利用者:Myons3
編集に対する考え方
[編集]基本的には読み手のことを考えた編集をするということ。自分が楽しむことも当然重要だが、プロジェクトの性質上読み手やほかの編集者の存在を前提にしなければならないのは当然である。読み手の皆さん・ほかの編集者の皆さんと知識を共有することに楽しみを見いだせればと思う。
嫌いな編集
[編集]あちこちで問題になっているが、学校記事と人物記事の粗悪さが気になる。
嫌いな編集・編集者のタイプは、大きく分けると「サブスタブ未満の粗製濫造」「対象への過剰な賛美(学校ならば学校自慢、人物ならファンサイト的記述など)」の2種類。前者は粗製濫造した記事を放置する傾向が、後者は記事に過剰に粘着してまともな編集すら機械的に賛美の編集に差し戻す傾向がそれぞれあり、どちらも読み手のことを全く考えていない自己満足で自分勝手な編集である上に、ウィキペディアにとっては有害行為・敵対行為だと思う。
それと、問題のある記事が削除されそうになると「削除主義者(=削除荒らし)」呼ばわりして口汚く攻撃する、「反・削除主義者」もきわめて有害である。
具体的にどの編集者と名指しするわけにはいかないが、学校記事やアナウンサー記事等をいくつかながめていれば、サブスタブ未満粗製濫造者や「反・削除主義者」・過剰賛美者といった人も無視できないほどいるようである。こういう悪質編集者に共通することとして、「ウィキペディアの方針を全く理解していない・理解する気もない」もしくは「斜め読みで自分勝手な解釈をしている」ということがあげられる。そういうタイプのユーザーは人の話を全く聞く気がないタイプなので、結果的に注意されても無視するか注意した人に逆恨みして騒ぐかの「聞く耳を持たない問題ユーザー」になる可能性が高いようである。人の話を聞くことや相手の主張の本質を理解する意思も能力もなく、自分の主張を一方的に押しつけることが「対話」「共同作業」と思いこんでいるのだから、ほかのユーザーにとってはたまったものではない。
こういう編集をする編集者は、荒らしと見なされてもよいのではないかとすら感じる。こういう編集をする編集者を減らしてほしいし、良質の編集をする人が増えることでwikipediaの質が向上すればと思う。
「自分の持っている知識をほかの皆さんにも知らせて共有する楽しみ」は追求したいが、「自分の言いたいことだけを書き散らす」ことは避けなければならない。読み手のことを考えない自己満足を書き散らしたければ個人サイトでやるべきである。
サブスタブ未満の粗製濫造
[編集]- 学校記事や人物記事などで、定義プラスα程度しか書いていないサブスタブ未満の新規記事を粗製濫造する編集者。
ひとつひとつの記事に責任と愛着を持って、発展の方向性を初版投稿者自ら示して記事を育てていくことが、コミュニティに対する敬意だと思う。サブスタブ未満を粗製濫造することは、コミュニティに対する敬意や協調の姿勢を示さない、単なる自己満足だといえる。
短い記事でも、初版投稿者が記事の発展の方向性を示していれば問題にはならないだろう。しかしサブスタブ未満の粗製濫造の場合は全く違う。
「削除主義者」のレッテル貼り
[編集]「粗製濫造」に疑問を持つと「削除主義者」と罵倒する編集者もいるようである。彼らのいう「削除主義者」なる言葉は、おそらく「個人的に気に入らないというだけで削除したがるタイプの削除荒らし」と同義で使用されているようである。しかし、「その前にまず記事の質の向上を考えろ。それなしに『削除主義者』などと罵倒するのはただの逆恨みではないか」と言いたい。
特に学校記事やアナウンサー記事で問題が顕在化しているが、そこで「削除主義者」とレッテルを貼られているタイプの人々の編集をながめていると、「削除荒らし」とはとうてい考えられない。むしろ、まともな加筆や記事の向上を望んでいる・ウィキペディアの発展を考えている人だと感じる。「削除主義者」と口汚く攻撃する編集者に限って、まともな編集は少ない。
