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ラニ・ガイディンリュー | |
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Rani Gaidinliu | |
生誕 |
1915年1月26日 英領インドマニプール州ナンカオ村Nungkao village, |
死没 |
1993年2月17日 (78歳没) インド、マニプール州ロンカオ村Longkao, en:Manipur |
国籍 | インド |
別名 |
ガイディンリュー Gaidiliu |
職業 | ナガ族のen:Zeliangrong部族の心のよりどころ、政治的指導者 |
著名な実績 | イギリス領インド帝国に対する武力闘争 |
ガイディンリュー(英: Gaidinliu1915年1月26日-1993年2月17日)はイギリス領インド帝国に対するナーガ族反乱運動の指導者。とくに先住民の心のよりどころでありを政治的リーダーとして慕われる [1] 。
13歳でいとこのハイポー・ジヤドナン(Haipou Jadonang)に触発され、ヘラカ信仰(Heraka)に入る。宗教色の濃い集団はやがてマニプールとその周辺のナーガ地域からイギリス人を追い払う政治運動に発展していく。やがてヘラカの信者から女神「ケラチャムディンリュー」の化身と見なされ始めたガイディンリューは[2]、16歳になった1932年に逮捕されるとイギリスの統治者に終身刑を言い渡される。服役したシロン刑務所に1937年、ジャワーハルラル・ネルーが面会に現れ、きっと釈放を求めると約束して「ラニ」(女王)の称号を贈っている。地元の人々はラニ・ガイディンリューとしてますます精神的なよりどころとしていく。
ガイディンリューはインド独立後の1947年に釈放されたのちも、人々を高揚させるために働き続けた。ナーガ族の祖先の宗教的慣習を擁護し、キリスト教への改宗に強く抵抗し続ける。インド政府はパドマ・ブーシャン章により、自由の戦士ガイディンリューの栄誉を顕彰している。
幼少期
[編集]ガイディンリューは1915年1月26日、マニプール州タメングロング地区(英語版)の現トゥセム小区にあったヌンカオ村(ロングカオ村)生まれで、出自はロンメイナーガ族(英語版 カブイ族とも)である。父はロトナン・パメイ、母はカチャクレリューといい、一家は村を治める一族と血縁があった[3]。子どもは8人おり姉4人に次いで生まれた5人目で、下に妹2人と弟ひとりがある[4]。村に学校がなかったため、正式な教育を受ける機会がなかった[5]。
いとこの信仰を追って弟子入り
[編集]13歳になった1927年、ガイディンリューはHerakaの信仰に身を投じる。地元の著名な指導者はいとこのHaipou Jadonangで、ナーガ族の伝統宗教を蘇らせようと復活をかけて頭角を表していく。また宗教活動にとどまらず、イギリスの統治を終わらせてナーガ族の自治確立( ナガ藩王国)を目指したため、広くゼリアンロング族(ゼメ族Zeme 、リャンマイ族 Liangmai 、ロンメイ族 Rongmei )から多くの信者が集まった。人々は カシャール(Cachar)から銃を手に入れ、イギリス人に強要される抑圧と強制労働に抵抗する武装闘争へと変質していく。
教祖ジャドナンの教義と思想に心酔したガイディンリューは弟子となり反イギリス運動にも参加、3年後に16歳になるころにはイギリス支配と戦うゲリラのリーダーになる。
ゲリラ戦と投獄
[編集]指導者であったジャドナンは1931年にイギリスに逮捕され絞首刑に処される。ガイディンリューは教祖として、また政治思想の後継者として注目され始めた[6]。
イギリスの統治に公然と反抗し、ゼリアングロン族の人々に納税拒否を勧めたガイディンリューは、地元のナーガ族から経済的に支えられ、またゲリラ活動に手弁当で駆けつける人々に囲まれていた。イギリス当局は指名手配を敷き、警察の目を逃れたガイディンリューは現在のアッサムからナーガランド、マニプールの村から村へと移動していく。ナーガ丘陵副長官のJ・P・ミルズから対応を迫られると、アッサム知事はアッサム・ライフル部隊第3、第4大隊を差し向けて、なんとかガイディンリューを逮捕させようとする。とうとう懸賞金をかけられ、居場所を知らせる者の村は向こう10年にわたり減税の特典を得るとまで、通告がされる。それでもゲリラ部隊はアッサム・ライフル部隊とカシャー北部丘陵(1932年2月16日)およびハングルム村(同3月18日)で武力衝突武力紛争に及び、転戦を続ける。
