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利用者:Nooogii/sandbox

経歴[編集]

クラブ[編集]

誕生からサンパウロFC時代まで[編集]

ブラジリア連邦直轄区ガマで、小学校教師の母シモーネ・ドス・サントスと土木技師の父ボスコ・イゼクソン・ペレイラ・レイチの間に生まれた[1]。経済的に安定していたため、学校とサッカーの両方に集中することが出来た[2]。7歳の時にサンパウロへ家族で移った[3]。学校から「アルファヴィル」という青少年サッカークラブに斡旋され、地元のサッカートーナメントで決勝に進出した[4]。そこでサンパウロFCに才能を見出されユースチームへの加入のオファーを受けた[5]。9歳でサンパウロFCのクラブ会員用のチームに加入。当時から技術面では優れたものを持っていたが、他の子たちに比べて線が細く、補欠に甘んじていた。その後、クラブでのトレーニングによってビルドアップに成功し、弱点を克服した。15歳で契約を結び、サンパウロのユースチームをコパ・デ・フニベールの優勝に導いた。

17歳の頃、クラブの深刻な財政難からトルコのクラブ、もしくはCSKAモスクワに売却されそうになった。だが本人は、「あの時に移籍していても今のように素晴らしいキャリアを築くのは難しかっただろう」と語っている[6]。18歳の時、プールで遊んでいた際に頭部を強打して頸椎を損傷する重傷を負い[7][8]、あわや下半身不随寸前の怪我だったものの、極度の近視となった以外は幸いにも運動能力にはほとんど影響は見られなかった。カカはこれを神のおかげであるとし、それ以来十分の一税を行っている[8]。なお、本人は「あの事故を契機に人生観が変わった」と語っている[6]

2001年2月1日にサンパウロのトップチームデビューを果たし、27試合で12ゴールを挙げた。さらに、リオ・サンパウロ・トーナメントの決勝ボタフォゴFR戦では途中出場から2分間で2ゴールを挙げて、サンパウロの史上唯一の優勝に貢献した[9]

2002年シーズンは22試合で10ゴールを挙げる活躍を披露し、ヨーロッパのクラブから注目を集めるようになった[10]。サンパウロでは58試合に出場し、23得点を記録した。

ACミラン時代[編集]

ヨーロッパのクラブからの注目を集め、2003年に850万ユーロの移籍金でヨーロッパ王者のACミランへ移籍した。ミランのオーナーであるシルヴィオ・ベルルスコーニは850万ユーロの移籍金を「はした金」と評した。サンパウロでは背番号8番を、2002 FIFAワールドカップでは23番をそれぞれ着けていたが、ミランでは既にジェンナーロ・ガットゥーゾマッシモ・アンブロジーニがそれぞれの背番号を着けていたため、自身の誕生日の日付にちなんで22番を背負うことになった[6]。入団時のメディカルチェックでは特にずば抜けていた加速値と絶対スピードの項目をはじめ、それまでの選手とはかけ離れて高い数値を記録。ミランラボの担当者は「こんな数字は見たことがなかった」と証言した[11]

移籍してすぐにマヌエル・ルイ・コスタに代わって、ヨン・ダール・トマソンフィリッポ・インザーギアンドリー・シェフチェンコのFW陣のすぐ後ろの攻撃的な中盤のポジションに入った。アンコーナ・カルチョ戦でセリエAデビューを果たし、2-0で勝利した。2003-04シーズンはセリエAで30試合に出場し10得点を記録。さらに、シェフチェンコのスクデット獲得を決定付けるヘディングゴールをアシストするなど活躍し、ミランはスクデット獲得、スーペルコッパ・イタリアーナ制覇などを果たした。コッパ・イタリアでは準決勝に進出したが、最終的に優勝を果たしたSSラツィオに敗れ、UEFAチャンピオンズリーグでは準々決勝でデポルティーボ・ラ・コルーニャに敗れた。デビューシーズンの活躍により、2004年にセリエA最優秀ミッドフィールダーに選ばれ、バロンドールでは15位、FIFA最優秀選手賞では10位にランクインした。

