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利用者:Omaemona1982/sandbox

清仏戦争と甲申事変をめぐって[編集]

壬午軍乱後、清国は呉長慶率いる約3000人の兵を朝鮮に上陸させ、治安維持という名目で漢城(ソウル)に駐留させるようになり、その軍事力を背景に本格的な朝鮮支配に乗り出していた。日本も済物浦条約に基づき日本公使館防衛のため漢城に二個中隊を置いていたものの、数で圧倒的に勝る清軍に牽制された。1882年9月の清朝商民水陸貿易章程、清国の李鴻章の外交顧問であるドイツ人メレンドルフが朝鮮に派遣されて朝鮮政府の高官となったことなどは、清国の朝鮮支配の強化の表れだった[1][2]

朝鮮に駐留する清軍は横暴を極め、清兵が朝鮮民衆に殺人や略奪を行っても、清軍はまるで処罰しようとしなかったので、朝鮮民衆の不満は高まっていた[2]。惨めな属国状態に憤慨する親日派の独立党は、事大党(親清派)の閔氏政権との対決姿勢を強め、日本に助力を求めたが、日本の外務卿井上薫は、対清軍事力の不備、財政上の困難、独立党勢力の弱体化などから、過度に独立党を支援して清国と完全な対決関係に入ることには慎重姿勢だった。日本政府の閣議でも、朝鮮問題について、清国と朝鮮の宗属関係は認めない独立論を維持し、これに若干の援助は与えるが、積極的な独立推進策は取らないという方針が確認されている[3]。そうした本国政府の方針のもと、日本公使竹添進一郎は、独立党を疎外して事大党に接近を図ったり、1883年8月には漢城に駐留させている二個中隊の約半数を日本に帰還させるなど、約1年半にわたって対清宥和路線を取った[1]

しかし1884年(明治17年)6月、清国とフランスがベトナム支配権をめぐって開戦し、清仏戦争が勃発した。清国は対フランス戦線に動員するため、朝鮮駐留軍のうち約半分を朝鮮から撤退させることを余儀なくされた。後ろ盾の駐留清軍の弱体化に焦った閔氏政権は、日本や独立党に対する態度を軟化させるどころか、清朝商民水陸貿易章程の均沾問題の不承認などにみられるように、むしろ強硬姿勢を強め、独立党の全面弾圧(流刑など)も企てるようになり、情勢は一層緊迫化した[4]

明治16年(1883年)10月に日本に帰国していた竹添公使は、明治17年(1884年)10月30日に漢城に帰任したが、予想以上の情勢の緊迫化を知り、以前とは一転して独立党に接近した[1]。独立党は、清軍の半数がフランスとの戦争に回されて不在の今こそ閔氏政権打倒のチャンスと考え、11月4日に竹添公使に具体的なクーデター計画を提出して支援を求めた。竹添公使は、11月12日に甲乙案を作成して本国の外務卿井上薫に送付して訓令を仰いだ。甲案は対清開戦を決意のうえで独立党のクーデターを支援するもの、乙案は清国との対決を回避して不干渉の立場を取るものであり、竹添は甲案を推したが、11月28日、井上は乙案を指示する訓令を竹添に出した。清国との決定的対立は回避する政府方針に依然として変更はなかったからである[1]

しかし現場にあって情勢への焦燥を強めていた竹添公使は、政府の方針を踏み越えて独立党支援に傾斜していた。井上の訓令が到着するより早く、12月4日に独立党のクーデタが開始された(甲申事変[5]。独立党の金玉均や朴泳孝らは、昌徳宮で国王高宗の謁見を受けると、清軍が国王の身柄を押さえようとしているとして、国王を昌徳宮から離宮の景祐宮に移し、日本公使に宛てて護衛を求める勅書を書くことを求めた。それを受けて竹添公使は日本公使館守備隊の一個中隊を率いて景祐宮に入城。その後、独立党は国王に閔台鎬ら閔氏政権の中心人物を召集させ、彼らが景祐宮にやってきたところを殺害することで政権を奪取した。18日に独立党は高宗や日本軍とともに昌徳宮に戻り、王族の李載元朝鮮語版を左議政、洪英植を右議政とし、徐光範、金玉均、朴泳孝など独立党要人が要職に名を連ねる新政権を発足させた。新政権は清国との宗属関係を拒否する宣言を出したが、朝鮮駐留清軍指揮官呉兆有幕下の袁世凱率いる清軍が昌徳宮を包囲して攻撃を開始した。駐留清軍は半数が撤退していたとはいえ、一個中隊しかない駐留日本軍を圧倒するには十分な兵力があり、形勢不利と見た竹添公使は昌徳宮から撤退を決意し、仁川から日本郵船の千歳丸に乗船して日本へ逃れていった。独立党主要メンバーのうち金玉均や朴泳孝は竹添公使に従って日本に亡命したが、右議政に就任していた洪英植は高宗に従って昌徳宮にとどまることを決意したため、その後昌徳宮を占領した清軍により殺害された。それ以外にも甲申事変に関わった独立党の家族の多くが殺害されたり、自殺に追いやられた[6]。クーデタの失敗・独立党壊滅で朝鮮における親日勢力は消滅、清軍は日本に勝利したことで朝鮮における威信を高め、ソウルを軍事的に完全掌握した[7]。閔氏政権によって日本人居留民29名が殺害され、日本公使館も焼き払われた[6][8]

