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パレスチナ文学は、パレスチナ在住の作家やパレスチナにルーツを持つ作家による文芸作品を指す。主にアラビア語で執筆されており、英語やヘブライ語など他の言語による作品もある。パレスチナ難民は世界各地で暮らしており、周辺の中東諸国をはじめとする各地域で作品が発表されている。
歴史[編集]
パレスチナは近代までは明確な境界線がなかった。歴史上の記録としては、ヘロドトスの『歴史』でパレスティナが地名として登場し、レバノンからエジプトの間の地域を漠然と指している。アラビア語ではローマ時代の呼称にもとづいてフィラスティーン(ペリシテ人の地)と呼ばれている[1]。アラブとイスラエルの対立は聖書時代から自明として続いたものではなく、欧米の外交政策と近代の民族主義によって作られた経緯がある[注釈 1][3]。
オスマン帝国時代のパレスチナはシリアの南部と位置付けられ、レバノン、ヨルダン、イスラエルと共にシャームの地(ビラード・アッ・シャーム)と呼ばれた[4]。19世紀から20世紀初頭にかけての歴史書では、文化的・宗教的領域としてパレスチナが記されている[注釈 2][6]。19世紀に地中海蒸気船が開通して欧米の聖地巡礼者が急増し、欧米作家の文芸作品の題材となった[注釈 3][7]。欧米の宣教団体は教育施設を建設し、欧米の戯曲がカリキュラムに取り入れられた。1920年代にはエルサレムやナーブルスに劇団が設立され、古典アラビア語でオリジナルの教訓劇が上演された[注釈 4][9]。この時期に民話や民間信仰など伝統文化の収集がパレスチナ人によって行われた[10]。
オスマン帝国領は、1928年にイギリス委任統治領となった[11]。委任統治時代の教育は英語やフランス語でなされることが多く、中流以上の家庭出身の作家には、アラビア語を外国語のように努力して学ばなければならない者もいた[注釈 5][12]。
世界大戦期[編集]
第一次大戦後のパレスチナのアラブ社会は、シリアを含めた地域の統一を目標とするアラブ民族主義運動と、パレスチナを境界とする独立国家を目標とするパレスチナ郷土建設運動があった。委任統治によって政府系の学校には文芸クラブやアラブ・クラブ[注釈 6]が設立され、パレスチナではイギリス人統治とユダヤ移民に対抗するための復興運動が盛んになり、民族主義的な近代詩も発表された[14][13]。
1933年のナチス・ドイツ政権成立の影響でユダヤ人移民が増加し、パレスチナ農民が土地を失うことが増えたため、1936年にはアラブ大革命[注釈 7]とも呼ばれる抵抗運動が起き、反イギリスのゼネストが行われた。しかし抵抗はイギリスに鎮圧され、民族運動は衰退した[13]。
ナクバ(1948年)[編集]
1948年には、イスラエル建国と、それにともなうパレスチナ人の故国喪失が起きた。これはナクバと呼ばれる[14]。ナクバによってパレスチナ人の文芸活動は大きく2つに分かれた。難民として世界各地で創作をする者と、イスラエル領となった土地にとどまった者である。イスラエル領にとどまった者は移動を制限され、パレスチナ文化は停滞を余儀なくされた。そのためナクバ後の作家活動は、当初はパレスチナ難民が中心となった[15]。ナクバについては、体験した作家やその後の世代によってさまざまな作品が書かれている(#ナクバ、難民キャンプ参照)。
アラビア語文芸では1950年代から1960年代にかけて古典から現代的な表現への変化が起きた[14]。パレスチナ人はナクバの経験を通して伝統的な権威や価値観を疑い、新しい表現を追求した[14]。パレスチナやイスラエル領内に暮らすアラブの作家は、占領に対抗するアラビア語の詩を作り、抵抗詩と呼ばれて人気を呼んだ。他方でディアスポラの作家は、イスラエル政府によるアラビア語の言論統制がイスラエル・アラブの文学の妨げになっていると批判した[15]。
第3次中東戦争以降(1967年-1993年)[編集]
この時期には、ナクバで難民となった者の2世が若者や学生となっており、パレスチナに帰国した体験などを後に作品として発表した[16]。他方、第3次中東戦争によって新たに難民となったパレスチナ人作家もいた。1976年にはレバノン内戦の影響によってパレスチナ難民キャンプでタルザータルの虐殺が起き、1982年にはサブラーとシャティーラ難民キャンプでもサブラー・シャティーラの虐殺が起きた。これらは後に作品でも描かれた[注釈 8][18]。第3次中東戦争以降、イスラエル・アラブの作品もアラブ系出版社によって出版されるようになった[19]。しかし、パレスチナ経済はイスラエル経済に組み込まれ脆弱となった[注釈 9][21]。
オスロ時代(1993年-2000年)、オスロ時代以降(2000年-)[編集]
パレスチナ解放機構(PLO)とイスラエル政府によるオスロ合意が行われ、1994年にはパレスチナ自治政府が発足したが、他方でガザ地区は封鎖され移動が不便になった。イスラエル政府はパレスチナ人を国内の労働市場から排除し、オスロ時代のパレスチナは国民所得が36%減少した[22]。地中海に面したガザ地区と、内陸のヨルダンに面したヨルダン川西岸地区は分断された[23]。封鎖による失業と貧困でガザの経済はさらに悪化した[注釈 10]。イスラエル政府はテロリストの侵入を防ぐという理由で、2002年から分離壁の建設を開始した。分離壁はヨルダン川西岸とイスラエルの境界に建設され、停戦ラインよりもパレスチナ側に侵食している[23]。こうした状況をめぐる小説や戯曲も発表されている(#封鎖、分離壁参照)[24]。
ガザ地区での暮らしを描く作家や、難民として育った2世や3世の作家によって英語などの作品も発表されるようになった[25]。SNSとスマートフォンの普及によって、2014年のガザ侵攻では若い世代を中心に情報発信が行われた。多くは世界の読み手を意識して英語で書かれている[26]。
言語、地理[編集]