2004-05シーズンはアンドリー・シェフチェンコの後ろの位置でプレーし、守備面ではジェンナーロ・ガットゥーゾクラレンス・セードルフマッシモ・アンブロジーニのサポートを受け、アンドレア・ピルロかルイ・コスタが中盤の深い位置でプレーメーカーとしてチャンスを演出するという驚異的な中盤のユニットを形成した。スーペルコッパ・イタリアーナでラツィオに勝利してシーズンがスタートした。セリエAでは36試合で7得点を記録したが、ミランは2位に終わった。コッパ・イタリアでもベスト8に進出した。UEFAチャンピオンズリーグでは2得点5アシストを記録し決勝進出に貢献した。大会の歴史に残る決勝戦の一つとして広く知られている決勝のリヴァプールFC戦では、前半に圧倒的なプレーを披露した。パオロ・マルディーニの先制点に繋がるフリーキックを獲得し、エルナン・クレスポのチーム2点目のゴールの起点となり、さらにスルーパスでクレスポのチーム3点目となるゴールをアシストした。前半だけでミランは3点リードを奪ったが、後半に6分間でリヴァプールが3ゴールを挙げて追いつかれ、PK戦の末にミランは敗れた。イスタンブールの悲劇ともいわれるリヴァプールFC戦の敗北について、「たとえこの先何度優勝できたとしてもあの敗北を忘れることは出来ない」と語っている[6]。このシーズンも再びバロンドール9位とFIFA最優秀選手賞8位にランクインし、UEFA最優秀ミッドフィールダーに選ばれた。また、2004年には国際連合世界食糧計画における最年少大使となった[12]

ミランのユニフォームをブラジル大統領のルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァに贈呈するカカ

2005-06シーズン、2006年4月9日のキエーヴォ・ヴェローナ戦で後半だけで3ゴールを挙げて、国内リーグ戦では初めてとなるハットトリックを記録した。UEFAチャンピオンズリーグでは準決勝で優勝したFCバルセロナに敗れ、コッパ・イタリアも準々決勝で敗れた。このシーズンは、リーグ戦で17得点を記録し、ミランはリーグ戦で2位となった。ACミランとは当初2009年6月までの契約であったが、2005-06シーズン終了後にはACミランの八百長疑惑によりクラブのセリエB降格の危機が報じられ、カカの元にも複数のクラブから移籍のオファーが舞い込んだ。プレミアリーグチェルシーFCから7000万ポンド(約152億6000万円)という超破格のオファーが来たが、ミランは受け入れなかった。このとき本人も「ACミランが降格しないなら、クラブに忠誠を誓う」と発言。その後2006年7月15日にミランは降格を免れる判決を下され、勝ち点30点減点の処分によりミランはリーグ3位となった。カカは3年連続でバロンドールとFIFA最優秀選手賞にノミネートされ、それぞれ11位と7位にランクインした。また、UEFAチーム・オブ・ザ・イヤーとFIFProワールドイレブンの両方にキャリアで初めて選出された。

ミランでのカカ(2007年)

