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あつみたかし 厚見峻 | |
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生誕 |
1921年11月23日 日本・埼玉県北葛飾郡幸松村(現春日部市) |
死没 |
1941年12月8日 (20歳没) アメリカ合衆国ハワイ準州(詳細不明) |
国籍 | 日本 |
職業 | 大日本帝国海軍 |
活動期間 | 1938 -1941 |
厚見 峻(あつみたかし、1921年(大正10年)11月23 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。第2期海軍甲種飛行予科練習生。空母「蒼龍」戦闘機搭乗員として真珠湾攻撃に参加。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少尉。
略歴
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1921年(大正10年)11月23日、埼玉県北葛飾郡幸松村(現春日部市)の7男3女の末っ子として生まれた。
粕壁小学校を経て埼玉県立粕壁中学校に学び、1938年(昭和13年)4月1日、第2期海軍甲種飛行予科練習生として横須賀海軍航空隊に入隊。
1939年(昭和14年)3月1日霞ケ浦海軍航空隊に転じ、同年12月22日大分海軍航空隊付に。
1940年(昭和15年)5月18日大村海軍航空隊付。同年10月21日、空母「蒼龍」に乗船。1942年(昭和16年)10月1日海軍一等飛行兵曹(一飛曹)に任ぜられる。
真珠湾攻撃
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1941年(昭和16年)12月8日(現地時間12月7日)、第2次攻撃隊の第3集団第3制空隊第3中隊第1小隊(隊長・飯田房太大尉)の2番機(零戦)として真珠湾攻撃に参加。
米軍機と交戦中に墜落、戦死した。目撃した藤田中尉(同第2小隊)は著書『真珠湾攻撃の真実』の中で、次のように回想している。
「厚見一飛曹は私の見ている前でP36を追撃していたが、スピードがつきすぎていたのだろう。バックファイヤーを起こしてしまった。
その炎が、それまで尾を引いていた燃料に引火したのだろう。厚見一飛曹の機体は燃え上がり、そのまま落ちていってしまった」。
1942年(昭和17年)4月10日連合艦隊司令長官山本五十六大将の感状を受け、2階級特進。同年10月15日勲七等功五級を受章。
エピソード
[編集]・横須賀の海軍航空隊への入隊に先立ち、厚見峻少年は母に「母さん、これで僕の第一希望は達せられた。この上は戦闘機に乗りたいと思います。そして戦運に恵まれて、敵機をたたき落としたいと思います。そのほかには、名誉も金もいりません」と言って横須賀に向かった。(1)
・明朗で機敏だった厚見峻は飯田房太隊長にかわいがられた。「隊長飯田大尉は、この若い戦闘機乗りを肉親のごとく愛した。あるとき厚見青年が下士官戦技において、優勝したことがあった。このとき飯田隊長は非常に喜んで、自分の寝衣を着せていただいて寝たことがあった。またある時は、飯田隊長が一人で腕組みをしていることがあった。そこへ厚見一曹が通りかかると、『厚見、歌を教えるからこいよ』と呼びとめられ、歌を教わったこともあった」(2)
・1941(昭和16)年9月の初旬ごろ、厚見峻がひょっこりと家に帰ってきた。「『母さん、ただいま』という声に母のしんさんが奥から出てみると、表座敷の縁べりに峻青年がにこにこしながら腰をおろしていた。この時の休暇は短かった。この休暇中峻青年は別に何を語でもなく、家の周囲を回り歩いて、自分の植えた植木を眺めて回ったり、母の手伝いに時を過ごしたりした。おそらく自分の手植えの庭樹が日ましに伸びていくのが感慨無量であったのであろうと思う。『枇杷咲けり不朽の動樹てし日に』という一句は、植木好きであった厚見少尉の生前をしのぶにふさわしい句である」(3)
出典
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1. 宮沢裕彦編著『厚見少尉伝』
2.『飯田中佐伝』飯田中佐顕彰会編、1944年(昭和19年)4月20日
3. 戦史叢書『ハワイ作戦』防衛庁防衛研究所戦史室編、朝雲新聞社、1967年
4. 藤田怡与蔵『真珠湾攻撃の真実』
5. 森史朗『海軍戦闘機隊 2 進攻作戦』1973年
エピソード出典
・(1)『飯田中佐伝 厚見峻略伝』188ページ。
・(2)『飯田中佐伝 厚見峻略伝』190ページ。
・(3)『飯田中佐伝 厚見峻略伝』192ページ