ナクバ前のパレスチナは、アラビア語話者が90%を占め、スンニ派を信仰していた。キリスト教徒やユダヤ教徒もアラビア語の話者が多数派だった[27]。ナクバ後のパレスチナ人は、次のように分かれることとなった。(1) パレスチナに留まった人々。(2) イスラエル領に留まった人々。イスラエル・アラブやイスラエルのアラブ系市民と呼ばれる。(3) 他の国や地域に避難した人々ディアスポラ・パレスチナ人と呼ばれる[注釈 11][30][31]。
ナクバから年月が経って世代交代が進んでおり、その状況をテーマとする作品も発表されている。また、アラビア語の他に、移り住んだ各地の言語でも創作が行われている(#世代交代、#言語の多様性参照)。
イスラエル領内[編集]
イスラエル・アラブ人やイスラエルのアラブ系市民と呼ばれる人々はナクバの時点で約15万人おり、イスラエルの人口の約2割を占め、パレスチナ人としての帰属意識を持つ者も多い。イスラエル・アラブ人はアラビア語を母語としつつ、イスラエルの国語であるヘブライ語も解する[注釈 12][32]。創作においてはアラビア語を使う者が多いが、ヘブライ語を使う者もいる[33]。ヘブライ語を選ぶ理由は作家の世代や作風によって異なるが、ヘブライ語を使う作家は、イスラエル社会への同化やパレスチナ人としての裏切りと見なされる場合もある[34]。
イスラエル建国によってアラブ世界の各地からアラビア語話者のユダヤ教徒が移住し、イスラエル文学におけるアラビア語作家となった[注釈 13]。アラビア語話者のユダヤ人のためにアラビア語の出版社が設立され、イスラエル・アラブ人作家の作品も出版された(#言語の多様性参照)[27]。
ディアスポラ・パレスチナ人[編集]
ナクバによって75万人のパレスチナ人が周辺諸国を中心に逃れた。パレスチナ難民の立場は受入国によって異なり、ヨルダンでは難民を含めてパレスチナ人には国籍が与えられ、選挙権・非選挙権がある。レバノンでは国連に登録されたパレスチナ難民も自活しているパレスチナ人も同じく難民と定義され、市民権がない[35]。レバノンのベイルートはアラビア語作品の出版が盛んで、パレスチナ系のメディアも発行された。そのためベイルートのパレスチナ系メディアで働く作家もいた(#出版、イベント参照)。
作品形式[編集]
詩[編集]
ナクバ以前から活動していた近代詩人としては、イブラーヒム・トゥカーンやファドゥワ・トゥカーンが知られている。イブラーヒムはナーブルスの名家の出身で民族主義を作風とした[14]。ファドゥワはイブラーヒムの妹にあたり、若くから詩才を発揮した。文芸におけるアラブ現代詩の変化と、女性の解放やナショナリズムなど社会の変化の双方を受けて独自の世界を築き、パレスチナ人の抵抗の支えとなった[36]。
世界大戦後のアラブ詩にはタンムーズ派(Tammuzi Movement)と呼ばれる集団が生まれ、パレスチナ詩人からはイラク在住のジャブラー・イブラーヒーム・ジャブラー、アメリカ在住のタウフィーク・サーエグ、ヨルダン在住のサルマ・ジャユースィーらも参加した。バビロニアの豊穣と復活の女神タンムーズを象徴として、アラブ世界の未来を思い描いた詩人たちで、1960年代にはパレスチナ問題に取り組んだ[注釈 14][37]。ジャブラー・イブラーヒーム・ジャブラーはイラクで暮らしながら自らの大地としてパレスチナを詠った。タウフィーク・サーエグは具象を抽象化するスタイルを持ち、カリフォルニア大学バークレー校でアラビア文学を教え、『対話』という文芸誌を主宰した[38]。
他方、占領下で暮らす詩人は抵抗詩を創作し、日常の言葉を使いつつレジスタンスと希望を詠った[39]。抵抗詩の第一人者マフムード・ダルウィーシュは『希望』という作品を出発点としている。この詩が収録された『抵抗詩』というアンソロジーがアンマンで出版されると、パレスチナやアラブ世界に口伝えで内容が広まった[40]。ダルウィーシュは祖国に帰還する願いも表現し、パレスチナ人だけでなく世界的に読まれた。レバノン内戦(1982年)でイスラエル軍がレバノンに侵攻した際、ベイルートに住んでいたダルウィーシュはムイーン・ブセイソウとともに爆撃を受けながら長編詩を執筆し、『包囲の中から - イスラエル兵士への手紙』として発表した[41]。広島を訪れた際には、自身が体験したレバノンでの絨毯爆撃と原爆の記録を重ね合わせた『忘れやすさのための記憶』(1995年)を発表した[42]。同じく抵抗詩を書いた作家としてハールーン・ハーシム・ラシード(Harun Hashem Rashid)、サミール・アル・カースィム、タウフィーク・ザイヤードらがいる[39][15]。
アシュラフ・ファイヤードはサウジアラビア出身の難民2世で詩人・芸術家として活動している。詩集『内部の指示』(2008年)の内容が背教の証拠だとして勧善懲悪委員会に告発され、死刑宣告を受けた。各国の作家や国際ペンクラブが抗議したため減刑がされたが、いまだ獄中にいる[43]。
リファアト・アルアリイールはガザ・イスラーム大学で比較文学を教え、ガザを記録する活動や、若い世代に創作を教える活動をしていた。2023年にイスラエル軍の攻撃で死亡し、生前に発表した「私が死ななければならないのなら、あなたは必ず生きなくてはならない」という詩は世界各地で共有されている[注釈 15] [45]。
パレスチナの詩は音楽にも使われており、シンガーソングライターのザイナブ・シャース(Zeinab Shaath)は、パレスチナへの帰還を詠ったアブド・アル=ワッハーブ・バヤーティの詩を英訳し、哀愁のメロディーを付けて歌った[41]。
戯曲[編集]
1920年代から欧米の学校教育の影響で劇団が増え、1940年代には数十の劇団が存在した。その後はナクバの影響で上演の機会が減り、1966年にパレスチナ・アラブ演劇協会が設立された。同協会は演劇でパレスチナ問題を伝えることを目的としてアラブ諸国で上演を行い、1970年にはパレスチナ国民劇団も設立された。これらの劇団にはシリアやイラクの演劇家も参加し、第3次中東戦争以降は政治的な抵抗演劇が活発になった[注釈 16][47]。