2006-07シーズンは、シェフチェンコがチェルシーに移籍したため、ミッドフィールダーとフォワードの両方をこなし、時にはストライカーとして、時にはインザーギの後方のセカンドストライカーとして、そして攻撃てミッドフィールダーとしてプレーし、ミランの攻撃の中心となった。2006年11月2日、RSCアンデルレヒト戦でチャンピオンズリーグでは初めてのハットトリックを記録し、4-1で勝利した。UEFAチャンピオンズリーグにて10得点を決めブラジル人としてはリバウド以来の得点王となった。10得点のうちの1点は、2戦合計1-0で勝利したラウンド16のセルティック戦の唯一のゴールであり、さらに準決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦では2試合で3ゴールを挙げている。2007年5月23日、決勝のリヴァプール戦は2-1で勝利して2年前のPK戦での敗退の雪辱を果たしてチャンピオンズリーグ制覇を達成した。決勝ではゴールを挙げられなかったものの、インザーギの1点目のゴールにつながるフリーキックを獲得し、さらにインザーギの2点目のゴールをアシストした。ミランはコッパ・イタリアの準決勝に進出したが優勝したASローマに敗れ、セリエAでは4位に終わった。8月30日、UEFAよりUEFAチャンピオンズリーグ2006-07の最優秀フォワードとUEFA年間最優秀選手の両方に選ばれ、2度目となるUEFAチーム・オブ・ザ・イヤーにも選出された。チャンピオンズリーグでは2位となる5アシストを記録し、IFFHSの世界最優秀プレーメーカーに選ばれた。

ミランのチームメイトたちとUEFAチャンピオンズリーグ優勝を祝うカカ
彼は完璧な選手だ。
2007年FIFA最優秀選手賞を受賞したカカを語るペレ

2007年8月31日、UEFAスーパーカップセビージャ戦は3-1で勝利し、この試合でのチーム3点目のゴールを挙げた。ドリブルでペナルティエリア内に侵入しPKを獲得した。PKキッカーを務めて、放ったシュートはゴールキーパーのアンドレス・パロップにセーブされたが、弾かれたボールをヘディングでシュートしゴールを決めた。9月30日、カターニア戦でミランでの200試合目の出場を果たし、PKからゴールを挙げた。10月5日、2006-07シーズンのFIFPro年間最優秀選手に選ばれ、2度目となるFIFProワールドイレブンにも選出された。12月2日、クリスティアーノ・ロナウドリオネル・メッシを大きく上回る444票の得票でミランの選手では8人目となるバロンドールを受賞した。12月16日、FIFAクラブワールドカップ決勝のボカ・ジュニアーズ戦では、この試合チーム3点目となるゴールを挙げて4-2での勝利に貢献した。この試合では、インザーギの先制ゴールをアシストし、セードルフとのパス交換からインザーギの2点目となるゴールもアシストした。これらの活躍により、大会最優秀選手に選ばれた。12月17日、リオネル・メッシの504票、クリスティアーノ・ロナウドの426票を上回る1047票を獲得し、2007年FIFA最優秀選手賞を受賞した。また、同年にはレアル・マドリードから8000万ユーロ(約140億円)の移籍金と手取り1400万ユーロ(約20億円)のオファーがあったが、本人は「レアルは僕が欲しいなら、ベルルスコーニ会長の首を縦に振らせればいい」と言い、パオロ・マルディーニ引退後にキャプテンを継ぎたいと語った[13]。2008年1月、キャリア2度目となるセリエA最優秀選手賞を受賞した。2月29日、クラブとの契約を2013年まで延長した[14]。ピッチ内外での活躍により、5月2日に世界で最も影響力のある100人に選ばれた。10月4日、エスタジオ・ド・マラカナンの歴代ブラジル代表の名選手の足跡が飾られているエリアに自身の足跡が飾られた。2007-08シーズンはセリエAで15ゴールを挙げた。これらのゴールには、SSラツィオ戦での約27メートルの距離からのカーブをかけたシュートやカリアリ戦でのペナルティエリア端からの強烈なシュート、ウディネーゼ戦での何人もの相手選手をドリブル突破しゴール下隅に決めたゴールが含まれている。2008年FIFA最優秀選手賞は4位にランクインし、バロンドールも8位にランクインした。また、ローレウス世界スポーツ賞の最終候補6人にも選ばれ、キャリア3度目となるFIFProワールドイレブンに選ばれた。さらに、世界で最も影響力のある100人に再び選ばれた。

