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利用者:Mzaki/八戸順叔

#八戸順叔の調査

  • 歌野博「谷戸喜三郎追跡その後」樟蔭国文学、2014年
  • 陳捷「幕末における日中民間交流の一例」中国哲学研究、2009年
  • 福永郁雄「順叔 八戸先生の消息」『明治村通信』第216・217号、1988年
  • 歌野博「谷戸喜三郎 ー海国異人の肖像と足跡」『あうろーら』第20号、2000年7月
八戸順叔(1840-?)
代官手代八戸厚十郎の三男。後に大陽寺に改める。
元新潟奉行並田中廉太郎弟
大陽寺順叔の子は大陽寺順儀。俳人で号は丁二、蝶二、蝶児
大陽寺順儀の養子が大陽寺順一
八戸弘光、順叔[1]

幕末の渡航(谷戸喜三郎追跡その後によるまとめ)

  • 慶應元年4月 上海経由サンフランシスコへ→秋に米国東部歴訪(ジョンソン大統領に拝謁)
  • 慶應2年(1866)1月にサンフランシスコ出発、3月ホノルル、5月香港、6月横浜(上陸許されず)→上海へ
  • 慶應3年9月8日(1867/10/5)帰国

高崎藩国益局

二年正月、靜岡藩士大陽寺順叔を雇ひ、參政格國益總裁となし、國益局を高崎城東の石上寺に置き、知局事以下、事務を掌る。而して商館を橫濱辨天通に開いて、貿易を行はしむ。然るに順叔が為す所、毎事齟齬して、遂に数萬両を消費す。由りて其雇を解く。

『群馬県史』NDLJP:1258734/73

東京府(東京都公文書館の目録による)

  • 明治5年3月19日 任東京府大属 建築掛 大陽寺順叔
  • 明治5年6月27日 →地券掛
  • 明治5年11月5日 →学務掛
  • 明治6年 →書記掛→兼出納掛→囚獄掛
  • 明治6年8月9日 中属上等(官制改定による)
  • 明治6年8月27日 補東京府九等出仕(月給改正による)
  • 明治7年1月14日 中等月給下賜
  • 明治8年1月13日 任東京府権大属
  • 明治8年2月24日 賞金下賜
  • 明治8年7月9日 →書記掛
  • 明治8年8月15日 依願免本官
  • 明治8年8月19日 満4ヶ年以上勤続につき賞金下賜

秋田県

八戸喜三郎
田中廉太郎(1828-1886)
= 田中光儀
御代官手附谷戸平九郎男
弟順叔
久美浜県大参事
  • 友田 昌宏「『大隈重信関係文書』の年代推定に関する覚書」 早稲田大学史記要,47,43-133 (2016-02-29)
    浦賀奉行所与力、長崎奉行支配調役並、外国奉行調役、文久3年渡欧、新潟奉行支配組頭
    大蔵省監督大佑、久美浜県権大参事、大参事、豊岡県権参事、参事、明治8年7月退官

任解日録

  • 明治2年8月28日 大蔵省監督大佑
  • 明治4年正月12日 久美浜県大参事 [2]
  • 明治4年正月22日 請を允し久美浜県権大参事 [3]
  • 明治4年5月24日 久美浜県大参事 [4]
  • 明治4年11月2日 豊岡県権参事 [5]
  • 明治5年3月8日 豊岡県参事 [6]
  • 明治8年6月5日 六等判事 兼任 [7]
  • 明治8年7月20日 免官 [8]

豊岡県では長く実質的トップだったようだが、大野右仲との間にいざこざがあった模様。地方官会議の直後に免官され、その後経理不始末で処罰されている。豊岡市史に記載があるらしい。

八戸鬼久之助 = 八戸保定
1832-1882?

東京都公文書館

  • 「任東京府少属 静岡藩久美浜県田中大参事弟 八戸鬼久之助 源保定」明治4年
  • 「監察局掛可相勤事 少属八戸保定 」明治4年
  • 「是迄之掛被免聴訟局掛可相勤事 少属八戸保定」明治4年
  • 「少属準席原田良種を少属郷村掛、久美浜県田中大参事弟八戸鬼久之助を少属監察局掛、岡山藩津川千加雄を少属監察局懸、石原亭を権少属郷村懸り、田中権少属・篠原七太郎を謹慎 6月19日」明治4年
  • 「吉本大属を是迄の掛を免し貫属掛、富岡至素を是迄の掛を免し聴訟掛、藤井権大属を是迄の掛を免し断獄掛、河上少属を是迄の掛を免し物産局、松井少属を是迄の掛を免し断獄掛、八戸少属を是迄の掛を免し聴訟掛、瀬川少属を是迄の掛を免し聴訟掛、星野権少属を是迄の掛を免し断獄掛、前田権少属を是迄の掛を免し聴訟掛、額田史生を是迄の掛を免し断獄掛 7月晦日 」明治4年
  • 「下谷仲徒町2丁目八戸鬼久之助外1人より蠣売町1丁目稲華堀付費埋立願下戻す」明治9年

鳥取県

ただし本籍が東京になっている

アジ歴

  • 「造船所届 八戸鬼久之助雇入」明治14年10月11日 東京府平民
  • 「造船所届 雇八戸鬼久ノ助コレラ病にて死去」明治15年6月16日 51歳