1970年にジョルジュ・イブラーヒームがアル・カサバ・シアターを設立し、1970年代にエルサレムを拠点に公演を行い、1980年代に論争的なテーマや実験的な形式を導入した。1998年にラマッラーのアル・ジャミール映画館を改装し、複合文化施設のアル・カサバ・シアター・アンド・シネマティックを開設した[注釈 17][48]。アル・カサバ・シアターは、イスラエルの俳優イナト・ヴァイツマン作の『パレスチナ、イヤーゼロ』(2016年)などイスラエルの戯曲も上演している。この作品は、パレスチナの家屋破壊をテーマとして占領政策を批判している[49]。
1971年にフランソワ・アブー・サーレムが設立したバラリーン劇団は、日常を舞台にしてイスラエルの占領政策やパレスチナ社会の保守性を批判する即興劇がレパートリーだった。アブー・サーレムのアル・ハカワーティー劇団は、ヨルダン川西岸や周辺村落の他にタブーとも言われたテルアビブでの公演も実現して1993年まで活動し、パレスチナ演劇の発展に影響を与えた。アル・ハカワーティー劇団の『シャンマ村』(1987年)は、パレスチナ人留学生が破壊された故郷を目にするという物語だった。アル・ハカワーティー劇団はエルサレムの映画館をパレスチナの演劇センターとして整備してレジデント・カンパニーを運営し、劇団の解散後はパレスチナ国立劇場となっている[50]。ハイファのアル=ミーダーン劇場、ヘブロンのイエス・シアターなどでもパレスチナ作家が活動しており、ターヘル・ナジーブ、イーハーブ・ザーイダ、ヤーセル・アブー・シャクラなどの作家がいる[48]。
オスロ合意以降は演劇のNGOが増え、2000年代の教育カリキュラムで高校のアラビア語・アラビア文字の最終課に演劇が入った。児童向けの演劇や児童が演じる演劇も盛んとなっている。俳優のアルナ・メールはジェニーン難民キャンプで子供に演劇を教え、息子のジュリアーノ・メール・ハミースはジェニーンにフリーダム・シアターを開設したが、2011年に暗殺された[注釈 18][51]。
小説[編集]
エミール・ハビービーはイスラエルでジャーナリストや政治家として活動しながら執筆し、『悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事』(1974年)で著名になった[注釈 19]。故郷の港湾都市ハイファを舞台として、イスラエルに留まることの葛藤、パレスチナ文化の重層性、難民となったパレスチナ人との再会、記憶と忘却などをテーマに書き続けた[注釈 20][54]。
ガッサン・カナファーニーはナクバによってシリアへ逃れて育ち、クウェート、レバノンと移り住みながら政治活動と創作を行った。政治活動ではパレスチナ解放人民戦線(PFLP)のスポークスマンとなり、創作では小説、戯曲、翻訳を発表した[55]。カナファーニーの小説は全てがパレスチナ問題に関係している。幼少期の難民体験をもとにした『悲しいオレンジの実る土地』(1963年)、教員時代と難民児童をもとにした『路傍の菓子パン』(1959年)、難民キャンプを舞台とした『盗まれたシャツ』(1958年)、炎天下の給水車に隠れて国境を越える難民を描く『太陽の男たち』(1962年)、パレスチナ問題に無関心な世界を批判した『彼岸へ』(1962年)、息子がフィダーイーとなった母親の心情を描く『サアドの母』(1969年)、パレスチナへ帰還した者が体験する断絶を描く『ハイファに戻って』(1970年)などがある[注釈 21][57]。カナファーニーはベイルートではアル・ムハッリル(Al Muharrir)、アル・アンワル、アル・ハダフなどのパレスチナ系新聞にも務めていたが、1972年に暗殺された[注釈 22][59]。
エッセイ、ノンフィクション[編集]
ホロコーストと同様の問題がパレスチナで反復されているという指摘は、文学者のエドワード・サイードらによってなされた。サイードは『パレスチナ問題』(1980年)でイスラエル政府とともにアラブ世界の抑圧的な政治も批判し、PLOとファタハの反発を招いた。このためサイードのパレスチナやアラブに関する著作はアラビア語に翻訳されなかったが、ヘブライ語には翻訳されてイスラエルの反体制派から好意的な反響を呼んだ[60]。
ピアニスト・詩人でPLOパリ事務所の代表だったイブラーヒーム・スースはフランス語で創作し、『ユダヤ人の友への手紙』(1988年)では架空のユダヤ人に呼びかける形式を取った[61]。スースはパレスチナがダヴィデでイスラエルをゴリアテに喩え、イスラエル政府の政策をナチス・ドイツ、パレスチナ人をナチス政権下のユダヤ人に喩えている[62]。また、ジェノサイドという表現をユダヤ人へのホロコーストとともにパレスチナ人の体験や20世紀初頭のアルメニア人虐殺にも当てはめて語った[63]。
占領地のパレスチナ人によるノンフィクションとして、サイード・アブデルワーヘド(Said Abdelwahed)の『ガザ通信』(2009年)やアーティフ・アブー・サイフの『ガザ日記』(2024年)がある。前者はアズハル大学の英文学教授がイスラエル軍の攻撃を受けながらメールで送った記録で、後者は2023年パレスチナ・イスラエル戦争以降の作家の記録となっている[注釈 23][65][66]。
SNSによって匿名の作者の発信が容易となった。2014年のガザ侵攻の際は「12秒間の電話」という匿名の英語エッセイが知られている。この題名は、イスラエル軍が民間施設を攻撃する前に事前警告をする電話を指しており、警告の電話を受けて10分以内に住み慣れた場所を去らなければならない想いが書かれている[26]。
パレスチナやアラブ社会の現状を伝えることを望む作家が、ノンフィクションやドキュメンタリー映像の製作を手がける場合もある。リヤーナ・バドルは小説『鏡の目』発表後に映像作家となった。アリー・クルディーはジャーナリストとしてアルジャジーラのドキュメンタリーに参加し、シリアのハーフィズ・アル=アサド政権の弾圧を題材とした『カーキ色の記憶』(2016年)でシナリオを担当している[67]。
児童書[編集]