2009年4月、トリノFC戦でのカカ

2009年1月13日、BBCはプレミアリーグのマンチェスター・シティFCがカカ獲得にサッカー界史上最高額の1億ポンド以上ともいわれる移籍金をミランに提示したことによる移籍騒動が勃発。カカにも年俸1500万ユーロ(約20億円)を提示[15]し、ミランのディレクターのウンベルト・ガンディーニはカカとマンチェスター・シティが個人合意した場合のみ、ミランはこの件について話し合うと語った。当初、「ミランでキャリアを過ごし、いつかキャプテンになりたい。」と語っていたが、後に「ミランが自分を売り出したいのであれば、席に座り話をする。クラブが自分を売りたがらない限りはここに残ると言える。」と語った。1月19日、クラブ間の交渉の結果、マンチェスター・シティは正式に交渉を打ち切り、カカがミランに残ることをベルルスコーニは発表した[16]。また、多くのサポーターは移籍に大反対し、クラブ本部の前で抗議活動を行い、カカの自宅周辺などに集結しシュプレヒコールを上げ、カカはそれに対して窓からユニホームを掲げ、笑顔で応えた。この残留により翌日の練習で監督のカルロ・アンチェロッティは、「今冬の補強はカカがこのミランというクラブに残留したことだ」と語った。ミランでの最後のシーズンとなった2008-09シーズンは、セリエAで16得点を記録し、チームの3位フィニッシュに貢献した。再びFIFA最優秀選手賞の最終候補に残り、2年連続で4位となった。バロンドールにも6位にランクインし、キャリア3回目となるUEFAチーム・オブ・ザ・イヤーにも選出された。

  1. ^ (ポルトガル語) Istoé Gente, Kaká vira fera Archived 7 April 2022 at the Wayback Machine., 21 October 2002.
  2. ^ Soccer-Fans-Info”. Soccer-Fans-Info (1982年4月22日). 2013年10月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年12月12日閲覧。
  3. ^ FIFA Classic Football Archived 7 June 2008 at the Wayback Machine.
  4. ^ Kaka Biography (Portuguese)”. Kakamania.br.tripod.com. 2013年10月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年12月12日閲覧。
  5. ^ “Kaka's greatest moments”. Fox Sports. (2018年6月8日). オリジナルの2018年6月12日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180612141942/https://www.foxsports.com/soccer/gallery/kaka-career-greatest-moments-gallery-042013 2018年6月8日閲覧。 
  6. ^ a b c d ワールドサッカーダイジェスト』第258号のインタビューにて発言[要ページ番号]
  7. ^ v-brazil.com”. v-brazil.com. 2018年9月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年12月12日閲覧。
  8. ^ a b Hughes, Rob (2004年12月1日). “Soccer: Kaka able to see beyond dollar signs”. International Herald Tribune. オリジナルの2014年7月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140716133609/http://www.nytimes.com/2004/12/01/sports/01iht-soccer_ed3_.html 2010年6月15日閲覧。 
  9. ^ "Torneio Rio-São Paulo 2001" Archived 7 June 2014 at the Wayback Machine.. Rsssf. Retrieved 22 March 2018
  10. ^ Vicente, Emerson. “Sao Paulo to sell Kaka”. Sky Sports. 2016年1月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年2月19日閲覧。
  11. ^ スポーツグラフィックナンバー』第802号より。
  12. ^ Soccer star Kaká puts the floodlights on global hunger World Food Programme、2004年11月30日
  13. ^ カカ、ミランひと筋を明言 livedoor.com、2007年12月18日
  14. ^ Kaka will not leave Milan skysports、2008年2月29日
  15. ^ “118億円提示、熱帯びるカカ移籍騒動=狙うマンC、交渉進展も”. 時事通信. (2009年1月16日). オリジナルの2009年1月21日時点におけるアーカイブ。. https://megalodon.jp/2009-0121-0014-43/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090116-00000049-jij-spo 
  16. ^ “サッカー=カカ、ACミランに残留”. ロイター. (2009年1月20日). https://jp.reuters.com/article/sportsNews/idJPJAPAN-35962920090120 2011年2月17日閲覧。