利用者:Omaemona1982/下書き8

ジュゼッペ・ガリバルディ
Giuseppe Garibaldi
ジュゼッペ・ガリバルディ
生誕 1807年7月4日
フランスの旗 フランス帝国 ニース
死没 (1882-06-02) 1882年6月2日(74歳没)
イタリア王国の旗 イタリア王国カプレーラ島
所属組織 リオグランデセ共和国ポルトガル語版
ウルグアイの旗 ウルグアイ
ローマ共和国
イタリア王国の旗 イタリア王国
軍歴 1834年 - 1870年
最終階級 ローマ共和国軍総司令官
千人隊司令官
アルプス猟兵師団司令官
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ジュゼッペ・ガリバルディイタリア語: Giuseppe Garibaldi, 1807年7月4日 - 1882年6月2日)は、イタリアの愛国者、革命家、軍事指導者。

イタリア統一運動を推進するため、多くの軍事行動を個人的に率い、イタリア王国成立に貢献した。南アメリカ諸国の独立運動にも参加し、ヨーロッパと南米での功績から「二つの世界の英雄」とも呼ばる[1]

生涯[編集]

生い立ち[編集]

1807年7月4日早朝、フランス南東部ニースに生まれる。

父は小型帆船を所有して海上運輸を行う船乗りドメーニコ・ガリバルディ。母はその妻ローザ・マリーア・ニコレッタ(旧姓ライモンディ)。ジョゼッペは夫妻の第二子(次男)であり、兄にアンジェロ[注釈 1]がおり、弟にミケーレとフェリーチェ[注釈 2]、妹にテレーザ[注釈 3]がいた[3]。ガリバルディ家は乳母が雇える程度には経済的に余裕があり、またカトリックに真摯に帰依していた[4]。ジョゼッペは家庭教師から教育を受けて育ち、古典、数学、英語を勉強した[5]

ニースはもともとサルデーニャ王国領だったが、1792年フランス革命戦争でフランス革命軍に占領されて以来フランス領となっており、彼が生まれた頃にはナポレオン第一帝政の統治下に置かれていた[6]。しかしナポレオンはナポレオン戦争遂行のためにニースから兵士と高税を取りたて、さらに大陸封鎖令によって欠乏を強要したため、ニース市民の間ではナポレオンに対する反発とサルデーニャ復帰への想いが強まっていた。ガリバルディ家もそうした空気の中でサルデーニャを支持していた。そして1814年のナポレオン敗退に伴ってニースはサルデーニャ領に復帰することになった[7]

船乗りとして[編集]

子供の頃から海への関心が高く、ガリバルディの回顧録によれば友人とともにニースからジェノヴァ、ジェノヴァからトルコへ航海するという無謀な航海計画を立てたが、モナコ沖まで出たところで父の捜索届けを受けて出動した沿岸警備隊の船に捕まり、連れ戻されたという[5]

父は息子に弁護士、医者、聖職者のいずれかになってほしかったというが、この一件で息子の海への情熱を知って自分の跡を継がせることを決意したという。14歳の時の1821年に正式に船員登録を受け、1824年から遠洋航海に出るようになり、教皇領ローマエーゲ海イベリア半島イギリスジブラルタルアフリカスペインカナリア諸島など各所をめぐった。ガリバルディの回顧録によれば、海賊と戦闘になったり、海賊に身ぐるみを剥ぎ取られたこともあったという[8]

1832年には交易船の船長免許を取得している[9]

革命家としてのスタート[編集]

ブリガンタン船クロリンダ号に一等航海士として乗船していた1833年3月、コンスタンティノープルへ向かうクロリンダ号に乗船したサン・シモン主義エミール・バローから深い感銘を受けたという[10]

バローたちをコンスタンティノープルで降ろした後、クロリンダ号はオデッサを経由して1833年6月にロシアタガンログに寄港したが、そこでガリバルディはマッツィーニが組織したイタリア統一と共和主義を標榜する政治結社「青年イタリア」の存在を知った。関心を持ったガリバルディは黒海の航海を終えた後、マッツィーニに会見すべく8月にもマルセイユへ向かったが、マッツィーニはルイ・フィリップ王政によってフランスから国外追放処分にされており、スイスジュネーブに移住していたため、会うことはできなかったという[11]

