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利用者:Omaemona1982/下書き2-3

1929年、褐色シャツを着て行進するホルスト・ヴェッセル

本稿では国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の組織突撃隊(SA)の制服について記述する。

褐色シャツ以前の初期の制服

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1921年9月に突撃隊(以下SA)が発足。はじめSAの制服はばらばらであったが、1922年頃にある程度統一された。軍の余剰品であったグレーの防寒着ヴィントヤッケ(ウィンド・ジャケット)を着て、その左腕にハーケンクロイツ腕章を付け、ウエストは斜革付きのベルトで止め、その上着の下には白いシャツにグレーの乗馬ズボンをはき、またダークブルーか黄褐色の山岳帽かシュタールヘルムをかぶるという姿で活動するのが一般的となった。帽子にはハーケンクロイツやトーテンコップ(髑髏)などの徽章が入っていた[1][2]

1923年にはフィールドグレー色の上着とズボンが制服として定められた。この制服は襟を閉じて着用するが、その下には白いシャツと黒いネクタイを着用していた。SAの階級はこの頃4つほどしかなかったが、その階級はハーケンクロイツ腕章の白い帯の数によって示された[2]

1923年11月のミュンヘン一揆の失敗によりSAは禁止されて解散した。しかし偽装組織としてフロントバン(de)が創設され、フロントバンは1922年まで使われていたヴィントヤッケを制服にした[2]

褐色シャツ制服

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1924年に旧SA将校ゲルハルト・ロスバッハ(de)がオーストリア旧ドイツ植民地第一次世界大戦の敗戦で連合国に奪われて喪失)駐留ドイツ軍が使用していた熱帯用シャツ(褐色シャツ)の余剰品を安値で購入した[1][2][3]

1925年2月にSAが再び活動するようになるとこの褐色シャツが制服に代えられ、同色のネクタイと乗馬ズボンとケピ帽とともに着用されるようになった[4][2]。褐色シャツはシャツというより上着であり、その下には襟なしの褐色のシャツを着用した[4]。党員である場合はネクタイに党員バッジを付けた[4]

褐色シャツ導入後もはじめは腕章の白い帯の数で階級を示していたが、1926年11月には腕章に代わる階級章として襟章が導入された。襟章は色付きの布であり、襟章の色と右襟に入った数字によって所属部隊を示し、左の襟章に入った星の数で階級を示した。階級が増えてくると棒線と柏葉も階級章に取り入れられた[2]

褐色チュニック制服

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1931年12月にSAの制服が禁止されると褐色のシャツの上に褐色のチュニックを着たり、乗馬ズボンではなくストレートのズボンをはいたり、ブーツではなく普通の靴を履くなどして偽装が行われるようになった[5]

褐色のチュニックは両胸・両腰の四か所にふた付きの貼り付けポケットが付いており、両胸のポケットにはプリーツが入っていた[6]。SAというと褐色シャツ制服のイメージが強いが、このチュニック制服が日常勤務服となっていき、褐色シャツ制服はパレード用になっていった。

ナチ党政権誕生後の1933年にSAに肩章が導入される。制定当時の肩章は右肩にのみ着用した。またケピ帽のクラウン部分にも襟章と同じ色が入れられるようになった[2]。1933年11月には制服の色が濃くされ、カーキ色から「オリーブドラブ」色になった[2]

1939年9月にはチュニックやオーバーコートの場合は両肩に肩章を付けるようになった。ただし褐色シャツ制服の場合は引き続き右肩にのみ肩章をつけた[7]

礼服

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SAは長らく礼服がなかったが、ナチ党政権誕生後に礼服が制定された。褐色のネクタイをしめた白いシャツの上に褐色チュニックを着用し、帽子やベルトは付けず、黒いストレートズボンをはくというスタイルだった[8]

礼服は通常勤務着に代えることができるとされ、この場合には下着は白いシャツでなく褐色のシャツでもかまわなかったし、帽子やベルトと一緒に着用した[9]

ケピ帽

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SAのケピ帽は1925年に褐色シャツ制服とともに制定された。正面には折り返し部分を止める1個か2個のボタンがついている。初めは全階級で同じケピ帽が使用されていたが、1929年8月にSA大佐以上の階級の者はクラウンに赤い側板を付け、その上縁周りに銀のパイピングを付け、また折り返し部分の上縁周りにも銀のパイピングを付けるようになった。1931年にはすべての将校は折り返し部分とクラウンの上縁周りに銀か金のパイピングを施すようになった[10]

1933年3月にはすべてのケピ帽の側板にSA集団色が加えられた。パイピングについては尉官はSA集団色の2色のパイピングをクラウン部分の上縁周りにのみ入れた。佐官は銀か金のパイピングをクラウン部分の上縁周りにのみ入れた。将官は銀か金のパイピングをクラウン部分の上縁周りに入れ、かつ折り返し部分の上縁周りにSA集団色の2色のパイピングを入れた。この折り返し部分のパイピングに沿って銀か金のトレッセ(太い帯状の線)を入れた。さらに1938年には全ての将校につきSA集団色の2色のパイピングが廃止され、銀か金のパイピングを付けることになった[10]。1939年には金のパイピングはSA幕僚長のみが使用することとなり、それ以外の将校は全て銀となった[11]

なお1929年からはケピ帽の側板に鷲章を入れた。この鷲章は1934年にデザインが変更され、大型になって羽根が横に伸びている。1936年からこのタイプの鷲章が使用されるようになった[10]

SA海軍の制服

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SA海軍(SA-Marine)は1930年に創設された。SA海軍に所属するSA隊員は褐色シャツ制服を着用しながらも乗馬ズボンがネイビーブルー色の独自の物を使った。制帽もケピ帽ではなくネイビーブルー色の軍帽のような帽子を使用した。また右襟章には銀か金ののマークが入っているのが特徴的だった[12]

はじめSA海軍は各SA集団(SA-Gruppe)に所属する存在だったので襟章や肩章などは所属するSA集団の物を使用していた。しかし1934年にSA海軍は各SA集団から独立した一つの存在となり、この時にSA海軍の襟章や肩章などがネイビーブルー色に統一された。またこの年にネイビーブルー色のチュニックが導入され、さらに作業着として白いモールスキンスモックとズボンも導入された[12]

帽子ははじめネイビーブルー色の「収容所帽」かコーンフラワーブルー色の海軍セーラー帽(en)をかぶっていたが、やがて官帽(en)型の制帽をかぶるようになった。帽章ははじめ金の柏葉に囲まれた銀の鷲章というデザインが正面についていたが、1937年にデザインが変更され、柏葉に囲まれるのはSAのマークになり、鷲章はその上のトップ部分に移った[13]

関連項目

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出典

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参考文献

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  • David Littlejohn (1990) (英語). The SA 1921-45: Hitler's Stormtroopers. Men-at-Arms. Osprey Publishing. ISBN 978-0850459449 
  • 『ナチ独逸ミリタリー・ルック―制服・制帽から勲章・ワッペン・徽章まで』サンケイ新聞出版局〈第二次世界大戦ブックス別巻1〉、1972年。ASIN B000J9K9NU 
  • 山下英一郎『制服の帝国 ナチスSSの組織と軍装』彩流社、 エラー: この日付はリンクしないでください。ISBN 978-4779114977 
  • ロビン・ラムスデン(en) 著、知野龍太 訳『ナチス親衛隊軍装ハンドブック』原書房エラー: この日付はリンクしないでください。ISBN 978-4562029297 

en:Uniforms and insignia of the Sturmabteilung