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アギナルド記念館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エミリオ・アギナルド記念館
Dambanang Emilio Aguinaldo
外観
情報
旧名称 エミリオ・アギナルド邸
用途 記念館、史跡
旧用途 邸宅、大統領公邸
設計者 エミリオ・アギナルド[1]
事業主体 フィリピン政府英語版
管理運営 フィリピン国家歴史委員会
構造形式 フィリピン・コロニアル様式(英語)(アメリカ委任統治時代)
敷地面積 4,864 m² [2]
延床面積 1,324 m² [2]
状態 完成
階数 5階 (2階と3階の間に中間層)
着工 1845年
改築 1849年、1919年
所在地 カヴィテ州カウィトゥ(英語)ティロナ・ハイウェー
座標 北緯14度26分42秒 東経120度54分25秒 / 北緯14.44500度 東経120.90694度 / 14.44500; 120.90694 (エミリオ・アギナルド記念館
Dambanang Emilio Aguinaldo
)
座標: 北緯14度26分42秒 東経120度54分25秒 / 北緯14.44500度 東経120.90694度 / 14.44500; 120.90694 (エミリオ・アギナルド記念館
Dambanang Emilio Aguinaldo
)
文化財 国の記念堂
指定・登録等日 1964年6月18日
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エミリオ・F・アギナルド

エミリオ・アギナルド記念館(エミリオ・アギナルドきねんかん タガログ語: Dambanang Emilio Aguinaldo, : Emilio Aguinaldo Shrine)は、フィリピンカビテ州カウィトゥ英語版にある国の史跡で博物館相当施設。1898年にスペインからフィリピンが独立を宣言した日[3]にちなみ、政府高官が毎年6月12日に国旗掲揚の儀式を行う。この日は現地では独立記念日アラウン・カラヤアン(タガログ語: Arawng Kalayaan)と呼ぶ国民の祝日英語版である。

来歴

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記念館はエミリオ・アギナルドの生家で、元はフィリピン古来の家屋様式英語版[4]の木造でわらぶき屋根の家を1845年に建てた。1849年に立て直し、1869年3月22日にそこでアギナルドが生まれている[5][6]。アギナルドは初代フィリピン大統領であった時期と、同国第一共和国唯一の大統領としてここを公邸とした。

独立記念日

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アギナルド記念館のバルコニー (カビテ州カウィト)
独立宣言のバルコニー

1898年6月12日、スペインからの独立が大ホールの窓から宣言された。フィリピン独立宣言の原文は、作家のアンブロシオ・リアンサレス・バウティスタ英語版が起草したものである[7]。マロロス議会による独立宣言の批准は、1898年9月21日であった[8]

アギナルド大統領が1919年から1921年にわたり自邸を大幅に増築したおかげで内外装が整い、旗と国の記念碑にふさわしくなった[9]。凝った造りの「独立バルコニー」を増築したのもこの時で[5]、以降、大統領と最高幹部がフィリピン独立記念日の祝賀にそこに立つことになる。つまり、このバルコニーは1898年の独立宣言の時にはなかった。

アギナルドは生前の1963年6月12日に「1896年のフィリピン革命によりスペインの植民地を脱した精神の末永い継承のため」自邸をフィリピン政府に寄贈した[2][1]

国旗と国歌

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独立記念式典が1898年5月28日に開かれ、エミリオ・アギナルドがデザインしたフィリピンの旗は正面の窓からうやうやしく掲げられた。この旗が最初に翻ったのはその2週間前[注釈 1]、アラパン戦線(イムス)であった。このとき、国旗掲揚に合わせて演奏されたフィリピンの国歌も、アルテミオ・リカルテ将軍配下のマーチングバンド[注釈 2]によって初演された。器楽曲ホセ・パルマ英語版の歌詞がつくのは1899年を待つことになる。

国定史跡に指定

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エミリオ・F・アギナルドは1964年2月6日、ケソン市の退役軍人記念医療センター(Veterans_Memorial_Medical_Center)で息を引き取った[12]。94歳であった。同年、政府はディオスダド・マカパガル大統領が共和国布告第4039号に署名し、6月18日に国の史跡に定められた旧邸は記念館となった[5]

