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利用者:NAOSHIO/sandbox

沿革

郡山宿は1604年(慶長9年)に徳川幕府の命により奥州街道が開設され、開村したというのが定説である。

奥州街道

奥州道中は、正式には江戸日本橋から白河までを指し、幕府は五街道の一つとして道中奉行に支配させていた。白河以北の三厩(みうやま 青森県)までを仙台松前道と称し、脇街道として勘定奉行が支配したが、一般的にはこれも奥州道中または奥州街道と呼んでいた。この街道の道筋や宿駅の整備は、豊臣秀吉の奥羽仕置1590年〜91年(天正18年〜19年)の時に始まり、1604年(慶長9年)には徳川家康の整備令が出され、主要な脇街道である奥州街道もそれに準じて整備された。江戸日本橋を基準として36町を1里(約4キロメートル)と定め、1里ごとに塚を築かせ、道路の幅は5間(9.1メートル)とし、街道の両脇には松並木を植えさせた。

二本松領内の宿駅は笹川・日出山・小原田・郡山・福原・日和田・高倉から五百川を渡り、本宮・杉田・二本松・油井・二本柳を過ぎ、信夫郡八丁目宿へとつながるが、福原・高倉・油井は、1615年(元和元年)以降の設置である。

松並木は、主要地方須賀川・二本松線の郡山市日和田と富久山地内に今もなお面影を残しているが、郡山市内では小原田の北入口・久保田・日和田にあった一里塚は、近代になって壊され、現在は久保田に碑が建っている。

宿場の整備

近世宿場の主要な役割は、幕府や藩および商人の荷物輸送と旅人を休宿泊させることであった。そのため、宿駅には人馬と休宿泊施設を確保しておかなければならなかった。

笹川

笹川宿は、中世の応永年間には篠川とも書き、篠川御所が置かれていた。1604年(慶長9年)、奥州道中が中世の篠川御所跡を南北に縦貫する道に回収整備された際に集落も沿道に移され、1613年(慶長18年)に宿場と定められた。

日出山

慶長の新道建設により家を四日町から日出山に移し、日出山宿の宿場集落形成を計った。守山村・谷田川村を経て磐城平城下へ至る道が分岐する要衝の地である。

小原田

小原田宿は、奥州街道建設を命じられた1604年(慶長9年)から1613年(慶長18年)に成立したと考えられている。1613年(慶長18年)宿駅としての町割が施行され、屋敷割図が作成された。

郡山

中世には交通・経済の要衝となっていた。街道は阿武隈川沿いにあったが、慶長年間(1596年〜1615年)西寄りに改修・整備され宿駅が置かれた。

福原

福原宿は、慶長年間の奥州街道建設により東の阿武隈川寄りにあった集落を今の地に移した。

日和田

天正年間までは西方の宮下にあり、その後根岸に移動し、駅の開設は慶長年間と推定される。

高倉

戦国期高倉城東の館東集落は阿武隈川の河川交通で賑わったと伝えられ、江戸初期に町場が形成された。