漢城でのクーデタの発生と失敗について12月13日までには日本政府に判明した[7]。12月19日の閣議で、外務卿井上馨を特命全権大使として朝鮮に特派すること、朝鮮政府には、日本使臣への暴行、日本公使館の破壊、日本人殺害について処罰と賠償を求めること、清国政府には、日清双方の朝鮮からの撤兵、今度の事変で日本に攻撃をしかけた清軍指揮官の処罰を要求することが閣議決定された[7]

12月21日に天皇は井上薫を召して、朝鮮へ送る特派全権大使に任じ、また次の内訓状を与えた。「朝鮮国王に謁見し、朝鮮国全権大臣と談判して今回の事変の責任の所在を明らかにし、適切な処罰を実行しなければならない。日本公使館が受けた被害の損害の賠償を受け取らなければならない。また、もし、朝鮮国王から日本公使に対して護衛依頼があった事実が認められた場合、事件に関する内外の疑惑を晴らすため、朝鮮国王は日本国天皇に謝罪の書を呈しなければならない。また清国に対しては将来の平和維持のため、日本と共に朝鮮駐在の軍隊を撤退させることを約束させねばならない」[9]

井上が漢城に到着する前、朝鮮側は、竹添公使のクーデターへの関与を非難する強硬な態度に出ており、交渉決裂して日朝開戦に至りそうな空気が漂っていた。朝鮮の強硬姿勢は、甲申事変で清軍の指揮を執っていた袁世凱によって推進された物だった。袁世凱は、この事変に乗じて朝鮮に監国(総督)を置いて朝鮮の内外政を代行し、朝鮮属国化の一挙実現を目指す構想を持っており、日本に先んじて大軍を朝鮮に送り込む必要性を主張していたためである。しかし対フランス戦争の最中にある清国本国としては、日本との間に新たな戦線を開くわけにはいかず、対日戦争に至る可能性が高い袁世凱の強硬路線は取りうるものではなかった。清国は呉大澂に数百の兵を預けて朝鮮に派遣、明治18年(1885年)1月1日に呉は朝鮮国王高宗の謁見を受けると、日本に譲歩すべきことを要求した。清国に従順な朝鮮政府は、これを受けてただちに「1.竹添公使の責任は不問、2.国書による謝罪は認める、3.日本公使館焼失の賠償や日本人被害者への恤給(見舞金)の如何は交渉次第、4.日本の駐兵権の拡大は拒否する」という新たな対日交渉4方針を立てた。呉が最も恐れていたのは日本の駐兵権の拡大であり、謝罪や賠償や恤給など事件後始末の範囲で済む要求なら受諾して問題ないという判断だった。この朝鮮側の交渉方針の転換は1月4日には日本側の知るところとなっており、井上も対朝・対清交渉の方針を最終的に固めることができた[10]

実際に日朝会談が始まる前から日本側の要求と朝鮮側の譲歩許容範囲内はほぼ一致していたわけだが、1月7日から井上馨と金弘集の間で始まった日朝会談は、金が竹添公使が原因と追及し、井上がそれに抗議し、交渉における原因問題の一切排除を主張したが、金は原因論も議論すべきと主張して譲らず、交渉が進まなかった。これに対して、井上はこのままでは交渉は決裂するが、その時は戦争とならざるをえないと強硬な姿勢を示しながら、他方で井上角五郎を朝鮮側に遣わして 「(条約では)敢て償金の多きを望まず、 又(国書の)文辞の卑きを欲せず、唯今回の変乱曲は日本に在りと云ふことなくんば可なり」と宥和的な意を伝えるなど、硬軟併用しての交渉の進行を図った。 その結果、翌8日の交渉はスムーズに進み(一時呉が介入してきて混乱をきたす一幕があったが)、9日に日朝両国は漢城条約を締結した[10]。その主な内容は「一、朝鮮政府は国書によって日本政府に謝罪する」「二、朝鮮政府は日本人被害者遺族への恤給および商民の物質的被害への填補として11万円を支払う」「三、朝鮮政府は磯村大尉殺害(事件中の混乱の中で朝鮮民衆により殺害された日本軍人で日清両軍衝突の死者ではない)の犯人を逮捕・処罰する」「四、日本公使館及び兵舎は朝鮮側負担により再建される」などである[10][6]

  1. ^ a b c d 高橋秀直 1989, p. 299.
  2. ^ a b 新城道彦 2023, p. 158.
  3. ^ 高橋秀直 1989, p. 298.
  4. ^ 高橋秀直 1989, p. 303.
  5. ^ 高橋秀直 1989, p. 299/304.
  6. ^ a b c 新城道彦 2023, p. 160.
  7. ^ a b c 高橋秀直 1989, p. 306.
  8. ^ 高橋秀直 1989, p. 300.
  9. ^ ドナルド・キーン下巻 2001, p. 43.
  10. ^ a b c 高橋秀直 1989, p. 312.