当時のサルデーニャの法律では男性は40歳までに5年の兵役につかなければならなかったので、ガリバルディも1833年12月にサルデーニャ海軍に入隊した。軍籍には「クレオンブロトス」の名前で登録している。エウリディーチェ号への乗艦を命じられたが、彼はそこでも「青年イタリア」のシンパ活動に励んだ[12][13]

マッツィーニはこの頃、サヴォイア進軍とジェノヴァ蜂起でサルデーニャ王政を揺るがすことを企図しており[注釈 4]、ガリバルディもジェノヴァでの蜂起に参加すべく、1834年2月4日に病気治療を理由にエウリディーチェ号を下船し、ジェノヴァ・サルザーナ広場へ向かった。しかしその時にはすでにサヴォイア進軍はサルデーニャ軍によって鎮圧されており、サルザーナ広場に同志が来る気配はなかった[13]

一方、サルデーニャ海軍では帰艦予定時間を過ぎても戻らないガリバルディを脱走兵と認定した。これによりサルデーニャ官憲に追われる身となったガリバルディは家族のいるニースを経て、2月25日頃にはフランス・マルセイユ(イタリア人亡命者が多く集まっていた)に亡命していった[14]

マルセイユでは友人の家で暮らしつつ、「イギリス人ヨーゼフ・パン」としてフランス船で働いた。ジェノヴァに置かれるサルデーニャ陸海軍軍法会議は1834年6月3日にも欠席裁判でガリバルディに国家反逆罪で死刑判決を下した。これによりガリバルディは亡命イタリア人たちから英雄視されるとともに革命家として後戻りできなくなった。これを機にスイス・ベルンで創設された「青年ヨーロッパ」の支部としての「青年イタリア」に参加したと見られる[15]

南米での闘争[編集]

ブラジル帝政との闘争[編集]

1835年9月にブラジル帝都リオデジャネイロへ向かって出航した。南米へ向かった正確な理由は不明だが、マルセイユでの偽パスポートでの生活が厳しくなったこと、イタリアでの革命運動の停滞、南米イタリア人社会に可能性を見出したことなどが原因として考えられる[16]

同年11月にリオに到着した。まずリオデジャネイロでフリーメイソン民主主義思想を広める活動をしていたイタリア移民ジョゼッペ・ステファノ・グロンドーナポルトガル語版と接触し、グロンドーナの互助組織「博愛結社」を動員して「青年ヨーロッパ」リオ支部を創設した。これを機にガリバルディもリオデジャネイロのフリーメイソンに加入している[17][注釈 5]。しかし間もなくグロンドーナとの対立が深刻化し、1837年2月には「青年ヨーロッパ」リオ支部は解散するに至った[20]

1836年9月に共和政を宣言してブラジルから独立したリオグランデセ共和国ポルトガル語版を支持していたガリバルディは、同国の軍事参謀で亡命イタリア人のリヴィオ・ザムベッカーリイタリア語版ポルトガル語版がブラジル側に捕まると獄中の彼を訪ねてリオグランデセ共和国の私掠免許(敵国船に対する海賊行為の国家の許可)を得た[21]

ガリバルディは早速イタリア人移民の募金で船と銃火器を用意し、1837年5月にも何人かの同志とともに私掠船「マッツィーニ号」を出航させ、ブラジル船籍の船を次々と襲撃するようになった。黒人奴隷が働かされている船では黒人奴隷を解放するとともに、希望する黒人には「マッツィーニ号」の活動への参加を認めたという[22][23]

1838年1月には一時的にブラジル側に逮捕され、厳しい拷問を受けた末に釈放された。これを機に私掠船活動を中止し、リオグランデセ正規軍の軍人に転じ、サンタ・カタリナでブラジル軍と戦った。ここでの戦いで初めてゲリラ戦術を知ったという[24]。この頃にサンタ・カタリナの港町ラグナポルトガル語版で知り合ったアニータと恋愛関係になり、1840年9月には彼女との間に長男メノッティイタリア語版を儲けた[25]