解説

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アギナルド公園

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川に接する敷地は、かつて、にぎやかな通りに面していた。区画整理を経て1998年のフィリピン建国百周年記念に開いたアギナルド公園となり、現在は当館の敷地に組み込まれた。長い遊歩道が伸び、プールが2基あって、アギナルドの銅製の騎馬像がたたずむ。

本館

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増築したバルコニー(塔の右)
西棟2階のテラス〈罪人の殿堂〉
アギナルド記念館の外壁の飾りは水牛の正面像。
外壁の水牛の飾り
アギナルド記念館の東棟を地表から見ると、屋根のない屋上テラスがある。
東棟の端

アギナルド自身の設計による邸は、延べ床面積およそ1300 m2である[2]。祖国を象徴するモチーフをそこかしこにあしらってアンティーク家具を並べ、また書類や武器の隠し場所や秘密の通路を特徴とする。建物は3つの部分に分かれ、西側に本館、東側に家族棟、それを結ぶ5階建ての中央棟の塔屋[13]は、最上部に尖塔をいただく。中三階をひとつの階と数えて「6階建て」と称する例がある。従来、当時の家の設計の典型にならい、1階に壁はなかった[5]ところを区分し、現在はアギナルドゆかりの品その他、歴史的遺物を展示する。ホログラムを用いて、1898年6月12日の独立宣言前夜のアギナルドを描いた展示が見られる[13]

2階大広間は会議室に使われ、1898年当時は現在のバルコニーは存在せず、大広間の窓から独立宣言を読み上げた。バルコニーは1919年の改装時に付け加えたもので、やはりアギナルドが自ら設計した[1]。同じ階のダイニング(食堂)は、天井に施されたフィリピン国土の浮き彫り地図英語版が見どころである。この階には厨房のほか、アギナルドの寝室、別の会議室があり、西棟の端は屋根をかけたテラスである。スペイン当局に対する武装蜂起を密かに図っていたアギナルドは、この翼棟のバルコニー(アゾテア)に「ガレリア・デ・ロス・ペカドレス」(罪人の殿堂)と名付けた[5][14][15]。東棟には将軍の娘3人それぞれに個室を与えていた。

大ホールを見下ろす中三階に図書室がある。さらに階段を上ると、3階の「大使室」は将軍の女婿ホセ・メレンシオ大使が使った書斎である。次の4階にはアギナルドが後半生に使った別の寝室を置く。タイル張りのテラスからの往時の眺めは素晴らしく、遠くマニラまで見渡せた。非常に狭いはしごはアギナルドのお気に入りと伝わっており、塔の頂上へ通じる。

庭園

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エミリオ・アギナルドの墓所

緑豊かな邸宅の敷地は東に川、南は養魚池に接する。屋外の展示ケースに収まる1924年製パッカードリムジンは、アギナルドの自家用車であった(2009年11月修復[16])。

裏庭の墓所に初代大統領が永眠する[4]

資料展示室

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建物の1階に設けたアギナルドの資料展示室は、フィリピン国家歴史委員会が管理する[2]

脚注

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注釈

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  1. ^ フィリピン国旗を初めて掲揚した日は別途、フィリピン国旗の日英語版という祝日である。
  2. ^ 国歌初演の楽団の所在はサンフランシスコ・デ・マラボン、現ヘネラル・トリアス英語版

