
救出計画
[編集]フベルト・ルドフスキー中佐指揮下にあったホスタウの農場のドイツ人獣医たちは、仮にソ連軍に農場を占領されれば馬たちが蛮行にさらされるだろうと恐れていた。というのも、直前にハンガリーを解放したソ連軍は、ハンガリー国家が所有していたリピッツァナーをすべて屠殺していたからである。燃料不足のためたまたまホスタウの農場に逗留していたドイツ空軍情報機関のヴァルター・ホルタース中佐は、ソ連ではなく西から来るアメリカ軍へ降伏できるよう取り計らおうと考えた。ホルタースは参謀本部の要員でもありルドフスキーよりも地位が高い将校だったが、二人は貴重な馬を守り抜くという点で一致し、最寄りのアメリカ軍部隊であった第2騎兵群第42偵察騎兵戦隊に接触した。第2騎兵群は枢軸国の領域深くに飛び込む大胆な機動により、ドイツ軍の間でも「パットン軍の幽霊」として名高かった。彼らは機械化されていない騎兵将校で主に構成されており、ホルタースらの要請を受けた彼らはすぐさまホスタウ農場救出作戦を立案した[1]。
パットン自身は、ここに来るまでリピッツァナーのこともスペイン乗馬学校のことも知らなかった。しかし彼はかつて1912年ストックホルムオリンピックで馬術を含む近代五種競技に出場したオリンピアンであり、馬術競技銅メダリストのポダイスキーと通じるところがあった[3]。演技を終えてパットンと敬礼を交わしたときのことを、ポダイスキーは後に回顧録の中で「生涯の中でも一番大切な瞬間だった。オーストリアの小村の決定的なひと時に、二人の男が向かい合った。お互い、己の国のためにオリンピックの栄冠をかけて戦ったことがある者同士だ。……とはいえ、今その二人は、かたや厳しい戦争において凱旋した勝利者として、かたや敗戦国の一員として、不釣り合いな立場で相まみえたのである。」と回想している[4]。
ポダイスキーも、ホスタウから馬を救出するべくパットンと面会していた。また、ホルタースと第二騎兵群指揮官のチャールズ・M・リード大佐の間で持たれた会合も簡素なものではなく、4月26日以前から予定されていたものであったとする文献もある[2]。
救出作戦を成功させるには、様々な障害があった。まず、チェコ国境のドイツ軍部隊はこの合意を知らないため、アメリカ軍が侵入してくれば抵抗してくることが予想された。また農場にいる数百頭の牝馬のうち大半は妊娠中か、出産したばかりであった。さらに先だって行われたヤルタ会談でチェコスロヴァキアはソ連の勢力圏とすることが定められており、ソ連の赤軍がアメリカ軍の越境作戦にいい顔をする可能性は低かった[1]。
戦闘
[編集]作戦の実施に同意したパットン元帥は直ちに任務部隊を編成するよう命じたが、そのために使える部隊はあまり残っていなかった。結局、作戦に割り当てられたのは小規模な2個偵察騎兵中隊(M8装甲車、少数のM8 75mm自走榴弾砲、M24軽戦車2両を配備)と、遮蔽歩兵部隊325人であった。この任務部隊の指揮を任されたのは、ロバート・P・アンドリュース少佐だった。彼らの任務は、20マイルを踏破してまだ数千人のドイツ軍が占領を続けている領域に侵入することであった。そこには、兵員・兵器不足ながらドイツ軍の2個装甲師団が残留していた。うち一方の第11装甲師団は、数日後にパッサウで降伏することになる[1]。それでもパットンは、赤軍がもうホスタウから数日、あるいは数時間の距離まで迫っていると読んで、「迅速に」任務を遂行するよう命じた[1]。
第12軍団の支援砲撃をうけて国境のドイツ軍の防衛線を潜り抜けたアンドリュース少佐らは、農場に到達した。しかしここから、馬たちを連れて脱出するという難題に取り組まねばならなかった。馬の数が任務部隊の兵員より圧倒的に多かったので、アンドリュースは周辺地域の強制収容所から解放した捕虜(イギリス人、ニュージーランド人、フランス人、ポーランド人、セルビア人)を任務部隊に取り込んだ。さらには、協力しているとはいえ本来捕虜の身分であるドイツ陸軍・空軍の降伏ドイツ兵にも武器を与えた。さらにアンドリュース少佐は、ドイツ軍の第1コサック騎兵師団から脱走してきて当時周辺地域を徘徊していた反共ロシア人コサック騎兵の小部隊も受け入れた[1]。
農場に到着した後、リード大佐は妊娠中の馬や生まれたばかりの子馬を運ぶための車を探し求めた。一方そのころ、アンドリュース少佐は副官のトーマス・M・ステュアート大尉に任務部隊の指揮を引き継いだ。任務にあたった混成部隊は、2度にわたりドイツ武装親衛隊の歩兵部隊に攻撃されたが、死傷者はわずかだった。武装親衛隊はより多くの犠牲を出し、撤退した。武装親衛隊を撃退した後、ステュアート大尉らはただちに騎乗したり手綱で引いたりして馬たちを連れ脱出した。その後すぐにソ連軍の先駆けのT-34戦車が視界に現れたという、土壇場のタイミングだった。ソ連軍は妨害してこなかったので、任務部隊はすべての馬を国境まで連れて行ってトラックに載せ、アメリカの管轄地域まで脱出させることができた[1]。
後世への影響
[編集]映画
[編集]1963年にアメリカで封切りされたウォルト・ディズニー・プロダクションのアドベンチャー戦争映画『第二次世界大戦秘話 白馬奪回作戦』(原題Miracle of the White Stallions)は、カウボーイ作戦の史実をもとにしている。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h “Operation Cowboy”. Militaryhistorynow (25 November 2018). 8 Jan 2022閲覧。
- ^ a b “Operation Cowboy”. austrianinformation.org. 9 Jan 2022閲覧。
- ^ Letts 2016, p. 217.
- ^ Letts 2016, pp. 220–221.
参考文献
[編集]- Letts, Elizabeth (2016). The Perfect Horse : the daring U.S. mission to rescue the priceless stallions kidnapped by the Nazis. New York: Ballantine Books. ISBN 9780345544803
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