1841年6月にブラジル皇帝ペドロ2世に大赦を願い出てウルグアイモンテヴィデオに移住した。リオグランデセ共和国の運動が停滞していた上、子供を育てなければならなくなったためと考えられている[26]

ウルグアイ防衛[編集]

フアン・マヌエル・デ・ロサス率いるアルゼンチンフルクトゥオッソ・リヴェラスペイン語版率いるウルグアイの「大戦争」が続く中の1842年6月、ガリバルディはアルゼンチンに対して反乱を起こしたサンタフェ州コリエンテス州を併合する任務をウルグアイ政府から依頼された。これを了承したガリバルディは、大砲20門と500人が搭乗した3隻の船団を率いてモンテヴィデオを出航し、コリエンテス海域でアルゼンチンの商業・軍事活動を妨害したが、アルゼンチン海軍の追跡を受けて任務を達成できないまま1842年12月にはモンテヴィデオへ帰還した[27]

この頃すでにモンテヴィデオはアルゼンチン陸海軍によって包囲網をかなり狭められていた。ガリバルディはウルグアイ政府からウルグアイ海軍司令官に任じられるとともにイタリア人義勇兵の組織・指揮を任せられた。ウルグアイ政府は、戦争により出荷が止まっていたブエノス・アイレスの屠殺場での赤色の作業服をイタリア人義勇兵の制服に定め、この制服からガリバルディ率いるイタリア人義勇兵は「赤シャツ隊」と呼ばれるようになった。当初のイタリア義勇軍の士気は低く、敵前逃亡や出撃拒否が多かったが、ガリバルディ自ら指揮をとることで戦意が鼓舞され、夜間の敵陣突破を何度も試みた[28]

1845年夏頃にはモンテヴィデオは陥落寸前に陥ったが、イギリス・フランスの講和介入があった。この講和交渉自体は決裂するものの、これによってウルグアイ軍は再編成の時間を稼いだ。サルトへの遠征軍の司令官に任命されたガリバルディは、野戦を避けて山岳地帯で攻撃を仕掛けることで有利に戦闘を進め、200人程のイタリア人義勇兵で1500人の騎兵と小銃士から成るアルゼンチン軍を撃破することに成功した[29]

1846年9月にモンテヴィデオに帰還したガリバルディはウルグアイ政府よりウルグアイ共和国勲功章を授与された[30]

だがその後、改革派・反オーストリア派と見られていたピウス9世の教皇選出とイタリア統一運動の再度の盛り上がりというイタリア情勢を聞いて望郷の念を強めた。またウルグアイ政界の寝返りや政治的混乱にも嫌気がさしていたので、「ウルグアイにおける自分の任務は終わった」としてウルグアイ軍将軍の地位を蹴って帰国することにした[31]

1848年革命をめぐって[編集]

サルデーニャへの帰国[編集]

1848年4月15日に60名ほどのイタリア人義勇兵とともにイタリアへ向けて出航した。サルデーニャ軍がガリバルディに下した死刑判決はいまだ取り消されていなかったため、まずトスカーナ大公国リヴォルノへ向かう計画を立てた[32]

6月中旬に立ち寄ったスペインマドリード南東アリカンテに近いサンタ・ポラスペイン語版港で1848年革命の進展、すなわちオーストリア首相メッテルニヒやフランス王ルイ・フィリップが失脚したこと、ロンバルド=ヴェネト王国オーストリア帝国の北イタリア支配地域)首都ミラノで反オーストリア蜂起があってオーストリア軍が撤退したこと、サルデーニャが立憲統治を宣言し、北イタリア解放のために義勇兵を募ってオーストリアと開戦したことなどを知った(第1次イタリア独立戦争[33]

このような情勢から直接サルデーニャに上陸してサルデーニャ軍のもとに参じても問題無しと判断したガリバルディは、6月21日に故郷のニースに寄港した。ガリバルディのウルグアイでの活躍はイタリアにも伝わっており、彼は熱狂的な歓迎を受けた[32]

第一次イタリア独立戦争[編集]

