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利用者:McYata/ユトレヒト条約

ユトレヒト条約
(左)1713年にイギリスとスペインが結んだユトレヒト条約スペイン語版の初版 (右)ラテン語・英語の最終版
署名 1713年–1715年
署名場所 ユトレヒト, ネーデルラント連邦共和国
締約国
言語
  • 英語
  • スペイン語
  • ラテン語
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    ユトレヒト条約 (英語: Treaty of Utrecht) は、スペイン継承戦争を終結させるために、1713年4月から1715年2月にかけて、ネーデルラント連邦共和国ユトレヒトで結ばれた一連の平和条約。スペイン継承戦争では空位となったスペインの王位をめぐって3人の候補が争い、ヨーロッパの大半の国々を巻き込んで十年以上にわたって続いていた。基本的にはスペイン王に自身の孫フェリペ5世を擁立したルイ14世率いるフランスと、その他諸国の同盟軍が衝突するという構図であった。いずれの陣営も莫大な金を投入し血を流したものの、決定打にかけて手詰まりとなりつつあった。最終的に結ばれたユトレヒト条約で、フェリペ5世はスペイン王位を国際的に承認される代わりにフランス王位請求権を永久に放棄することになり、その他にもフランスとスペインの将来的な統合可能性を阻む様々な措置が取られた。

    スペイン王国、グレートブリテン王国(イギリス)、フランス王国、ポルトガル王国、サヴォイア公国、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)からそれぞれの君主の代表団が集まり、条約が締結された。ルイ14世はスペインにブルボン朝の王を立てることこそできたものの、ヨーロッパに覇権を築く野望はここに頓挫することとなった。これにより、勢力均衡に基づくヨーロッパ秩序への道が固められた[1]。イギリスの歴史家G・M・トレヴェリアンは、次のような評を下している。

     

    この条約は、安定した特徴的な18世紀文明の時代を先導し、ヨーロッパに対する古きフランス君主国の脅威に終止符を打ち、世界全体に少なからざる変化をもたらした。すなわち、グレートブリテンの海洋、貿易、金融における覇権である。[2]

    ユトレヒト条約で王位を承認されたスペインのブルボン家は、フランスの本家が革命で倒された後も生き残り、中断をはさみつつも現在までスペイン王位を継いでいる。

    和平交渉[編集]

    スペイン継承戦争勃発時(1701年)のヨーロッパ

    1700年、スペイン王カルロス2世が嗣子の無いまま死去し、スペイン・ハプスブルク朝が断絶した。翌年から始まったスペイン継承戦争は、その後14年にわたって続いた。

    交戦国の中でも、フランスとイギリスは1711年10月にいち早く合意に達し、ロンドンで予備条約が結ばれた。これには、ヨーロッパにおけるスペインの権益を暗黙の裡に両国で分割する意図があった。ロンドンでの交渉に続き、1712年1月29日にユトレヒトで講和会議が始まった。イギリスからは、ブリストル主教ジョン・ロビンソン英語版ストラフォード伯爵トマス・ウェントワースが代表として出席した[3]。ネーデルラント連邦共和国は予備条約を不承不承ながら認めて講和会議に代表を出したが、同じく反フランス・スペイン同盟軍に属していた神聖ローマ皇帝カール6世は、予備条約が拘束力を持たないことが保証されない限り代表派遣を拒否する立場をとった。後になってカール6世の要求が保証されたため、神聖ローマ帝国は2月に代表を派遣した。スペインは、まだフェリペ(5世)が王として承認されていなかったため、当初は全権大使を派遣しなかった。その他、サヴォイア公国とポルトガル王国が代表を派遣してきた。ポルトガルの代表はルイス・ダ・クーニャ英語版だった。最初に議題に挙がったものの一つに、フランスとスペインが両国の王冠の統合を断念すると保証するか否かという問題があった。この議論は遅々として進まなかったが、1712年7月10日にフェリペがフランス王位請求権放棄を宣言する文書に署名してようやく軌道に乗った[4]

    8月19日、パリでイギリスとフランス・スペインがスペイン戦域における停戦に合意し、講和会議の進行が急がれた。11月7日、ユトレヒトにおいて、まずフランスとポルトガルの間で停戦条約が締結された。続いて1713年3月14日にフランスとサヴォイアが停戦し、同日にスペイン、イギリス、フランス、神聖ローマ帝国がカタルーニャからの撤退とイタリア戦域における停戦で合意した。主たる条約が結ばれたのは、4月11日だった。この日フランスは、5か国(イギリス、ネーデルラント、サヴォイア、プロイセン、ポルトガル)と個別に平和条約を結んだ。スペインは7月13日に2か国(サヴォイア、イギリス)と個別に平和条約を結んだ。その後もユトレヒトでの講和会議は続き、1714年6月26日にスペインとネーデルラントが、1715年2月6日にスペインとポルトガルが平和条約を結んだ[5]