ナクバの後、ガザ地区やヨルダン川西岸の難民の子供にとって教育の問題が起きた。パレスチナ自治政府は、アラブの若者社(Dar al-Fata al-Arabi)をベイルートに設立し、1970年代から児童書を出版した。当時は児童書が少なかったアラブ世界において、同社の出版物は好評を呼んだ[68]。パレスチナからは、母親が仕事をしている間に他の人に世話をしてもらう女の子の物語『誰がヤスミンのために歌うの?』(2002年)、「家事は女の子のすることだ」と言う男の子に共同作業の楽しさを教える『一緒に』(2002年)、仲の悪い猫がお互いの耳を取り替えることで言い分を理解する『黒い耳、黄色の耳』(2002年)などが出版されている[69]。
アメリカ在住のネオミ・シーハブ・ナイはナクバでアメリカに移住した父を持ち、第3次中東戦争前の1967年に家族でパレスチナに滞在した体験をもとに『ハビービー』(1997年)を執筆した。この作品は1998年のジェーン・アダムズ児童図書賞を受賞した[注釈 24][70]。
民話[編集]
伝統文化についてパレスチナ人による研究が行われている。医師でもあるタウフィーク・カナアーンは、パレスチナの民話、民間信仰、工芸品を収集し、オスマン帝国末期から委任統治時代をへてナクバ後にいたるまで活動した。1920年代には伝承や習俗についてドイツ語や英語の論文を著し、1947年にシオニスト軍による作戦が始まったあともドイツ人の妻とともにパレスチナに留まった。しかしエルサレムの自宅は掠奪を受け、未発表の論文、書簡、資料は失われた[注釈 25][71]。
1970年代から1980年代にかけて、社会学者のイブラーヒーム・ムハッウィーと民俗学・人類学者のシャリフ・カナーアナがパレスチナの民話を収集し、約200話を英語書籍『Speak, Bird, Speak Again』として発表した。のちにアラビア語版も出版され、パレスチナのアイデンティティの貴重な記録となっている。収集した民話から12話が選ばれてアラビア語の絵本として出版された[72]。
作品テーマ[編集]
ナクバ、難民キャンプ[編集]
リヤーナ・バドルは小説『鏡の目』(1991年)で、レバノンの難民キャンプに住む少女の目を通してタルザータルの虐殺を描いた。バドルは執筆にあたり生存者の証言を集め、15年間をかけて本作品を完成させた[注釈 26][74]。ナクバ後に生まれた世代もナクバをテーマとして受け継いでおり、スーザン・アブルハワの小説『ジェニンの朝』(2010年)などがある。アダニーヤ・シブリーの小説『とるにたらない細部』(2017年)は、現代のパレスチナ女性が、1949年にアラブ人少女がイスラエル兵士たちに性暴力のうえ殺害された事件を知って調査を進めてゆく[注釈 27][76]。
封鎖、分離壁[編集]
イスラエルが建設した分離壁をテーマにした作品として、アズミー・ビシャーラの 『アル=ハージズ(壁)』(2004年)がある。女性の語り手をめぐる1年間が断章となり、分離壁や検問所の光景やありふれた会話、壁がもたらした現象が詳細に書かれているためパレスチナ社会の資料としても読める[77]。ラマッラーの劇団アルカサバ・シアターは、占領下の物語をテーマとした『壁 - 占領下の物語Ⅱ』(2005年)で、壁の周囲の人々の生活や苦難を表現した[24]。
イスラエル領内[編集]
アターッラー・マンスールのヘブライ語小説『新たな光のもとで』(1966年)は、イスラエル建国の混乱で孤児となったアラブ人が、父の友人のユダヤ人の息子としてキブツで暮らす物語だった[29]。ムハンマド・ナッファーウの作品では1966年までのイスラエル軍政時代が詳細に書かれており、『運転免許証』(2001年)ではイスラエル・アラブ人の苦難が衒学的に語られる。イスラエルに残ったアラブ人のイスラエル共産党員が、特権としてソ連で運転免許証を取得するが、それが原因で困難に見舞われてしまう[78]。
サイイド・カシューアはイスラエル・アラブ人のアイデンティが揺れ動くさまを寓話的・非現実的な設定の小説で描いてイスラエル国内で好評を得ている。『踊るアラブ人』(2002年)ではユダヤ人の寄宿学校に送られた少年がユダヤ人を模倣して生活し、アラブを嫌悪しユダヤを称賛する。『そして夜が明けると』(2004年)は、アラブ人ジャーナリストが、自分たちがイスラエルで隔離され阻害されていることに気づくまでを寓話的に描く[79]。『ヘルツェル真夜中に消える/シンデレラ』(2005年)は、昼間はユダヤ人、真夜中はアラブ人に変わる体質の主人公が登場するファンタジーになっている。『二人称 単数』ではアラブ人の弁護士とソーシャル・ワーカーの2人が主人公となり、弁護士は社会的に成功してもユダヤ人にはなれないことで精神が不安定になり、ソーシャル・ワーカーは介護していたユダヤ人が死亡したことでその人物になりすます。どちらのアラブ人もユダヤ人の紛い物になろうとしているという皮肉が込められている[80]。
ジェンダー[編集]
イスラエルの占領への対抗だけでなく、パレスチナ社会の問題に注目した作品もある。サハル・ハリーファは、パレスチナの男性中心的で保守的な面を批判している[注釈 28][25]。ルーラ・ジブリールの自伝的小説『ミラル』(2005年)は、孤児院の少女が児童婚や家事などパレスチナ社会の不平等を見聞きし、強い女性院長のもとで学び成長してゆく。院長のヒンドゥ・フセイニは、孤児たちを教育する活動で知られた人物だった[82]。
詩人のスヘイル・ハンマードはニューヨークのブルックリンでヒップホップやアラビア語詩を愛好しながら育ち、やがてパレスチナ人や有色の女性としての意識を込めて『パレスチナ人として生まれて、黒人として生まれて』(1996年)でデビューした。ハンマードはパレスチナを故郷として表現している[83]。
ジョージ・エイブラハムはさまざまな境界をテーマとしており、性別二元論、占領者と被占領者、正しさの定義とそこから外れた存在などを象徴的につなげることで、安易な線引きを批判する。クィアやカミングアウトなど身体や性のあり方も作中に登場する[84]。
世代交代[編集]
1948年にパレスチナを去ったディアスポラ・パレスチナ人は2世以降の世代も誕生している。そのため現地の市民権を取る者や、パレスチナやアラビア語について知らない者もおり、そうした背景の作品が増えている[83]。