出典 

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  1. ^ a b c Javellana, Zialcita, et al. 1997, pp. 66–69.
  2. ^ a b c d e Historical Sites of Cavite” (英語). Provincial Government of Cavite Website. 2011年12月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月18日閲覧。
  3. ^ GMANews.TV – Arroyo to receive 320 Fil-Ams, Fil-Canadians Monday – Nation – Official Website of GMA News and Public Affairs – Latest Philippine News – BETA” (2008年7月13日). 2009年1月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年7月13日閲覧。
  4. ^ a b Gierloff-Emden 1987, p. 70.
  5. ^ a b c d e The Aguinaldo Shrine” (英語). Philippine Culture – Filipino.biz. 2011年10月16日閲覧。
  6. ^ Valmero, Anna (2011年4月8日). “Revisiting the Aguinaldo Shrine” (英語). GoBacoor. 2011年10月17日閲覧。
  7. ^ Halili 2004, p. 162.
  8. ^ Guevarra, Sulpicio (1972). "The laws of the first Philippine Republic". p.5. National Historical Commission.
  9. ^ Quezon III, Manuel L (2002年4月2日). “History of the Philippine Flag” (英語). Flags of the World. 2008年2月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月20日閲覧。
  10. ^ a b 明治大正昭和新聞研究会 2017, p. 386.
  11. ^ 明治大正昭和新聞研究会 2017, p. 388.
  12. ^ 日本の新聞に載った訃報は、「エミリオ・アギナルド氏死去」[10]、「親日家だったアギナルド将軍」[10]、「アギナルド将軍の死に池田首相弔電」[11]
  13. ^ a b A House of History” (英語). National Historical Institute of the Philippines. 2011年10月19日閲覧。
  14. ^ Innocenti (2005年1月5日). “Philippines, Cavite, Kawit (01-05-2005)”. Panoramio.com. 2018年10月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月17日閲覧。
  15. ^ aiebo (2007年12月27日). “Aguinaldo's House at Kawit Cavite” (英語). Panoramio.com. 2018年10月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月17日閲覧。
  16. ^ ericaorange (2010年6月13日). “The House of Gen. Emilio Aguinald” (英語). Tara Na!. 2011年1月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月17日閲覧。

参考文献

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脚注の文献。主な執筆者名順。

  • 明治大正昭和新聞研究会(編)「新聞集成」昭和編年史39年版I (自1月-2月)、新聞資料出版、東京、2017年4月、全国書誌番号:22875454 ISBN 978-4-88410-306-4。 別題『仏、中共承認』
洋書

関連項目

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関連資料

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本文の典拠ではない資料。発行年順。

  • Engelhardt, E C (編集f). "Waterway of Aguinaldo's Capital, Malolos". E.C. Engelhardt photograph collection. 1871年–1929年? OCLC 47195783 写真。
  • Mabini shrine and other shrine pamphlets in the series : bound with Emilio Aguinaldo y Famy. フィリピン国家歴史委員会(編・発行)、1976年、改訂版1987年。OCLC 50056971 仮題『マビニ記念堂ならびに同シリーズの他の記念館の解説資料:史跡項目「Emilio Aguinaldo y Famy」関連』
  • Aguinaldo shrine. フィリピン国家歴史委員会(編・発行)、1978年。NCID BA59590113。仮題『アギナルド記念館』
  • 山田 美妙『フィリッピン独立戦話あぎなるど』中央公論社〈中公文庫〉、1990年。ISBN 4122017327NCID BN05894794
  • 林 義勝、Sato, Gayle K.、寺内 威太郎、高田 幸男「第2章 フィリピンから見た20世紀転換期の米比関係—アメリカ・フィリピン戦争を中心に(アメリカ・フィリピン戦争とエミリオ・アギナルド;アメリカ・フィリピン戦争の展開;アメリカ・フィリピン戦争と黒人兵士;シスト・ロペスの言論活動)」『アジア周縁から見たアメリカ : 1850〜1950年』 彩流社〈明治大学人文科学研究所叢書〉、2010年。ISBN 9784779115387NCID BB02273989
  • Paraiso, Bryan Anthony C ; Zerrudo, E P ; Bautista, Angel P ; Nacario, Nady S ; Jose, Regalado Trota ; Madrunio, Marilu R. Revising the artifact interpretation and narrative in the Museo ni Emilio Aguinaldo. 聖トマス大学 (M.A. in Cultural Heritage Studies), 2016. OCLC 989317156 学位論文/卒業論文。仮題『エミリオ・アギナルド記念館の歴史資料解説文ならびに展示の再考』

外部リンク

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以下は特筆する場合を除き、英語版。