    ユトレヒトでは、同時並行して別の条約交渉も行われた。1713年4月11日、フランスはイギリス、ネーデルラントと個別に貿易・航海条約を結んだ。同年12月9日には、イギリスとスペインの間で同様の条約が結ばれた[5]

    主な内容[編集]

    ユトレヒト条約・ラシュタット条約成立後(1714年)のヨーロッパ

    スペイン王位[編集]

    ブルボン家のフェリペ5世は、スペイン王位にとどまることを認められる代わりに、自身や子孫のフランス王位請求権を放棄した。フランスのブルボン家も、ルイ14世の甥であるオルレアン公フィリップ2世をはじめ、スペイン王位継承権を持っていた者たちがこれを放棄した。このことは、1712年から1714年にかけてルイ14世の子孫が次々と死去した後、1715年にわずか5歳の曽孫ルイ15世が王位を確保するうえで重要な意味を持った[6]

    領土の変化[編集]

    最も大きな利益を得たのはイギリスだった。ユトレヒト条約により、この国はヨーロッパにおける最大の貿易国へと上り詰めた[7]。条約の第10条において、イギリスはスペインから戦略的要地であるジブラルタルメノルカ島を獲得し、西地中海の覇権を握った。

    もう一つイギリス政府が獲得した巨大利権が、アシエント・デ・ネグロス(黒人に関する契約)である。すなわちイギリスは、アメリカ大陸スペイン植民地黒人奴隷を供給する奴隷貿易の独占権をスペイン政府から認められたのである。このような契約が結ばれたのには、スペイン帝国自体があまり大西洋奴隷貿易そのものに関わろうとせず、奴隷供給を外国商人に委託するのを好んでいたという事情もあった。もともとアシエントの権利はフランスのブルボン家が保有していて、フランス商人が毎年5000人の奴隷をスペイン帝国に供給していた。さらにフェリペ5世を王位に据えてからは、フランスがこの契約をすべて支配していた。ユトレヒト条約によりイギリスがアシエントに関与できるようになってから、オランダのセファルディム・ユダヤ人の奴隷所有者は姿を消していき、イギリスでは排他的な契約を結べるとの期待から南海会社が設立された。イギリス政府は借金を減らすためにスペインとの貿易拡大を目指しており、そのためにはアシエントにかかわる権利を手に入れる必要があった。歴史家のG・M・トレヴェリアンによれば、1711年5月の時点でイギリスの国家財政はアシエントへの参与、すなわちスペイン領アメリカとの奴隷貿易の独占権を得ることを想定していて、講和条約によりそれをフランスから奪い取る計画を立てていた。実際にユトレヒト条約により、イギリス政府は30年間アシエントを結べる権利を獲得した[8][9][10][11][12][13]

    イギリスの代表たちは、もっぱら貿易利権の扱いを重視していた。例えば彼らはフランスに、「ダンケルクの要塞を更地にし、港を塞ぎ、その水門を解体して二度と解体されない」よう要求するなどした[14]。これはダンケルクが1本の潮流によって北海へ出ることができ、ドーバー海峡のイギリス海軍の巡視から逃れやすいという好条件ゆえに、フランス私掠船の主要な拠点となっていたためであった[15]。ただこの要求は最終的に通らなかった。

    1750年ごろの北アメリカ。なおフランス領内に描かれている砦の中には、スペイン継承戦争後30年もたってから建設されたものも含まれている。

    戦争中、イギリスはカタルーニャ人を味方につけていた。その見返りとして、イギリスは第13条において、スペインにカタルーニャの慣習法を擁護することを約束させた。イタリアでは、サヴォイアがスペイン領だったミラノ公国の一部とシチリアを獲得した。スペイン領ネーデルラント英語版ナポリ王国サルデーニャ、ミラノ公国の大部分は神聖ローマ皇帝カール6世のものとなった。南アメリカでは、コロニア・デル・サクラメント(現ウルグアイ領)がスペインからポルトガルに返還され、アマゾンからオヤポク川英語版までの領域(現ブラジル)におけるポルトガルの主権が承認された。

    北アメリカでは、フランスがイギリスのイロコイ連邦に対する宗主権を認め、ノバスコシアの領土と、ニューファンドランドルパート・ランドの領域に対する請求権を譲渡した[16]。またフランスは、西インド諸島セントクリストファー島もイギリスに割譲した。それ以外の、戦争以前から保持していた領域はフランスの手に残った。その中には、当時北アメリカ最大の軍事施設だったルイブール要塞を擁するケープ・ブレトン島も含まれていた[17]