1932年10月にガイディンリューが移ったプロミ村で、信者たちは木造の砦を建て始めるが、完成前の10月17日、アッサム・ライフル部隊からマクドナルド隊長以下の精鋭が村に奇襲攻撃をかけ、ケノマ村の近くでガイディンリューは信者とともに投降する。アッサム・ライフル部隊のハングラム駐屯地の攻撃、あるいはプロミ村の砦の建設を指揮したという嫌疑をかけられるが、すべて否定した[2]。同年12月、レン村とボプンウェミ村出身の信者がナーガ丘陵のラケマ仮設審理所を襲い、教祖の逮捕につながる密告者として警備員(Kuki chowkidar)を殺害。するとガイディンリューはインパールに移送され、殺人と殺人禁忌容疑をめぐる裁判は10ヵ月にわたる。有罪で結審すると、行政代理裁判所は殺人罪による終身刑を宣告[7]、このときゲリラ活動の仲間はほとんどが処刑または投獄されている[5]。
刑に服したガイディンリューは1933年から1947年の期間にグワーハーティー、シロン、アイゾール、あるいはトゥーラへと刑務所から刑務所へ移送された。ガイディンリューとジャドナンが提唱したイギリスへの納税拒否という手法は、各地の反イギリスを掲げる抵抗運動へと広がっていく。しかしながら1933年にゼリアンロング族の抵抗運動を引き継いだ最後の後継者ディケオとラムジョが逮捕されると、抵抗運動は衰えていく。ジャワハルラール・ネルーは1937年にシロン刑務所に面会に訪れ、釈放を求めると約束し、新聞の「ヒンドゥスタン・タイムズ」に声明を寄せている。その中でガイディンリューはナーガ丘陵の娘であり、部族の「ラニ」、つまり女王であると称えた。ネルーは書面でイギリス国会議長アスター夫人()にラニ・ガイディンリューの釈放に助力を求め、夫人はイギリス領インド帝国国務長官に対応を迫るが、聞き入れられなかった。
インド独立後の生活
[編集]1946年にインド暫定政府が樹立すると、ラニ・ガイディンリューはネルー首相の命令により服役を解かれる。14年にわたり、いくつもの刑務所間を移送された末、最後に収監されていたトゥーラ刑務所で解放されると、民族の人々の立場を上げるために心血を注ぐ。弟マランと一緒にトゥエンサンのヴィムラップ村で暮らし、1952年についに故郷のランカオに戻ることを許可された。1953年、インパールを訪問したネルー首相と面談したラニ・ガイディンリューは自分の民族の人々の感謝の念を首相に伝えている。後年、デリーでネルーと再会し、ゼリアンロン族の発展と福祉について話し合うことになる。
インドからの分離派を擁護したナガ民族評議会 (NNC)は武装勢力を、ガイディンリューは認めていない。代わりにインド連合内にゼリアンロン固有の行政区を設けるよう主張する[2] :147。ところがナーガ族の反政府派指導者たちは、単一の行政単位にゼリアンロン部族を押し込めるつもりかと批判し、さらにヘラカ、つまりはナーガの伝統的な自然崇拝の復活にガイディンリューが口を挟むことに反対した。 NNCの指導者たちは、彼女が動くと自分たちに不利だと考えたのである。他方、キリスト教バプテスト派の指導者たちは、ヘラカ復興運動を反キリスト運動と見なし、立場を変えない限り、深刻な事態を招くと警告する。ヘラカ文化を守り、自らの立場を強めようと、ガイディンリューは1960年に地下生活に入ってしまう[8]。
高齢の身には厳しい地下生活を6年送り、1966年にインド政府との合意のもとでラニガイディンリューは密林の隠れ家を離れ、民族のために平和で民主的、非暴力の手段による社会改善に取り組む。1966年1月20日にコヒマを訪れると1ヵ月後の2月21日にラル・バハドゥル・シャストリ首相とデリーで面談し、ゼリアンロンに固有の行政単位を設定するように陳情する。同年9月24日、信者のうち320人がヘニマ で投降、数名はナガランド武装警察に拘留された。
コヒマ滞在中の1972年に「タムラパトラ自由の闘志賞」を、1982年にパドマブーシャン章 [9]、1983年には ヴィヴェー・カナンダセヴァ賞を授与された 。
死去
[編集]1991年に生地ロンカオに戻ったガイディンリューは1993年2月17日に78歳で亡くなる [10] [11]。
マニプール州知事チンガマーニ・パニグラヒ、ナーガランド民族代表、マニプール州高官および北東地域全域から多くの弔問客がロンカオの村を訪れた。インパールではマニプール州Chief MinisterR・K・ドレンドラシン、副行政官 リシャン・ケイシンらが献花し 州政府は命日を祝日に指定した。