ニース市で開かれたガリバルディ帰国歓迎会の席上、ガリバルディは「私が仮初にも王の信奉者であったことはないのはご存じのとおりですが、それはかつて君主たちがイタリアに苦痛を引き起こしていたためです。私は現実主義者です。イタリア半島の再生者であるサルデーニャ王に進んで協力するために出向きます。私はその王のために自分の血を全て流す用意があります」と述べている。イタリア愛国主義に燃える若者はこの演説を聞いて次々とガリバルディのもとに義勇兵として集った[34]

ガリバルディは早速マントヴァ郊外に置かれたサルデーニャ軍大本営に向かい、サルデーニャ王カルロ・アルベルトの引見を受け、王の旗のもとに戦う意思を伝えたが、王は共和主義活動をしていたガリバルディを軍に加えることに難色を示し、共和国宣言していたヴェネツィアへ行くよう勧めた。がっかりしたガリバルディはそれを拒否して臨時政府が置かれていたミラノへ向かうことにした。ガリバルディはミラノでも歓迎され、ミラノ臨時政府から将軍に任命された[35]

1848年7月中旬にはミラノでマッツィーニと初めて会見したが、この頃マッツィーニは共和主義の立場を鮮明にしてサルデーニャによる北イタリア王国樹立計画やイタリア諸侯が任命した議員の憲法制定議会案に反対し、人民の代表で構成される反君主の立憲議会を要求していたため、サルデーニャ王政と協力してイタリア統一を推し進めるつもりであったガリバルディと意見がかみ合わなかった。以降ガリバルディはマッツィーニのことを「現実的判断を欠く空想家・理論家」と軽蔑するようになった[36]

ガリバルディはミラノ臨時政府の命令で5000人の義勇兵を率いて出陣したが、7月24日にはカルロ・アルベルト王率いるサルデーニャ軍がヨーゼフ・ラデツキー率いるオーストリア軍に惨敗したため、イタリア統一運動は早くも暗礁に乗り上げた。ミラノ臨時政府は戦わずしてオーストリアに屈服し、サルデーニャ軍もオーストリア軍と休戦して講和交渉に入ってしまった[37]

休戦協定を尊重するとしつつも憤慨が収まらないガリバルディは、8月13日に「イタリア人に次ぐ」という宣言を発し、カルロ・アルベルト王の行為を「何度も繰り返される卑劣」と批判した。この宣言は北イタリア各地に張り出され、ガリバルディの国民的英雄としての名声は高まった[38]

その後ガリバルディは単独でオーストリアに対するゲリラ戦を開始し、ルイーノではオーストリア軍を破ったが、8月26日モラツォーニでオーストリア軍の奇襲を受けて部隊は壊滅状態に陥った。やむなく部隊を解散させたガリバルディは、スイスとフランスを経由してニースへ逃れた。さらにジェノヴァへ移住し、そこで市民に推されてサルデーニャ王国議会選挙に立候補して当選した(ただしガリバルディ当人は「戦いのために議会活動はできない」と宣言していた)[39]

ローマでの反教皇革命をめぐって[編集]

1848年10月24日にガリバルディはシチリア島で起こった革命を支援すべく、ジェノヴァを発って両シチリア王国ヴェネツィアへ向かったが、その道中の11月、マントヴァからの義勇兵の到着の遅れが原因で教皇領ボローニャの滞在が長引いたため、ガリバルディ部隊に早く出て行って欲しがっていた教皇政府とガリバルディの対立が深まった[40]

その矢先の11月15日に教皇領首都ローマで教皇政府首相ペッレグリーノ・ロッシが暗殺され、それをきっかけに共和主義者の反教皇革命が発生した[注釈 6]。自由主義世俗政府が立ちあげられ、教皇ピウス9世は両シチリア王国へ亡命する事態となった(以降教皇ピウス9世は完全に反動化し、イタリア統一や自由主義と敵対していく)[42]

この革命を聞いたガリバルディはローマの自由主義的な新政府を各国の干渉から守るため、教皇領滞在の延長を決心した。ローマ新政府に自分の義勇軍を提供したいと申し出て許可され、1849年1月には義勇部隊をマチェラータへ移動させた。同月、教皇領全土で行われた立法議会選挙[注釈 7]にガリバルディも立候補し、当選を果たした[42]