    フランスと神聖ローマ帝国の間では決着がついていなかったが、1713年のライン川戦役でフランスが勝利したことで、カール6世もようやく平和条約締結に傾き、1714年にラシュタット条約バーデン条約が結ばれた。ただし、スペインはこれらを1720年のハーグ条約まで認めなかった[18]

    反応[編集]

    1760年の北アメリカ東部・北部。この後1763年にフレンチ・インディアン戦争が終結しパリ条約が結ばれる。この地図が作成された当時、ニューイングランドはセントローレンス川を境としており、ニューヨーク植民地は後のアッパー・カナダ植民地オンタリオ州の領域まで伸びており、ペンシルベニア植民地エリー湖南岸の領域の大部分を占め、ノバスコシア植民地はまだ後のニューブランズウィック州の領域を包含していた。

    ユトレヒト条約におけるThe treaty's territorial provisions did not go as far as the Whigs in Britain would have liked, considering that the French had made overtures for peace in 1706 and again in 1709. The Whigs considered themselves the heirs of the staunch anti-French policies of William III and the Duke of Marlborough. However, in the Parliament of 1710 the Tories had gained control of the House of Commons, and they wished for an end to Great Britain's participation in a European war. Queen Anne and her advisors had also come to agree.[要出典]

    The party in the administration of Robert Harley (created Earl of Oxford and Mortimer on 23 May 1711) and the Viscount Bolingbroke proved more flexible at the bargaining table and were characterised by the Whigs as "pro-French"; Oxford and Bolingbroke persuaded the Queen to create twelve new "Tory peers"[19] to ensure ratification of the treaty in the House of Lords. The opponents of the treaty tried to rally support under the slogan of No Peace Without Spain.[要出典]

    スペイン領だった南ネーデルラントの去就は北側のネーデルラント連邦共和国にとっても大きな関心事であったが、講和会議が自国内で開かれたにもかかわらず、ネーデルラントはほとんど影響力を発揮できなかった。これについてフランスの外交官メルキオール・ド・ポリニャックは「あなたについて、あなたの周りで、あなた抜きで」(de vous, chez vous, sans vous)とオランダを嘲った[20]。というのも、イギリスはボリングブルック子爵の命で司令官のオーモンド公ジェームズ・バトラーがネーデルラントなどの連合軍に無断で撤退してドゥナの戦いでのフランスの勝利をお膳立てし(イギリスは味方の連合軍には事前に撤退を知らせなかったにもかかわらず、フランスにはそれを教えていた)、さらにほかの連合国に先んじて秘密裏にフランスと単独講和を結び、イギリスの権益獲得を既成事実としてしまっていたためであった。このため後から連合諸国がイギリスに抗議しても、何の意味もなさなかったのである[21]。南ネーデルラントは神聖ローマ帝国(オーストリア)の手に渡ったが、それでもネーデルラントは1715年にオーストリアと第三防壁条約を結び、オーストリア領ネーデルラント共同主権を確保することができた[22]

    その後[編集]

    『ユトレヒトの和約の寓意』アントワーヌ・ラヴァル英語版

    ユトレヒト条約には「全ヨーロッパの自由と安全を脅かす、スペインとフランスの両王国の過度な緊密ぶりから起きた重大な脅威のために……決して一人にして同一の人物が両王国の王となってはならない」と明記された[23]。歴史家の中には、このことを近代国民国家形成や勢力均衡の成立に向けた極めて重要なマイルストーンであったと評価する者もいる[24]

    勢力均衡(バランス・オブ・パワー)という言葉は1701年にチャールズ・ダヴナント英語版が『勢力均衡論』(Essays on the Balance of Power)で初めて使い、その後1709年に作家でトーリー党の風刺で知られるダニエル・デフォーA Review of the Affairs of Franceで用いて広く知られるようになった。この言葉はユトレヒト条約の条文の言い回しに着想を得ており、 The idea was reflected in the wording of the treaties and resurfaced after the defeat of Napoleon in the 1815 Concert of Europe that dominated Europe in the 19th century.