ガッサン・カナファーニーは『ハイファに戻って』で、ナクバを逃れたのちに帰還した夫妻とイスラエル領に残されて成長した子供を通して、人間とは何かを問いかけた[注釈 29][86][87]。ネオミ・シーハブ・ナイの『ハビービー』は自らの体験をもとにして、父親の故郷パレスチナでの生活を語った[16]。パレスチナ人作家とエジプト人作家を両親にもつタミーム・バルグーティは、長編詩『エルサレムにて』(2007年)で現実を淡々と、時には辛辣に描き、アラブの同胞を励ましている[注釈 30][88]。
2世や3世の作家は、住んでいる土地とパレスチナの間でアイデンティティに悩んだり、精神的な距離感をテーマにした作品も多い。エドワード・サイードの娘ナジュラー・サイードは、アメリカの白人社会で育ったためにアラブ人としての自己像を否定した体験と、ルーツとしてのパレスチナを探した自伝として『パレスチナを探して』(2013年)を発表した[89]。ヒューストン在住のファーディ・ジューダはパレスチナ人としての問いや、子供にどう伝えるかの悩みなどを自由詩で表現する他、ダルウィーシュらのアラビア語詩を英訳している。アメリカ各地を転々として育ったハーラ・アルヤーンは、個人の感覚や苦悩が歴史的な記録や記憶と結びつくタイミングを注視し、覚えていなければならないのに忘れてしまったという喪失感を描く[90]。サイイド・カシューアは、イスラエル・アラブ人の若い世代が社会で断絶し、継承するパレスチナ文化が明らかではない状況を描き、「私は誰なのか」や「誰でもない自分」をテーマとしている[91]。
シリア出身のアリー・クルディー(Ali Al-Kurdi)は、自伝的小説『シャマアーヤ邸』(2010年)でダマスカスのユダヤ人街で成長するパレスチナ人を通して、シリアのパレスチナ人にとっての故郷を表現した[注釈 31]。また、抵抗活動だけでなく日常生活を通した女性像や母親像の多様さも語られている。アラブ諸国をへてアメリカで暮らすようになった女性の子供が異なる道を歩み、イスラーム主義に傾倒する者、アメリカ文化に同化してイラク戦争へ派遣される者、母親のパレスチナへの想いを継ぐ者に分かれてゆく[93][67]。
言語の多様性[編集]
イスラエル・アラブ人はヘブライ語でも創作を行い、アターッラー・マンスールはアラブ人初のヘブライ語小説として『コーヒー二つ』や『新たな光のもとで』(1966年)を執筆した。アントン・シャンマースの『アラベスク』(1986年)は、ポストモダン文学の文体によるヘブライ語とメタ・フィクションの構成によって国内外で好評を受けた[94]。アラビア語とヘブライ語の双方で詩を中心に創作する作家として、ドゥルーズ派のナイーム・アライディやサルマーン・マサールハらがいる[29]。
パレスチナからカイロをへてアメリカ在住となったエドワード・サイードは、英語で執筆をした。自伝『遠い場所の記憶』の原題 Out of Place は「場違い」を表しており、住む場所、言語、文化などさまざまな場違いの感覚が含まれている[95]。パリで暮らしたイブラーヒーム・スースはフランス語の詩集や小説を発表した[注釈 32][96]。ワリド・ナブハンはヨルダンに逃れた親のもとで育ち、マルタ共和国で暮らしながらマルタ語で自作を発表しつつ、マルタ語の現代文芸をアラビア語に翻訳している[97]。
イスラエル・アラブ人の作家には、イスラエル社会でアラブ人の存在を主張するためにヘブライ語を選ぶ者もいる[98]。また、3世以降のイスラエル・アラブ人はヘブライ語がアラビア語と同様に自明の言語であり、パレスチナの文芸作品が自明のものではない状況となっている[注釈 33][99]。
歴史記述[編集]
パレスチナ社会では史料の散逸と地域の分断によって1948年の公的な記録をまとめることが困難になっており、オーラル・ヒストリーの手法がとられている[注釈 34][101]。1970年代にパレスチナのオーラル・ヒストリーの発表が始まり、ナクバによる追放や難民化について記述した[注釈 35][102]。ヨルダン川西岸地区のビルゼイト大学にはパレスチナ社会研究・記録センター(CRDPS)が設立された。同研究所では「破壊されたパレスチナ人村」というシリーズが出版され、イスラエル建国によって破壊された22村落の証言を集めた[101]。かつてのパレスチナの村落の記録として歴史的パレスチナの地図を使い、難民との共同執筆によって多様性を追求した。証言を集める過程で、話し方が村によって異なる点があるなどの多様性も明らかになった。また、イスラエルとの1948年論争における対抗戦略としても研究がなされた[注釈 36][104]。同研究所の活動は、ビルゼイト大学のパレスチナ史料集積プロジェクトに引き継がれた[105]。
ロシャル・デイヴィス(Rochalle Davis)はガザ地区、西岸地区、イスラエル領、ヨルダン、シリア、レバノンの難民によって書かれた村落の歴史を120冊以上収集して内容を論じている[100]。インターネットの普及でパレスチナ難民のコミュニケーションが増え、アメリカではWebサイト「記憶されるパレスチナ」が設立され、305村落についての証言を公開した[注釈 37]。レバノンではWebサイト「ナクバ・アーカイヴ」がレバノンの難民キャンプの証言を公開している[注釈 38][106]。シリアではダール・シャジェラ(本の出版社)がパレスチナ人のオーラル・ヒストリー収集事業を行なっていたが、シリア政府軍によるヤムルーク難民キャンプへの攻撃で代表のガッサン・シハービーが死亡した[92]。
出版、イベント[編集]
アラビア語の作品は、レバノンのベイルートとエジプトのカイロでの出版が盛んで、ベイルートで出版された作品は国際的に流通しやすかった[注釈 39]。1950年代から1960年代にはベイルートの出版業がカイロを抜き、パレスチナの作家や知識人もベイルートを活用した[注釈 40][108][107]。 1958年にタシケントで第1回アジア・アフリカ作家会議が開催され、パレスチナの作家も参加した[注釈 41][109]。
