利用者:Nudité d'Europe/フランス語版 Naturisme の 試訳
自分自身のフランス語の勉強と、今後の日本語版「ヌーディズム」の発展の参考にすることを兼ねて、フランス語版 Naturism を試訳することにしました。まあのんびりやって行きます。--Nudité d'Europe 2005年12月9日 (金) 00:10 (UTC)
フランス語原文と照らし合わせての間違いの指摘、あるいはより良い訳文の提案がありましたらノートの方にお願いします(直接書き換えないで下さい)。日本語訳文だけを見てのおかしなところの指摘は今のところご遠慮下さい。まだざっと訳している段階なので。--Nudité d'Europe 2005年12月13日 (火) 01:16 (UTC)
ナチュリスム
[編集]1974年の国際的な定義によれば、ナチュリスムとは「自然との調和の生活様式で、共同で裸の生活をすることを特徴とし、自分自身と他人と環境を尊重するよう奨励することを目標とする」ということである。
実際、家族的で健全ですべての世代が参加するような環境において集団で裸で過ごすことは、何よりもまず自然との直接のふれあいを通して快適な生活を求めるナチュリスト(ナチュリスムを実践する人)にとっては、自由と喜びとの同義語である。
しかしながら、このような裸の生活はナチュリスムの多くの要素のうちの一つに過ぎない。社会的な次元においては、他人を尊重すること、寛容と共存は大変重要である。ナチュリスムは実に多くのコンプレックスを持った人や障害者達にくつろぎを与え、彼らの体を自分自身に受け入れさせるようにしている。
ナチュリスムという語は以前は
- ヒポクラテスの教義。
- 18世紀においては自然崇拝
- 19世紀の終わりにおいては、現実への完全な忠実性を賞賛する美学理論(今日で言う「ナチュラリスム」)
を意味した。
ナチュリスムの歴史
[編集]啓蒙時代およびルソーの「良き未開人」の神話以来、ナチュリスムの概念とその実践とは、肉体と道徳観念の発達の関係において重要な役割を果たして来た。その信奉者の動機そして象徴理論は時代に従って変化して行った。初期の頃は衛生、医学、道徳及び教育的価値が強調された。それらの価値は今日も存続しているが、今日ではエコロジーがナチュリスムにおいて重要性を持ちつつある。社会は今日ナチュリスムを何よりも、休暇を過ごす人のレジャーとして認知しているが、その歴史をほとんどか全く無視しているし、その価値をほとんど知らない(裸は性と切り離される。ナチュリストはそれを私生活の中だけに留めておかなければならない。そして、自分自身と他人を尊重し、自然を守らなければならない)。
先駆者の時代
[編集]一般に広まっている通説に反して、ナチュリスムの思想はドイツではなくフランスに生まれた。それは地理学者エリゼ ルクリュ (Elisée Reclus)(19世紀後半)のペンからと彼の周囲の者たちの中においてであった。エリゼ ルクリュは屋外で裸で過ごすことに、肉体の活性化の手段と、その当時支配的だった偽善とタブーとは完全に異なる肉体に関する報告、そして集団生活により密着した構想を同時に見ていたのである。
19世紀の終わり頃、非常に近い思想の潮流がヴィルヘルム2世皇帝のドイツに現れた。この時代、性と裸体の話題はタブーであった(しかし北ドイツにおいてはスカンジナヴィアと同様に、サウナの中における裸は存在していた)。ナチュリスト運動の誕生は成長しつつある工業化社会への強い反発であった。その困難な労働と生活の条件の中で、人々は別の生活様式に付いて考え始めたのである。
1893年、衛生社会学者のハインリッヒ プドール (Heinrich Pudor) は Nacktcultur(裸の文化)という本を著した。それは集団的な裸の生活の効用を賞賛した最初の出版物であった。彼によると、人類は肉体を見失ってしまい、それが弱くなっていることに気付いた、ということである。プドールは同時に、コルセットの流行に対して、その女性の体への危険性を証明しながら闘った。それに続いて、よりゆったりとしたいわゆる「改良主義者 (réformistes)」と呼ばれる新しいタイプの女性服が登場した。それはしばしば女性自身によって作られた。
