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リチャード・パンクハースト
Richard Pankhurst
人物情報
生誕 リチャード・キール・ペシック・パンクハースト
(1927-12-03) 1927年12月3日
イギリスの旗 イギリス
ハーリンゲイ区
ウッドグリーン英語版
死没 2017年2月16日(2017-02-16)(89歳没)
エチオピアの旗 エチオピア
アディスアベバ
出身校 ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス
配偶者 リタ・エルドン(結婚 1957年)
両親 シルビア・パンクハースト(母)
シルヴィオ・コリオ英語版(父)
子供 アルーラ・パンクハースト英語版(1962年生)
ヘレン・パンクハースト英語版(1964年生)
学問
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リチャード・パンクハースト OBE(Richard Pankhurst、1927年12月3日 - 2017年2月16日)は、イギリスの学者エチオピア研究所英語版創立メンバー、エチオピアにあるアディスアベバ大学の元教授[1]エドワード・ウレンドルフ英語版は、パンクハーストの著書 The Ethiopians について「エチオピア研究に対する彼の著しい勤勉さと努力」を証明するものであると学術誌の中で回想している。エチオピアにおける経済史と社会教養学研究者としても知られる[2][3][4][5]

若年期と教育

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左翼共産主義者であり、サフラジェットとして活動していたシルビア・パンクハーストと、イタリアの無政府主義者であるシルヴィオ・コリオ英語版の息子として、1927年にハーリンゲイ区ウッドグリーン英語版で生を受ける。母方の祖父母にはエメリンリチャード夫妻がいる。

パンクハーストはウッドフォードのバンクロフツ・スクール英語版で勉学に勤しんだ後、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス[6]において経済史の博士号を取得したが[7]、その時にアドバイザーとして活動していたのが政治学者のハロルド・ラスキである.[8]

経歴

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母親のシルビア・パンクハーストは1935年に起きた第二次エチオピア戦争以降、エチオピアの文化英語版と独立を支援する活動家となり、リチャードは多くのエチオピア難民を知るようになる[8]。シルビアはエチオピア帝国皇帝ハイレ・セラシエ1世の友人であり、1955年に Ethiopia, a Cultural History を刊行した。1956年、彼女はリチャードとともにエチオピアに移り住む[6]。リチャードはアディスアベバ大学で働き始め、1962年にはエチオピア研究所英語版の設立管理者となっただけでなく[7]Journal of Ethiopian StudiesEthiopia Observer も編集した[6]

ハイレ・セラシエ1世の死とエリトリア独立戦争の勃発を受けて、パンクハーストは1976年に研究所を去るだけでなく、アディスアベバ大学の教授職も辞した。イングランドに帰国した彼は東洋アフリカ研究学院とロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの特別研究員となったのち、以前働いていた王立アジア協会で図書館長を務めた[8]。1986年にエチオピアに戻った彼は研究所での研究を再開した[7]。そこでエチオピア史についての広範囲に渡る著書や論文を数多く発表した[9]

パンクハーストはアクスムのオベリスク英語版のエチオピア返還への運動を主導し、2008年にオベリスクはエチオピアに再設置された[6]。この結果を受けて、彼は北米ティグライ人連合(The Union of Tigraians of North America)からエチオピアの貴族と宮廷の称号のひとつ「デジャズマッチ英語版・ペンキルー(英語:Commander or general of the Gate;城門の司令官(または将軍)」の栄誉を受けた[10] 。「エチオピア研究英語版の功労」により2004年度女王誕生記念叙勲英語版の外交・海外部門において大英帝国勲章オフィサー(OBE)の称号を授かった[11]

私生活

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エチオピアに関する多数の著書に加え、パンクハーストは Sylbia Pankhurst: Artist and Crusader and Sylvia Pankhurst: Counsel for Ethiopia というタイトルで母親に関する作品を執筆した[6]

1957年にリタ・エルドン(1927年 - 2019年)と結婚し[12]、娘のヘレン英語版、息子のアルーラ英語版という2人の子どもたちを儲け、少なくとも1冊の本を共同で執筆している[13]

死と栄誉

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2017年2月16日、パンクハーストはエチオピアのアディスアベバで89年の生涯を終えた。エチオピアの外務大臣ウォルクネ・ゲベエフ英語版は「エチオピアにとって最も偉大な友人の一人である」と述べている[14]。同年2月21日、アディスアベバにある聖三位一体大聖堂英語版に埋葬された[15]

脚注

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  1. ^ 17th International Conference of Ethiopian Studies, General Program brochure, 1–5 Nov. 2009
  2. ^ Ullendorff, Edward (1998). “Review of The Ethiopians (The Peoples of Africa series)”. Rassegna di Studi Etiopici 42: 176–180. JSTOR 41299969. 
  3. ^ Pankhurst, Rita (2007). “RICHARD PANKHURST: Bibliography of Published Writings since 2000”. Journal of Ethiopian Studies 40 (1/2): 361–370. JSTOR 41988238. 
  4. ^ See also: Historical metrology
  5. ^ Bekele, Shiferaw (28 March 2018). “In memoriam Richard Pankhurst (1927–2017)”. Aethiopica 20. doi:10.15460/aethiopica.20.1.1137. 
  6. ^ a b c d e The Pankhurst Family, SylviaPankhurst.com
  7. ^ a b c Indrias Getachew, Dr. Richard Pankhurst — Historian, Race and History
  8. ^ a b c Close and Personal: Interview with Dr. Richard Pankhurst, Senamirmir
  9. ^ Tafla, Bairu (8 May 2013). “Professor Pankhurst and his Works. An Introductory Note”. Aethiopica 5: 10–14. doi:10.15460/aethiopica.5.1.443. 
  10. ^ UTNA RECOGNIZES RICHARD PANKHURST AS DEJAZMACH BENKREW!”. tigraionline.com. 2012年2月26日閲覧。
  11. ^ "No. 57315". The London Gazette (Supplement) (英語). 12 June 2004. p. 23.
  12. ^ Rita Pankhurst's obituary, 11 June 2019.
  13. ^ Rita Pankhurst, life-long friend of Ethiopia, laid to rest” (英語). Embassy of Ethiopia, London (2019年6月11日). 2021年11月10日閲覧。
  14. ^ Blomfield, Adrian (2017). “Ethiopians call for state funeral as Richard Pankhurst, champion of Ethiopian culture, dies aged 89”. The Telegraph (17 February). https://www.telegraph.co.uk/news/2017/02/17/ethiopians-call-state-funeral-richard-pankhurst-champion-ethiopian/ 2017年2月18日閲覧。. 
  15. ^ Fortune, Addis. “Richard Pankhurst, Renowned Scholar of Ethiopian Studies, Dies At 90” (英語). addisfortune.net. 2022年7月20日閲覧。