イスラエル領内のアラビア語出版は、イラク出身のユダヤ人によるアラビア語の新聞や雑誌が中心だった。イスラエル・アラブの作家はそれらのメディアを発表の場として創作が活発になった[15]。1960年代後半には、アラビア語系の出版社がイスラエル・アラブの作家の作品を相次いで出版した。その理由は、(1) 第3次中東戦争によってヨルダン川西岸とイスラエル領内の交流が増えたこと、(2) イスラエル・アラブ人の存在が認知されるようになったこと、(3) イスラエル領内で発行されていたアラブ人向けのメディアが終刊したことなどがある[19]。アラビア語の作家は、自国での検閲を避ける手段としてもベイルートで出版を行った[注釈 42][110]。
1980年代以降はアメリカを中心に英語などの他言語に翻訳された[109]。シリアでは、ダマスカスを拠点としたPFLPがシリアやアラブ世界の有識者の協力を得て、1990年代に全8巻の『課題と証言』シリーズを出版した。同シリーズは「独裁者や権力者ではなく、祖国や国民国家を基盤としたアラブ民衆の連帯は実現できるのか」というテーマを基調とし、第3巻は『文学・現実・歴史』という特集で文化の再興や小説における啓蒙を論じた[111]。
2000年代以降は、シリア出身のパレスチナ人作家や、シリア在住のパレスチナ人作家がダマスカスの出版社で小説を発表した。パレスチナの経験やアイデンティティを通したシリア社会が表現されており、シリア人作家にはない視点が注目されている[112]。ベイルートはアラブ世界の出版の中心地の一つだったが、2006年にイスラエル軍のベイルート攻撃によって被害を受けた[107]。
主な作家[編集]
- ハリール・サカーキーニー(1878-1953)
- イブラーヒム・トゥカーン(1905年-1941年)
- ファドゥワ・トゥカーン(1917年-2003年)
- ジャブラー・イブラーヒーム・ジャブラー(1919年-1994年)
- エミール・ハビービー(1922年–1996年)
- タウフィーク・サーエグ(1923年-1971年)
- サルマ・ジャユースィー(1925年-2023年)
- ハンナー・アブー・ハンナー(1928年-2022年)
- タウフィーク・ザイヤード(1929年–1994年)
- ターハー・ムハンマド・アリー(1930年-2011年)
- アターッラー・マンスール(1934年-)
- ガッサン・カナファーニー(1936年-1972年)
- サリーム・ジュブラーン(Salim Jubran)(1939年-2021年)
- サミール・アル・カースィム(1939年-2014年)
- タウフィーク・ファイヤード(Tawfiq Fayyad)(1939年-)
- ムハンマド・ナッファーア(1940年-2021年)
- マフムード・ダルウィーシュ(1941年-2008年)
- サハル・ハリーファ(1941年-)
- ザキー・ダルウィーシュ(Zaki Darwish)(1944年-)
- イブラーヒーム・スース(1945年-)
- エリアス・サンバー(1947年-)
- アントン・シャンマース(1950年-)
- ナイーム・アライディ(1950年-)
- リヤーナ・バドル(1950年-)
- ネオミ・シーハブ・ナイ(1952年-)
- サルマーン・マサールハ(1953年-)
- アリー・クルディー(Ali Al-Kurdi)(1953年-)
- イブラーヒーム・ナスラッラー(1954年-)
- アズミー・ビシャーラ(1956年-)
- ワリド・ナブハン(1966年-)
- スーザン・アブルハワ(1970年-)
- ファーディ・ジューダ(1971年-)
- アーティフ・アブー・サイフ(1973年-)
- スヘイル・ハンマード(1973年-)
- ルーラ・ジブリール(1973年-)
- アダニーヤ・シブリー(1974年-)
- サイイド・カシューア(1975年-)
- リファアト・アルアリイール(1979年-2023年)
- アシュラフ・ファイヤード(1980年-)
- アイマン・シクセック(1984年-)
- ワイアット・アル・フセッシーニ(1986年-)
- ハーラ・アルヤーン(1986年-)
- ジョージ・エイブラハム
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ イスラーム統治下では、宗教共同体は納税をすれば自治を認めるズィンミー制度があった[2]。
- ^ たとえばアラブ民族主義者のナズィーズ・アーズリーの1908年の論文、アレクサンドル・ショルヒの記述、それらに依拠したラシード・ハーリディーの研究など[5]。
- ^ マーク・トウェインの『イノセント・アブロード』(1869年)やセルマ・ラーゲルレーヴの『エルサレム』(1901年-1902年)がある[7]。トウェインはパレスチナの人々を差別的に描写し、ラーゲルレーヴは『エルサレム』でノーベル文学賞を受賞した。
- ^ エルサレム旧市街はムスリム地区、キリスト教徒地区、ユダヤ教徒地区、アルメニア教徒地区に分けられるが、この区分は19世以降の欧米の旅行者が始めたもので厳密ではない[8]。
- ^ ガッサン・カナファーニーはフランス系のミッションスクールに通ったため、アラビア語は後年に身に付けた[12]。
- ^ それぞれアラビア語ではアル=ムンタダ・アル=アダビー、アル=ナーディー・ アル=アラビーと呼ぶ[13]。
- ^ アラビア語でアッ=サウラ・アル=アラビーヤ・アル=クブラーと呼ぶ[13]。
- ^ サブラー・シャティーラの虐殺がイスラエル軍の暗黙の支持によって起きたことを受けて、テルアビブでは抗議デモ「ピース・ナウ!」が行われ40万人が参加した[17]。
- ^ パレスチナ人はイスラエル領内で労働に従事していたが、差別待遇やイスラエル政策に対するパレスチナ人の不満によって1987年にインティファーダが起きた。これに対してイスラエル政府はパレスチナ人の雇用を減少させていった[20]。
- ^ 2004年の選挙でハマース主導の政権が成立すると国際援助が停止された[23]。
- ^ 難民として暮らした作家としてガッサン・カナファーニーらがいる。イスラエル領内で活動した作家としてサミール・アル・カースィム、タウフィーク・ザイヤード、タウフィーク・ファイヤード(Tawfiq Fayyad)、ターハー・ムハンマド・アリーらがいる。小説家エミール・ハビービーや詩人マフムード・ダルウィーシュは、一度パレスチナを離れたのちにイスラエル国籍を取得した[28][29]。