プドールによって描かれた概念は長く概念にとどまらずすぐに実行に移された。中でもとりわけボーイ(ガール)スカウト運動に似たドイツの青年運動であるワンダーフォーゲル(渡り鳥)運動は、まず第一に裸による自然への回帰の概念を広めた。彼らは自然いっぱいの場所へのハイキングのおり、湖や川の岸辺で全裸になって水浴するのを習慣としていた。彼らはすぐさま裸による別の活動も実践に移した。例えば体操などである。ただ単に裸になることが問題だったのではない。これらの若い男女達は、より健康的な生活を求めて、都会とその公害及び不摂生という地獄から逃れようとしていたのである。
1902年から、ナチュリスト文化の噴出と同時に雑誌が定期的に現れるようになった。写真はヌードの領域において、自然の中で全くエロティシズムを取り除かれたた肉体を撮影することに復活の道を見出した。1903年にリューベックで最初のナチュリスト施設が生まれた。パウル ツィメルマン (Paul Zimmerman) による Freilichtpark(自由な光の公園)である(1981年に閉鎖)。
集団的な裸の生活の実践に当てられたこれらの場所は、ほとんど常に様々なものが結合された様式で大いに発展した。簡単なテントや小屋でナチュリストたちが眠るこれらの施設では、尊重すべき規律として次のようなものがあった。すなわち、自然の食べ物を選ぶ、多くの運動(中でもスポーツは優越的な地位を占めていた)、タバコ及びお酒の断絶、そして私生活の領域に留めておくべき性行為と裸の生活を混同することと闘うための、共同生活地帯におけるきびしい禁欲性である。
1918年、Frei-Körper-Kultur(自由な肉体の文化)という名称が採択された。この運動はまずゲルマン各国(オーストリア、スイス、スカンジナヴィア各国、オランダ)に広まり、2つの大戦の間にフランスに、そして1950年代から北アメリカに広まった。
ナチ政権下のナチュリスム
[編集]1933年、アドルフ・ヒトラーの選挙に続き、とりわけナチュリスムに関することで、一連の禁止が行なわれた。彼はそれをドイツの文化と道徳を脅かす危険なものと考えたのである。
ヘルマン・ゲーリングは「ナチュリスムは女性から自然な羞恥心を奪い、男性からは女性への尊敬を奪い取る。従ってこの名(ドイツ)にふさわしいすべての文化の基盤に危害をもたらすであろう。」と表明した。1933年3月3日の法令により、ゲーリングはドイツ領土において、野外における全裸での水浴及びその他の活動を禁止した。ほとんどのナチュリスト関係の出版物、雑誌は破棄された。ナチの反ナチュリスムは法王ピウス12世によって承認された。
ナチ警察はナチュリストの運動を根絶し、活動の場所を没収するために、彼らを追放する任務を帯びていた。
フランスにおけるナチュリスムの発展
[編集]1920年に、キネ・ド・モンジョ (Kienné de Mongeot) はフランス最初のナチュリストクラブ「スパルタ・クラブ (Sparta Club)」を作った。彼の考えは再び1931年にガストン及びアンドレ・デュルヴィル (Gaston, André Durville) 両博士によって受け継がれ、ヴァール県の海岸の沖に浮かぶルヴァン島 (L'île du Levant) にナチュリスト村ヘリオポリス (Héliopolis) を作った。ヘリオポリスでは海岸は絶対に自由で、誰でも訪れることができなければならなかった。海岸一帯へのいかなる民間企業の参入も認められなかった。そして21世紀においてもこのナチュリストとエコロジストの原理は、コート・ダジュールの海岸のコンクリート化と対照的に生き続けている。
最終更新日--Nudité d'Europe 2006年2月15日 (水) 19:34 (UTC)
翻訳/フランス語版Naturisme 8 février 2006 à 17:28 の版。
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