部隊をリエーティへ移動させた後、立法議会に出席すべく単身ローマへ向かった。ガリバルディは2月5日の議会で「ローマの運動はシチリアやヴェネツィアでのそれと異なり、古代ローマの中心で古代ローマの末裔が行う運動である」と語り、古代ローマと同じく共和政を取るべきと訴えた。2月9日の立法議会の採決により教皇の俗権剥奪、ローマ共和国樹立が可決された[44]

一方サルデーニャとオーストリアの交渉は1849年3月に決裂し、両国は再び開戦したが、3月23日のノヴァーラの戦いでサルデーニャ軍は惨敗し、オーストリアに屈することになった。カルロ・アルベルト王も退位を余儀なくされた[45]

ローマ共和国防衛[編集]

亡命中の教皇はオーストリア、スペイン、フランス、両シチリア王国に対して教皇俗権回復のため教皇領に共同出兵することを要請していた。フランス大統領ルイ・ナポレオン(後のフランス皇帝ナポレオン3世)は、国内のカトリック右派の支持目当て、またオーストリアがイタリア内で覇権を握ることを阻止すべく、1849年4月にも教皇の要請に応じてローマにフランス軍を派遣した[45]

3月29日、危機的状況からローマ共和国議会は、危難が去るまでの間という条件で三頭執政官に権力を独占させる体制へ移行することを決議した。執政官の一人にマッツィーニが選出され、以降事実上マッツィーニによる独裁体制が成立した[46]

ガリバルディは三頭執政官の要請を受けて4月27日にも義勇軍をローマに入城させ、フランスの侵攻に備えた。4月30日にカヴァレッジェーリへ向かって進軍中のフランス軍と最初の戦火を交え、激しい白兵戦の末にフランス軍を敗走させた。この敗北に動揺したフランス軍はローマ共和国と一時休戦を結んだ。ついで両シチリア王国軍が南から侵攻してきたが、ガリバルディは5月9日にパレストリーナでこれを迎え撃ち、またも敗走させることに成功した[47]

その後ローマへ戻り、病気療養していたが、6月2日には戦力増強したフランス軍が休戦協定を破棄してジャニコロの丘を占領した。ここを奪還できなければローマ共和国は存続できないと考えたガリバルディは6月3日早朝から丸一日かけてジャニコロ丘に決死の攻撃をかけたが、奪還できず、多くの損害を出した[48]



[49][50] [9]


脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 兄アンジェロ(1804-1853)はアメリカで商人として成功し、晩年にフィラデルフィアのサルデーニャ王国領事となった[2]
  2. ^ 弟のミケーレはニースで園芸家となり、もう一人の弟フリーチェは輸出会社の代理人となる[2]
  3. ^ テレーザは3歳の頃の1820年に火災で焼死した[2]
  4. ^ マッツィーニは、自分たちがサヴォイアへ進軍すれば、ウィーン会議の結果サルデーニャに併合されて共和政の歴史を踏みにじられたジェノヴァでも反乱が起こり、サルデーニャ王政を倒すことができると踏んでいた[13]
  5. ^ ガリバルディがフリーメイソンに加入したのはリオデジャネイロのイタリア人が多数そこに参加していたのと、経済界に顔が利くようになり、生活が楽になるためと思われる。ただし19世紀当時フリーメイソンであることは教皇庁から悪魔契約者として敵視されることを意味しており、これにより彼と教会の間には政治的対立以上の敵対関係ができた[18]。しかしガリバルディにとってフリーメイソンは自分の革命運動に利用するという戦術的意味しかなく、フリーメイソンの神秘的儀式への参加は嫌がっていた[19]
  6. ^ 教皇ピウス9世は選出当初は自由主義的な人物と見られており、第一次イタリア独立戦争に際しても対オーストリア戦戦争のために教皇軍を派遣していた。しかしその後オーストリアの圧力に屈して教皇軍を撤収させたため、共和主義者の間で教皇に対する反発が高まっていた[41]
  7. ^ 21歳以上の男子による普通選挙と民主的な手続きのもとで行われたが、亡命中の教皇が「投票に参加した者は破門する」と脅迫して選挙妨害していたため、参加者は少なかった[43]