- ^ ヘブライ語はイスラエルにおいて教育、就職、兵役などの際に必要となり、生活のために身につけるイスラエル・アラブが多い[32]。
- ^ アラビア語圏は西アジアから北アフリカのアラブ世界にかけて広がり、ムスリムだけでなく各地のキリスト教徒やユダヤ教徒もアラビア語話者が多数を占めた。イスラエル建国にあたって各地のユダヤ教徒がイスラエルに移住したため、アラブ世界のユダヤ教徒コミュニティはほぼ消滅した[27]。
- ^ タンムーズ派の詩人として他にサイヤーブ、レバノンのハリール・ハーウィー、ユースフ・アル・ハール、シリア出身のアドニスらがいる。また、タンムーズ派の作風には、T・S・エリオットの『荒地』が影響を与えていた[37]。
- ^ アルアリイールの詩をタイトルにした展覧会がヘンク・フィシュ(Henk Visch)のキュレーションで開催された[44]。
- ^ たとえばモイーン・ビスースィーの戯曲『ザンジュの乱』(1971年)は、アッバース朝時代に反乱を起こした黒人奴隷をパレスチナ人にたとえている[46]。
- ^ ジョルジュ・イブラーヒームはラマッラー出身で、ナクバにより難民としてアンマンで成長し、ヘブライ大学で演劇を学んだ。アラビア語の戯曲を15作発表している[24]。
- ^ その後、アルナの教え子が2002年のイスラエル軍による攻撃で死亡していたことが明らかとなった[51]。
- ^ ハビービーが文学の世界に入ったきっかけは、「イスラエルに残留したパレスチナ人は存在しない。存在しているのなら彼らを表現する文学があるはずだ」というイスラエル政府高官の発言だった[52]。
- ^ ハイファはイスラエル北部最大の都市で、貿易、石油工業、IT産業の企業が多い。またカルメル山は預言者エリヤが生誕した聖地としても知られる[53]。
- ^ 『太陽の男たち』が1973年に映画化された際、タウフィーク・サーレフ監督は当時のパレスチナの状況に合わせて終盤の展開を変更し、原作者カナファーニーも納得をした[56]。
- ^ カナファーニーの自動車に爆弾が仕掛けられており、同乗していた姪のラミースも死亡した[58]。
- ^ イスラエル人によるノンフィクションとしては、ハアレツの記者アミラ・ハスが占領地特派員として1993年からパレスチナ人と暮らし、『ガザの海水を飲みながら』(英語版1993年)や『パレスチナから報告します』(英語版2003年)を発表した[64]。
- ^ 同賞は世界平和、相互理解、人権に寄与する児童小説に与えられる[70]。
- ^ カナアーンは当時は少なかったアラブ人の内科医で、パレスチナのハンセン病院の院長を務めた[71]。
- ^ 同じくレバノンで起きたサブラー・シャティーラの虐殺は、フランスの作家ジャン・ジュネの『シャティーラの4時間』や、レバノンの作家ワジディ・ムアワッドの『アニマ』(2012)でも書かれた[73]。ジュネは遺作『恋する虜』(1986年)でもパレスチナをテーマにした。
- ^ ナクバをテーマとした非パレスチナの作家では、エジプトのラドワー・アシュールの長編小説『タントゥーラの女』(2010年)があり、虐殺を体験した女性を主人公にしている[75]。
- ^ 難民キャンプの生活は、キャンプの外よりも保守的な傾向にあり、経済的な事情も影響している[81]。
- ^ 『ハイファに戻って』の後半で登場人物が語る「人間とはその一人ひとりがひとつの大義である」とは、ラルフ・ワルド・エマーソンのエッセイ『自己信頼』の一節から来ている[85]。
- ^ バルグーティはエジプト革命では詩を書いてタハリール広場の人々を励ました。父はパレスチナの詩人ムーリド・バルグーティ、母はエジプトの英文学者・小説家のラドワー・アシュール[88]。
- ^ クルディーはダマスカスの学校に通っていた際、当時教員をしていたカナファーニーに会ったことを覚えている[92]。
- ^ 詩集『オリーブの花』(1985年)や『ゴリアト』(1989年)、小説『エルサレムから遠く離れて』(1987年)や『影のバラ』(1989年)などがある[96]。
- ^ カシューアの小説『踊るアラブ人』では、アラビア語を読みたくない世代が、親の本棚でダルウィーシュやハビービーなどの作家を知っておくために「ちらっと」確認する場面がある[99]。
- ^ パレスチナの史料の散逸はイスラエルの収奪も影響している。ユダヤ国立・大学図書館は、イスラエル軍との共同作戦でパレスチナ人から3万冊の書籍を押収した[100]。
- ^ 先駆的な記録として、ベイルート在住のイギリス人ローズマリー・サーイグやイスラエル・アラブのナーフェズ・ナッザール(Nāfiz Nazzāl)の活動がある[102]。
- ^ 証言の収集によって、シオニストによるパレスチナ人の虐殺が予想以上の規模であることが判明した。デイル・ヤーシーンやダワーイマに限らず、アブー・シューシャ、ティーレット・ハイファー、ザルヌーカでの虐殺の証言も収集された[103]。
- ^ 「記憶されるパレスチナ」の公式サイトはPalestine Remembered, al-Nakba 1948-
- ^ ナクバ・アーカイブはベイルート・アメリカン大学や、大衆芸術のためのアラブ資料センター(Arab Resource Center for Popular Arts(ARCPA) / Al-Jana)の協力を得ている。公式サイトはNakba Archive أرشيف النكبة[106]。
- ^ 「カイロで書かれ、ベイルートで印刷され、イラクで読まれる」とも言われた。知識人の中心地としてはカイロが著名だった[107]
- ^ その他のアラブ世界で出版が盛んな地域にはヨルダンやサウジアラビアがある[107]。
- ^ それをきっかけにA・A作家会議日本評議会が設立され、アラブ文化人を招いて訪日と交流が行われた[109]。
- ^ たとえばエジプトの作家サーダウィーは、エジプトでの検閲を避けるために1970年代にベイルートで出版した[110]。
出典[編集]