「削除主義者」うんぬんについては、「どうしようもない記事を立てた人間が、そのことを棚に上げて自分の書いた記事が問題視されたことを逆恨みして、レッテル貼りをして騒いでいるだけ」ではないかと感じる。
学校記事やアナウンサー記事については、同じ人が手当たり次第にサブスタブ未満を粗製濫造している場合が多い。加筆を試みようにも資料がなく加筆できず、しかも即時削除の条件をぎりぎりで越えているという非常にたちが悪い状況で、結果的に加筆がほとんど進まないにもかかわらず数十・数百単位でサブスタブ未満の粗悪記事が生まれることになる。こんな状況を改善せずに「削除主義者」と罵倒する暇があったら、少しでもまともな記事を立てて、また自分の立てた記事に責任を持って加筆しろといいたい。
「削除主義者」と罵倒したがる編集者は、「ウィキペディアは共同作業で、削除主義者は共同作業に敬意を示していない」と強調する傾向がある。「削除主義者」と罵倒したがる編集者は「共同作業」を文字通りの意味には解釈せず、自分の都合のよいように我田引水的な解釈をしているにすぎない。
共同作業や敬意などというのなら、どうしようもないサブスタブ未満の記事を立てて放置することこそが、共同作業の破壊行為だしほかの編集者への敬意を示さない自分勝手な行為であることはいうまでもない。
学校記事やアナウンサー記事に対する不満を持っている人は、「自分でも少しでも加筆を試みたがどうしようもない。時間が経つごとにサブスタブが増えていく」というジレンマからやむなく不満を持つにいたったものだと考えられる。すべての責任は「サブスタブ未満を粗製濫造する編集者」が自ら招いたものだといえる。
対象への過剰な賛美
[編集]- 学校記事では「学校自慢」的な内容を書き連ねる編集者
- アナウンサー・芸能人等の人物記事では「ファンサイト」のような内容を書き連ねる編集者。
- その他、執拗な宣伝や対象への過剰な賛美など。
学校記事や人物記事では、サブスタブ未満が氾濫する一方で、気持ち悪くなるような過剰賛美記事も目につく。団体等ならば宣伝記事、学校ならば学校の過剰な賛美や学校自慢、人物記事ではファンサイト的な記述の書き連ねなど。Wikipedia:大言壮語をしないなどWikipediaの方針はどこ吹く風とばかりに、気持ち悪い誇大賛美が広げられている。
学校記事では、特に進学校・難関校・伝統校・有名校などと見なされているような高校で、「おらが母校愛」のような異常さが目につく。「自分たちが頭がいい」という変な優越感を強調したいのか知らないが、これじゃ結果的に編集者の頭の悪さを露呈し、また「母校」の評判を自ら低下させているだけで逆効果だと思うのだが。
芸能人などの人物記事では、ファンサイトのような批評や憶測などを無意味に書き連ねる荒らしも目立つ。
こういう編集者に限って、ほかの編集者が穏当な表現や客観的な表現に書き換えるなどの編集をおこなうと、一方的に自分の版に差し戻したり、最悪の場合にはまともな編集者を逆に「荒らし」呼ばわりして騒ぎ立てる。きわめて悪質。
そういう編集者は、学校自慢やファンサイト的な編集を「百科事典的」と盲信し、「ウィキペディアの方針に沿っている」と曲解している。しかし彼らの希望に反して、そういう学校自慢やファンサイト的な編集はウィキペディアの方針に反している。Wikipedia:ウィキペディアは何でないか、Wikipedia:大言壮語をしない、Wikipedia:中立的な観点などが、彼らが誤っていることを示す根拠であるといえる。
こういう編集者がウィキペディアのコミュニティを疲弊させ、良質の編集者を去らせることにつながっていくのではないか。