    イギリスは個別条約によってスペイン領南アメリカとの貿易権とメノルカ・ジブラルタルの領有権を獲得し、海洋において優位に立った。この時以来、ジブラルタルは現在に至るまでイギリス領にとどまっている。またイギリスはカトリックの王位請求勢力であるステュアート家ジャコバイトとの抗争やその後ろ盾であったフランスの暗躍に苦慮していたが、この条約を機にフランスがプロテスタントによるグレートブリテン王位継承を容認したおかげで、1714年8月にイギリス女王アンが死去した際には円滑にハノーヴァー朝への王位継承が進んだ。また1716年の英仏同盟で、フランスはステュアート家への支援を打ち切った[25]。またフランス継承戦争の参戦国政府が軒並み前例のない規模の負債を抱える中で、イギリスのみが財政危機を回避し、逆に貸し付ける側にまわった[26]

    マリア・テレジアの大公位継承問題の影響で、オーストリアはスペイン継承戦争から十分な利益を得られず、最終的に1740年のオーストリア継承戦争に見舞われることになる。

    スペインは己が帝国の領土の大部分を維持し、目覚ましい速度で復興を遂げた。1718年にナポリとシチリアを奪回しようとしたときはイギリス海軍に阻まれたものの、1734年に再度試みて成功している。また戦争中の1707年から制定が進められた新組織王令英語版により、それまでのスペインの構成国だったアラゴン王国バレンシア王国マヨルカ王国が廃止された。ただしカタルーニャは1767年まで固有の権利の一部を維持していた[27]

    オーストリアはスペイン王位の獲得にこそ失敗したものの、この継承戦争でイタリアとハンガリーにおける地位を固め、今までオスマン帝国に支配されていた南東ヨーロッパへの勢力拡大を続けることができた。金銭面では防壁条約により大きな出費を強いられたものの、オーストリア領ネーデルラントから得られる税収はそれを上回って国家収入の増大に寄与し、オーストリア軍の質を大幅に高めることができた[28]。しかしこうした権益は、間もなく様々な原因により失われた。特に重要なのは、1713年の国事詔書とカール6世の娘マリア・テレジアの擁立を巡る混乱であった[29]

    彼女への継承を確実なものにしようとして、オーストリアはあまり戦略的に利のない戦争に巻き込まれていった。1733年から1735年のポーランド継承戦争では、オーストリアは海を隔てた南イタリアの領土を守らなければならなかったが、これまで依存していたネーデルラントの海軍力はひどく減退していた。先の1718年にはイギリスがシチリア・ナポリを守ってくれたが、1734年にはそれも拒まれ、スペインに奪回された[30]。こうした争いの中で、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国における支配力を失っていった。バイエルンハノーファープロイセンザクセンなどは独立勢力のようにふるまうようになり、1742年にはついにバイエルン選帝侯だったカール7世が非ハプスブルク家出身者として約300年ぶりに帝位についた[31]

    オランダはスペイン継承戦争を経て事実上破産し、なんとか取り付けた防壁条約も、間もなくあまり意味がなかったことが露呈した[32]。オランダが守備に入っていた南ネーデルラントの要塞群は、1740年のオーストリア継承戦争で瞬く間にフランスに抜かれてしまった。防衛時にはイギリスが軍事支援するという約束も、ほとんど意味をなさなかった[33]。またオランダの商船海軍は貿易・政治両面で永続的な打撃をこうむり、ヨーロッパ諸国の貿易競争においてイギリスにとってかわられた[34]

    フランスにとって、最終的に結ばれたユトレヒト条約の内容は、1709年に連合軍に突き付けられていたものよりはるかに有利なものになっていた。とはいえ、1701年2月の時点と比べると、得られたものは僅かであった。強国という地位は保てたものの、軍事的衰退と、経済面でのイギリスの圧力といった問題を抱えることになり、それらが1740年のオーストリア継承戦争の遠因ともなった[35]

    関連項目[編集]

    脚注[編集]