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- エドワード・サイード 著、四方田犬彦 訳『パレスチナへ帰る』作品社、1999年。
- 四方田犬彦『サイードとパレスチナ問題』。
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- 佐藤愛「未来の「パレスチナ」 在米ディアスポラ詩人スヘイル・ハンマードにおける 'home'と'people'」『日本中東学会年報』第34巻第2号、日本中東学会、2018年、71-97頁、2024年6月11日閲覧。
- 杉浦悦子「若き亡命知識人の肖像 エドワードW. Saidの『場違い』」『湘南国際女子短期大学紀要』、湘南国際女子短期大学、2001年、41-57頁、2024年6月11日閲覧。
- イブラーヒーム・スース 著、西永良成 訳『ユダヤ人の友への手紙』岩波書店、1989年。(原書 Ibrahim Souss (1988), Lettre à un ami juif)
- 鈴木啓之, 児玉恵美 編『パレスチナ/イスラエルの〈いま〉を知るための24章』明石書店、2024年。
- 渡辺真帆『「非日常」の抵抗――パレスチナと演劇』。
- 佐藤まな『日常という抵抗、文学という抵抗』。
- 関根謙司『アラブ文学史 - 西欧との相関』六興出版、1979年。
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- 小泉純一『スヘイル・ハンマード「このお話の滴たち/わたしがすること」解説』。
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- 岡崎弘樹『アリー・クルディー「シャマアーヤ邸」解説』。
- 佐藤愛『米国のパレスチナ系英語詩人たち』。
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- 山本薫『アシュラフ・ファイヤード「重度の故国症候群 / 難民の末裔」解説』。
- ネオミ・シーハブ・ナイ 著、小泉純一 訳『ハビービー 私のパレスチナ』北星堂書店、2008年。(原書 )
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- アミラ・ハス 著、くぼたのぞみ 訳『パレスチナから報告します:占領地の住民となって』筑摩書房、2005年。(原書 )
- 細田和江「「私は誰?」サイイド・カシューアの小説における失われたアイデンティティの探求」『第6回ユダヤ会議報告集』第6巻、同志社大学一神教学際研究センター、2013年3月、1-40頁、2024年6月11日閲覧。
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- 細田和江「Interview イスラエルにおけるパレスチナ表象の現在 ―文学、映画その他の文化表象から―」『トランスナショナル時代の人間と 「祖国」の関係性をめぐる人文学的、領域横断的研究』、プロジェクト・ワタン、2022年12月、1-40頁、2024年6月11日閲覧。
- 山本薫「ハイファの作家、エミール・ハビービー : 都市の記憶としての文学」『日本中東学会年報』第23巻第2号、日本中東学会、2007年、171-191頁、2024年6月11日閲覧。
- 山本薫「イスラエル・アラブの文化創造力 アイロニーの系譜」『ユダヤ・イスラエル研究』第29巻、日本ユダヤ学会、2015年、35-40頁、2024年6月11日閲覧。
- サラ・ロイ 著、岡真理, 小田切拓, 早尾貴紀 訳『ホロコーストからガザへ -パレスチナの政治経済学-』青土社、2009年。
関連文献[編集]
- 赤尾光春「シオニスト的ユートピア小説の系譜と『他者』の不在」『ユダヤ学会議』第6巻、ユダヤ学会議、2013年、55-78頁、2024年6月11日閲覧。
- 天野優「現代イスラエルのイラク系ユダヤ人作家 : サミー・ミハエルとその作品」『一神教世界』第6巻、同志社大学一神教学際研究センター、2015年3月、1-18頁、ISSN 21850380、2024年6月11日閲覧。
- マフムード・ダルウィーシュ 著、四方田犬彦 訳『パレスチナ詩集』ちくま文庫、2024年。
- 土井大助 訳『パレスチナ抵抗詩集・全三冊』アラブ連盟駐日代表部、1981-1983。
- ファドワ・トゥカーン 著、武田朝子 訳『『私の旅』パレスチナの歴史』新評論、1996年。(原書 )
- 南部真喜子『エルサレムのパレスチナ人社会:壁への落書きが映す日常』風響社、2020年。
- 錦田愛子『ディアスポラのパレスチナ人: 「故郷」とナショナル・アイデンティティ』有信堂高文社、2010年。
- エミール・ハビービ 著、山本薫 訳『悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事』作品社、2006年。(原書 Emile Habibi (1974), The Secret Life of Saeed: The Pessoptimist)
- ラシード・ハーリディー 著、鈴木啓之, 山本健介, 金城美幸 訳『パレスチナ戦争 入植者植民地主義と抵抗の百年史』法政大学出版局〈サピエンティア〉、1989年。(原書 Rashid Khalidi (2020), The Hundred Years' War on Palestine: A History of Settler Colonialism and Resistance, 1917–2017)
- ガリト・フィンク&メルヴェト・アクラム・シャーバーン 著、いぶきけい 訳『友だちになれたら、きっと。』すずき出版〈児童文学シリーズ(この地球を生きる子どもたち)〉、2007年。
- アミン・マアルーフ 著、牟田口義郎, 新川雅子 訳『アラブが見た十字軍』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2001年。(原書 Amin Maalouf (1983), Les Croisades vues par les Arabes)