ラニ・ガイディンリューはビルサ・ムンダ賞を追贈されたひとりである。インド政府は1996年に郵便切手を発行して遺徳をしのひ、2015年には記念貨幣を発行している[12]。
未来に残すもの
[編集]ヘラカ運動がキリスト教に強い反感を示したせいでナガ族の間では、特に1960年代に改宗した人々はガイディンリューの功績を評価することはなかった。立場がインド政府に近いと判断されたこともあり、同じナガ族の間でも民族主義グループには認められていない。 1970年代にヒンドゥー民族主義者のサン・パリヴァルがハラカ運動に同調したことから、キリスト教徒にはガイディンリューをヒンドゥー教支持者と考える傾向が色濃くなった [13]。
ガイディンリュー記念館建設に中央政府とT・R・ゼリアン:en:T.R.Zeliang 州政府が動いた2015年、ナガランド州では複数の市民組織が反対を表明した[14]。
出典
[編集]- ^ Kusumlata Nayyar (2002). Rani Gaidinliu. Ocean Books. ISBN 978-81-88322-09-1 12 June 2013閲覧。
- ^ a b c Arkotong Longkumer (4 May 2010). Reform, Identity and Narratives of Belonging: The Heraka Movement in Northeast India. Continuum International Publishing Group. pp. 162–176. ISBN 978-0-8264-3970-3 12 June 2013閲覧。
- ^ 97th birth anniversary of Rani Gaidinliu observed. Assam Tribune, 30 January 2012.
- ^ Rani Gaidinliu – the true freedom fighter, India-north-east.com
- ^ a b The Rani Of The Nagas by Pritam Sengupta. Outlook, 22 August 2005.
- ^ S. S. Shashi (1996). Encyclopaedia Indica: India, Pakistan, Bangladesh. Anmol Publications. p. 1270. ISBN 978-81-7041-859-7 12 June 2013閲覧。
- ^ History Of the Frontier Areas Bordering On Assam 1883–1941 by Sir Robert Reid, page 86.
- ^ Amit Kumar Nag (1976). Rani Gaidinliu: A Study of the Jadonang Movement of the Nagas. Tribal Mirror Publications. p. 18 12 June 2013閲覧。
- ^ “Padma Awards”. Ministry of Home Affairs, Government of India (2015年). 21 July 2015閲覧。
- ^ Rani Gaidinliu. Eastern Panorama.
- ^ Remembering Rani Gaidinliu and her legacy. E-pao.net. Retrieved on 29 November 2018.
- ^ Commemorative Coin. Indianexpress.com. Retrieved on 29 November 2018.
- ^ Rahul Karmakar (14 June 2015). “Rani Gaidinliu: A Naga queen and BJP's spin machine”. Hindustan Times
- ^ Prasanta Mazumdar (23 August 2015). “Nagaland Outfit Joins Chorus Against Rani Memorial”. Indian Express
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