    1. ^ R.R. Palmer, A History of the Modern World 2nd ed. 1961, p. 234.
    2. ^ G.M. Trevelyan, A shortened history of England (1942) p 363.
    3. ^ The staunch Tory Strafford was hauled before a committee of Parliament for his part in the treaty, which the Whigs considered not advantageous enough.
    4. ^ James Falkner (2015). The War of the Spanish Succession 1701-1714. Pen and Sword. p. 205. ISBN 9781781590317. https://books.google.com/books?id=UX0ACwAAQBAJ&pg=PA205 
    5. ^ a b Randall Lesaffer, "The Peace of Utrecht and the Balance of Power", Oxford Public International Law.
    6. ^ Somerset, Anne (2012). Queen Anne: The Politics of Passion. Harper Press. p. 470. ISBN 978-0007203765 
    7. ^ Pincus, Steven. “Rethinking Mercantilism: Political Economy, The British Empire and the Atlantic World in the 17th and 18th Centuries”. Warwick University: 7–8. https://warwick.ac.uk/fac/arts/ren/projects/archive/newberry/collaborativeprogramme/ren-earlymod-communities/britishandamericanhistories/25march/session3reading/rethinkingmercantilism.pdf 2018年5月10日閲覧。. 
    8. ^ Drescher: JANCAST (p 451): "Jewish mercantile influence in the politics of the Atlantic slave trade probably reached its peak in the opening years of the eighteenth century ... the political and the economic prospects of Dutch Sephardic [Jewish] capitalists rapidly faded, however, when the British emerged with the asiento [permission to sell slaves in Spanish possessions] at the Peace of Utrecht in 1713".
    9. ^ England Under Queen Anne Vol III, by G. M. Trevelyan, p. 123
    10. ^ Africa, Its Geography, People, and Products, by W. E. B. Du Bois
    11. ^ Slavery and Augustan Literature
    12. ^ Capitalism and Slavery, p. 40
    13. ^ A History of Colonial America, by Oliver Perry Chitwood, p. 345
    14. ^ Moore, John Robert (1950). “Defoe, Steele, and the Demolition of Dunkirk”. Huntington Library Quarterly 13 (3): 279–302. doi:10.2307/3816138. JSTOR 3816138. 
    15. ^ Bromley, J. S. (1987). Corsairs and Navies, 1600–1760. Continnuum-3PL. p. 233. ISBN 978-0907628774 
    16. ^ George Chalmers (1790年1月24日). “A Collection of Treaties Between Great Britain and Other Powers”. Printed for J. Stockdale. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
    17. ^ Royle, Trevor (2016). Culloden; Scotland's Last Battle and the Forging of the British Empire. Little, Brown. p. 148. ISBN 978-1408704011 
    18. ^ Treaties of Utrecht – European history”. Encyclopedia Britannica. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
    19. ^ The twelve peers consisted of two who were summoned in their father's baronies, Lords Compton (Northampton) and Bruce (Ailesbury), and ten recruits, namely Lords Hay (Kinnoull), Mountjoy, Burton (Paget), Mansell, Middleton, Trevor, Lansdowne, Masham, Foley, and Bathurst. David Backhouse, "Tory Tergiversation In The House of Lords, 1714–1760" Archived 28 June 2006 at the Wayback Machine..
    20. ^ Szabo, I. (1857). The State Policy of Modern Europe from the Beginning of the Sixteenth Century to the Present Time. Vol. I, Longman, Brown, Green, Longmans and Roberts, p. 166
    21. ^ Churchill, W. (2002). Marlborough: His Life and Times, University of Chicago Press, ISBN 0-226-10636-5, pp. 954–955
    22. ^ Israel, J. I. (1995), The Dutch Republic: Its Rise, Greatness and Fall, 1477–1806, Oxford University Press,ISBN 0-19-873072-1 hardback, ISBN 0-19-820734-4 paperback, p. 978
    23. ^ Article II, Peace and Friendship Treaty of Utrecht.
    24. ^ Lesaffer. “The peace of Utrecht and the balance of power”. OUP Blog. 2018年5月5日閲覧。
    25. ^ Szechi, Daniel (1994). The Jacobites: Britain and Europe, 1688-1788 (First ed.). Manchester University Press. pp. 93–95. ISBN 978-0719037740 
    26. ^ Carlos, Ann; Neal, Larry; Wandschneider, Kirsten (2006). “The Origins of National Debt: The Financing and Re-financing of the War of the Spanish Succession”. International Economic History Association: 2. http://www.helsinki.fi/iehc2006/papers1/Carlos.pdf 2018年9月6日閲覧。. 
    27. ^ Vives Vi, Jaime (1969). An Economic History of Spain. Princeton University Press. p. 591. ISBN 978-0691051659 
    28. ^ Falkner, James (2015). The War of the Spanish Succession (Kindle ed.). 4173–4181: Pen and Sword Military. ASIN B0189PTWZG 
    29. ^ Kann, Robert A (1974). A History of the Habsburg Empire 1526–1918 (1980 ed.). University of California Press. pp. 88–89. ISBN 978-0520042063. https://archive.org/details/historyofhabsbur00kann 
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    34. ^ Elliott, John (2014). Dadson, Trevor. ed. The Road to Utrecht in Britain, Spain and the Treaty of Utrecht 1713–2013. Routledge. p. 8. ISBN 978-1909662223 
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    参考文献[編集]

    外部リンク[編集]

    • "The Treaties of Utrecht (1713)" Brief discussion and extracts of the various treaties on François Velde's Heraldica website, with particular focus on the renunciations and their later reconfirmations.


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