出典[編集]

  1. ^ He is considered an Italian national hero Garibaldi, Giuseppe (1807-1882) - Encyclopedia of 1848 Revolutions
  2. ^ a b c ガロ 2001, p. 30.
  3. ^ ガロ 2001, p. 25-32.
  4. ^ ガロ 2001, p. 30/34.
  5. ^ a b 藤澤房俊 1987, p. 15.
  6. ^ 藤澤房俊 1987, p. 14-15.
  7. ^ ガロ 2001, p. 43-44/46.
  8. ^ 藤澤房俊 1987, p. 15-16.
  9. ^ a b 世界伝記大事典 世界編3巻(1980) p.171
  10. ^ ガロ 2001, p. 74-76.
  11. ^ 藤澤房俊 1987, p. 18-21/23.
  12. ^ ガロ 2001, p. 81-83.
  13. ^ a b c 藤澤房俊 1987, p. 21-22.
  14. ^ 藤澤房俊 1987, p. 22-24.
  15. ^ 藤澤房俊 1987, p. 14/24-25.
  16. ^ 藤澤房俊 1987, p. 27.
  17. ^ 藤澤房俊 1987, p. 30-31.
  18. ^ ガロ 2001, p. 104-105.
  19. ^ 藤澤房俊 1987, p. 31.
  20. ^ 藤澤房俊 1987, p. 32.
  21. ^ 藤澤房俊 1987, p. 33.
  22. ^ 藤澤房俊 1987, p. 33-34.
  23. ^ ガロ 2001, p. 107-108.
  24. ^ 藤澤房俊 1987, p. 34.
  25. ^ 藤澤房俊 1987, p. 34-35.
  26. ^ 藤澤房俊 1987, p. 36.
  27. ^ 藤澤房俊 1987, p. 37.
  28. ^ 藤澤房俊 1987, p. 38-39.
  29. ^ 藤澤房俊 1987, p. 39-40.
  30. ^ 藤澤房俊 1987, p. 40.
  31. ^ 藤澤房俊 1987, p. 41-43.
  32. ^ a b 藤澤房俊 1987, p. 46-47.
  33. ^ 藤澤房俊 1987, p. 47.
  34. ^ 藤澤房俊 1987, p. 48.
  35. ^ 藤澤房俊 1987, p. 49-50.
  36. ^ 藤澤房俊 1987, p. 50-52.
  37. ^ 藤澤房俊 1987, p. 52-53.
  38. ^ 藤澤房俊 1987, p. 53-54.
  39. ^ 藤澤房俊 1987, p. 54-55.
  40. ^ 藤澤房俊 1987, p. 58-59.
  41. ^ 藤澤房俊 1987, p. 59.
  42. ^ a b 藤澤房俊 1987, p. 59-60.
  43. ^ 藤澤房俊 1987, p. 60.
  44. ^ 藤澤房俊 1987, p. 61.
  45. ^ a b 藤澤房俊 1987, p. 64.
  46. ^ 藤澤房俊 1987, p. 65-66.
  47. ^ 藤澤房俊 1987, p. 67-70.
  48. ^ 藤澤房俊 1987, p. 72-73.
  49. ^ ガロ(2001) p.47
  50. ^ 藤澤(1987) p.47

参考文献[編集]

  • ガロ, マックス 著、米川良夫樋口裕一 訳『イタリアか、死か 英雄ガリバルディの生涯』中央公論新社、2001年(平成13年)。ISBN 978-4120031410 
  • 藤澤房俊『赤シャツの英雄ガリバルディ 伝説から神話への変容』洋泉社、1987年(昭和62年)。 
  • 『世界伝記大事典〈世界編 3〉カークリ』ほるぷ出版、1980年(昭和55年)。ASIN B000J7VF5I 

関連項目[編集]

空母ジュゼッペ・ガリバルディ

ガリバルディの名前に由来して名付けられたイタリア海軍の軍艦が2隻存在している。

その他名前に由来する事物に関しては、ガリバルディから各記事を参照