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浅井 信光(あさい のぶみつ、1957年8月23日- )は、日本の元子役、元ロック歌手、音楽プロデューサー。愛知県名古屋市出身。歌手時代の芸名、浅井裕季(あさい ゆうき)。所属レーベル、京都レコード。
子役時代
[編集]名古屋市立振甫中学3年から愛知県立旭丘高校1年にかけてNHK総合放送ドラマ「中学生日記」初代レギュラー出演。共演者には元衆議院議員の横光勝彦、女優の戸田恵子、作家の花井愛子がいる。
歌手時代
[編集]1977年、南山大学外国語学部英米科入学後、1978年、ロックバンド「ファイアー」でワーナーパイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)からデビュー。ボーカリストとしてシングル3枚をリリース。デビュー曲「こっちを向いて」の作詞・作曲は河島英五である。TBSテレビ「ぎんざNOW!」レギュラー出演。エメロンシャンプーCF出演。全国で数多くのコンサートを行う。同バンド解散後、同大学を中退。
SMS時代
[編集]1981年、音響芸術専門学校卒業後、株式会社サウンズ・マーケッティング・システム(SMSレコード)入社。邦楽制作宣伝ではプリズム、AUTO-MOD等を担当。洋楽制作宣伝ではWAVEレーベルでアインシュテュルツェンデ・ノイバウテン、レジデンツ等を担当。女優の野村真美を発掘する。
1987年、渡辺プロダクショングループ内異動で渡辺音楽出版株式会社に入社。新人アイドル麻田華子を担当。デビューシングル「好き☆嫌い」がオリコン12位を獲得。
BMG時代
[編集]1988年、BMGビクター株式会社入社。邦楽制作ディレクターとしてB'zを担当。デビューアルバム「B'z」から6thアルバム「RISKY」まですべてミリオンセールスを記録。オリコンナンバー1シングル3枚。初のオリコン1位は、5thシングル「太陽のKomachi Angel」である。トータルセールスは1,000万枚を超す。オリコン年間ディレクターチャートで2年連続の3位と2位を獲得。
他に、NORMA JEAN(シングル「GET A CHANCE!」オリコン9位)、GO-BANG'S、MATAHARI(オリコン年間ディスコチャート2位)、林田健司(SMAPへ「$10」、「青いイナズマ」他の楽曲を提供)等を担当後、映像ソフト部へ異動。プロダクトマネージャーとして担当した全国劇場公開洋画「不滅の恋/ベートーヴェン」のビデオがレンタル2万本のヒット。メジャーデビュー前に担当したSHAZNAのビデオがインディーズとしては初のオリコン1位を獲得。
邦楽制作復帰後、制作課長代理として日本テレビ「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」との番組内プロジェクト、ブラックビスケッツを担当。シングル「タイミング」が180万枚のミリオンヒットとなる。アルバムセールス50万枚。オリコントップ3シングル4枚。台湾で発売したシングル「スタミナ」が日本発のアーティストとしては初の2位を獲得。ポケットビスケッツと紅白歌合戦出場。ビビアン・スーのソロアルバム日台共同制作。
RCAジャパン設立後、制作部次長として角松敏生、シャ乱Q、福山雅治等に関わり、B'zのサードベストアルバム「B'z The Mixture」を200万枚セールス。 浅井ルーム設立後、チーフプロデューサーとしてDEENでオリコントップ10アルバム3枚。キンモクセイでオリコントップ10シングルとオリコントップ10アルバム及び紅白歌合戦出場。2001年、同社を早期退職。
CME時代
[編集]約1年の充電後、IT業界に身を投じるが苦難の道を歩む。しかし、その間にもBMG時代にモバイルデビューを手掛けたSoul'd Out(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)のアルバムがオリコン3位を獲得。同じくCDデビューを手掛けたAI(現ユニバーサルミュージック)のアルバムがオリコン3位を獲得。IT業界の経験を活かし、コロムビアミュージックエンタテインメント株式会社(現日本コロムビア株式会社)にてエグゼクティブ・プロデューサーとしてモバイル配信サイトの立ち上げに寄与する。
MTI時代
[編集]2004年、株式会社エムティーアイ入社。邦楽配信部長として着うたサイト「music.jp」の会員150万人純増に大きく貢献。”CDでミリオン、配信でもミリオン”という困難な目標を達成する。2006年、同社子会社フィル代表取締役社長に就任。現在は、同社子会社みよーにてスーパーバイザーを務めている。