コンテンツにスキップ

利用者:Minosan22/sandbox

高橋竹之介(たかはし たけのすけ、1842年(天保13年) - 1909年11月7日(明治42年11月7日)は、幕末-明治時代の尊攘運動家。長岡市殿町に誠意塾を開く。大河津分水の建設に尽力した人物である。



生涯[編集]

越後国蒲原郡中之島村杉之森(現:新潟県長岡市中之島)で、高橋喜惣左衛門の次男として生まれる。与板斎藤赤城の塾に学ぶ。

尊皇攘夷運動[編集]

1862年、長善館(吉田町粟生津)に入門、1863年7月に杉之森を出発し西国遊学に出る。播州林田河野鉄兜に入門、森田節齋を訪問、讃岐丸亀の日柳燕石を訪れる。湊川の楠木正成の墓前で尊皇運動を誓う。1866年9月江戸の塩谷宕陰古賀謹一郎に入門する。

1867年2月、杉之森に帰郷し、同年5月に同志と仙台へ向かう。米沢で建白書「草莽建議」を提出。三島郡瓜生村金子清一郎宅で方義隊(後の居之隊)を組織し方針を決め、9月に京都に入り五条少納言に拝謁し澤家に仕える。

1868年、鳥羽・伏見の戦いが始まる。澤家世子使番となる。高倉永祜四条隆平越後府鎮撫使となり、竹之介は高倉永祜に拝謁し、北陸の情勢を陳べて鎮撫使に任命される。寺泊、弥彦、高田と移動し、方義隊(居之隊)が糸魚川に集結。官軍とともに小千谷、会津などを転戦し、11月20日京都で復命し、褒書・目録を賜る。委細は北征日史に詳しい。

1870年から1879年まで東京遷都の反対運動のため収監される。

誠意塾の開校と大河津分水への尽力[編集]

1883年、長岡市殿町に誠意塾を開く。門下生には頭山満、漢学者武石貞松丸田尚一郎など6百余名に達する。

1896年、横田切れの大水害が起こる。

1894年、「北越治水策」を山縣有朋松方正義に建白し、大河津分水の建設に尽力する。

1903年、誠意塾を閉塾。

1909年、11月7日69歳で没す。墓は長岡市真照寺。

1918年、11月18日正五位を贈位される。